投稿日:2023-03-16 Thu
昨日、新宿まで映画を観に行った。映画のタイトルは『エッフェル塔Eiffel』(マルタン・ブルブロンMartin Bourboulon監督)。建設当時の社会、特に塔建設における賛成/反対の世論などがほんの僅かでも描かれていればと期待していたのだが、予告編どおり技師エッフェルの恋愛話が中心で、建設の苦労(資金、労働者のスト)がほんの僅か味付けされているに過ぎなかった。その逆を期待していたものとしては残念のひと言だが、仕方ないだろう(有名人の恋愛は誰でも見たがる)。«モーパッサンは、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食をとったが、しかし彼はこの塔が好きだったわけではない。「ここはエッフェル塔が見えないパリの唯一の場所だからだ」と彼は言っていた。実際、パリでエッフェル塔を見ないようにするためには、無限に多くの注意を払わなければならない。(ロラン・バルト『エッフェル塔』)»
この、文豪モーパッサンの逸話はあまりにも有名だ。塔の建設当時、彼は「ベラミ号」というヨットで地中海を周遊し、滋味豊かな旅行記を書いている。「わたしはパリを去り、フランスを去った。けっきょく、エッフェル塔に、つくづくうんざりしたからだ」(『放浪生活』La vie errante)
冒頭、こう書き出して、ピラミッドはもちろんピサの斜塔からバベルの塔まで引っ張り出して、塔論をぶちまけて一章を使っている。
ことほど左様に、彼はエッフェル塔を嫌っていた。また、エッフェル塔建設の反対派の急先鋒に、あのオペラ座を作ったガルニエもいる。彼らは塔を「醜い鉄の骸骨」と非難していた。
そんな話が映画に盛り込まれ、モーパッサンやガルニエが登場したらおもしろかったのだが、登場はおろか、美醜論争は皆無だった。
ところで、エッフェル塔ができるまで人類が建設した最も高い建物は、エジプトのギザにあるクフ王のピラミッドだったということはあまり知られていない。エッフェルは4千年以上の間世界一の高さを誇ったピラミッドを抜いたのだ。20世紀になってアメリカのクライスラー・ビル(1930年)にその座を譲ることになる。
パリでは1972年にモンパルナスの駅前にその名もモンパルナス・タワー(59階建て210m)ができた時も、激しい景観論争が巻き起こった。この論争は反対派の勝利と言えるだろう。2年後、パリ市内にこの種のビルの建設は禁止になったからだ。確かにこのビルは、素人目にも、なんの特色もないただののっぽビルでしかないようだ(失礼!)。
ある時、パリの地下鉄の乗り換え用の通路を歩いていて、ポスターの傑作を見た。モンパルナス・タワーの最上階にあるレストランの宣伝コピーだ。
ポスターにはそびえ立つモンパルナス・タワーの写真の最上階に吹き出しがあり次のような文句が書かれていた。
「皆さんは、ここから、パリで最も美しい景色を見ることができます。Ici, on peut avoir la plus belle vue de Paris.」(フランス語は記憶のまま、違っていたら失礼)
この自虐的なフレーズは(素敵な自虐だ!)、先に挙げたモーパッサンの逸話を知らなければなんのおもしろみもない。そう、モンパルナス・タワーの最上階からの眺めは、唯一モンパルナス・タワーの見えない地点だからだ。そこから、パリの街並みにすっかり溶け込んですっくと立つ「貴婦人」エッフェル塔が見える。モーパッサンが生きていたら、なんと言うか。
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投稿日:2023-03-12 Sun
先月、高校時代の友人から手紙が届きました。自然と人間との共生によって人間回復を希求する哲学者内山節氏の講演会への誘いでした。手紙によると、退職した現在、友人自身も農地を耕す農民として暮らしていると言っています。内山氏の哲学を実践しているのでしょう。数年前古稀を記念して行われた同期会を前にして、そのS君から、突然電話があり(同期会の幹事から番号を聞いたのでしょう)、まさに半世紀ぶりに再会しました。「生きていましたよ」久々顔を合わせたときの彼の台詞です。それは、決してオーバーな表現ではありません。彼は、太平洋戦争後、戦地で行方不明になっていた帰還兵のようでした。学園闘争真っ盛りのなか、W大に行ったまま、僕たちの周りから消えてしまって、消息がわからなくなっていたからです。
中学生の頃から詩人や作家になりたいという漠然とした夢を抱いていた僕は、高校に入ると文芸部に入り、青臭い詩や小説を書いたり、読書会で部員たちと議論を戦わせたりしていました。その中にS君がいました。彼は、僕とは次元の違う読書量と文章能力を有していました。サルトル、カフカについては彼に教わった記憶があります。
卒業アルバムの文芸部の写真には、男子3名女子4名が写っていました(彼の手紙に同封されていました)。もう一人の男子部員は、あの学園闘争の後、外国に闘争の場を求めて異国の地に行きました。それ以来、彼がどこでどうしているか生死さえわかりません。真面目で一徹な彼は、高校卒業後に会った時に「武力闘争しかないんだ!」と叫んで席を立ち、背中を見せて敢然と去りました。今思い出すと、白黒映画の一場面のようです。
M君に返事を認めました。今その返事を読み返してみると、書きながらいつの間にか昔の感情に浸るかのように、思いのままに書いているのに驚いています。50年という月日が経っても、文を書きながら頭に浮かんでくるS君は高校の時の顔をしていたのです。最後に「反論無用」と思わず書いてしまいました。たぶん、彼と議論をするといつも負けてしまうことを思い出したからでしょう。
返書は以下の通りです。
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投稿日:2023-02-19 Sun
昨日、図書館に貸出し予約してあった本を取りに行った。係りの図書館員に図書館カードを渡すと、彼女はカードのバーコードを読み込み、市内の他の図書館から搬送されて来た本の積まれた書棚から、一冊取り出して「返却日は3月4日です」と言って渡してくれた。僕は「はい、どうも」と言って、本を受け取り立ち去る。すると、彼女は「ありがとうございました」を僕の背中に投げかけてくれた。こういうことは何十回も経験している。そして、これをずっと以前から不思議に思っていた。公立図書館は営利目的ではないし、図書館員自身になんの利益もないのに「ありがとう」という言葉/表現がどうして使われるのだろう。とはいえ、何も言われないのも寂しい気もするが。
フランスでは(多分イギリスやドイツでも)、以上の様なケースでは「ありがとう」はないと思う。何と言うだろうか。Au revoir ! (さようなら)か、 A bientôt ! (またね) か、Bonne journée ! (直訳は「よい日でありますように」だが、極めて軽い表現)か。あるいはDe rien (いえ、なんでもありません) か。きっと何も言わない場合が多いのではないだろうか。
図書館員の方は、個人の利益とは無縁なのだから、図書館利用者に対して感謝の言葉をかける必要など寸毫もないはずだ。それなのにいつも言う。もしかしたら、図書館利用者に対する対応マニュアルがあり、それに沿って言っているのだろうか。それにしても、「ありがとう」以外に適切な表現はないのだろうか。
ところが、不思議な「ありがとう」はテレビでも見られる(聞こえる)のに最近気付いた。ニュース番組(ワイドショー)を見ていると、解説者として専門家のゲストが呼ばれるが、その人がお役御免となったときに司会は「どうもありがとうございました」とお礼を言う(当然だ)。すると、その専門家もたいていは「ありがとうございました」と応対をする。このことに違和感を感じるのは僕だけだろうか。理屈から言えば、感謝の言葉は「先生」だけ受ければよいはずだ。これは、絶対に対応マニュアルから引き写したものではないだろう。各界の専門家の先生がそんなマニュアルを使っているとは思えない。では何と言えばよいのだろうか。そう考えるとなかなか難しい。真っ当なのは「どういたしまして」だろうか。残念ながら耳にしたことがない。
このように感謝の念を表明するためではなく、単なる合の手のような意味のない「ありがとう」は日本固有か。この不思議な言葉は、人と人との関係性において潤滑油のような働きをしているのだろうか。堅いことは言わぬが花か。それは日本語の良さの一つかもしれない。
投稿日:2023-02-14 Tue
バレンタインデーの今日、新宿まで映画を見に行った。邦題は『すべてうまくいきますように』、原題は Tout s’est bien passé (すべてうまくいった)と過去形になっている。その違いに大した問題はないだろう。視点を物語の途中にとるか、ラストにとるかということだ。前者ならこれからどうなるか、と考えながら見て、 後者ならハッピーエンド(うまくいった)の形はどうなるのかと見る。原作者である女性の小説家Emmanuèle Bernheim (エマニュエル・ベルンエムまたはベルンハイム)の家族に実際起こったことが映画にされている。監督は有名なオゾン(François Ozon)監督、彼は彼女の作品を今までなんども映画化している(筆者は『スイミングプール』を見たことがある)。
さて内容だが、エマニュエルとパスカル姉妹のもとに父親アンドレが脳卒中で倒れたという知らせがくる。2人の娘はほとんど動けなくなった父親の面倒を見るが、不自由な体になった本人は安楽死を希望する。安楽死はフランスでは違法になるので、合法であるスイスで決行しようと画策する。
(映画についてソフィー・マルソーが語る。英語が達者なのに驚きます)
https://www.youtube.com/watch?v=gFguKKb1eWI
内容にはあまり踏み込まないでおこう。この映画でおもしろいのは、二人の姉妹も父親も母親もその姉妹の夫も、すべて職業も名前も実際のまま使っていることだ。ちなみに、父親が最後に行きたいと言って、最後の晩餐をしたレストラン「ヴォルテール」も実在している。パリに二つあるが、多分高級な方のだろうと思う。それなら7区のヴォルテール河岸にある。
フランスではかつて体外受精は禁止だったとき、ベルギーではOKだったので、パリからベルギーに行って体外受精をしたものだ。パリからブリュッセルまでの高速列車の名前は「タリス Thalys」というので、ブリュッセルで体外受精してできた子供を「Thalys Baby」と呼んでいた。それなら、映画のようにパリからスイスまで救急車(註)で運ばれて安楽死する人をなんて呼んでいるのだろうか。あるいは、安楽死してパリの墓地に戻ってきた亡骸をなんて呼ぶのだろうか。(註: 映画中、安楽死を決めた患者はスイスに行くのに救急車を使っていた。フランスには、救急車も色々種類があり、搬送料の支払いもある)
それにしても、何もできず、惨めに、人様の世話になりながら「生かされる」のはごめんこうむりたい。誰でもが思うことだ。日本も、尊厳死や安楽死の問題がもっと盛り上がったらよいと思う。
映画館内は、主役ソフィー・マルソーやオゾン監督のせいかもしれないが、地味なフランス映画にしては観客数が多かった。もちろん、年配者がほとんどだった。無関心でいられないテーマだったということもあるのだろう。
投稿日:2023-02-09 Thu
昨日、パリ行きのチケットを取った。ネット予約はなんどやっても緊張する。結局半日がかりとなった。8月14日から8月27日まですでにパリのホテルの予約を取っていたので、14日パリ到着、27日パリ発の便で、可能な限り安い(今はやりで言えばリーズナブルな)飛行機はないかと数日来探していたが、結局シンガポール航空になった。エールフランスやJal/Anaは60万円以上(2人分)になってしまうので論外として、エミレーツ、エティハド、カタールなど中東の便も50万円前後と高いのでうんざりする。そんな中、30万円代(366420円)のシンガポール航空が目に入った。
友人夫妻も一緒なので、彼らと電話を使って、ネットでの切符の買い方、席の選択の仕方など、同時にパソコンを開けて指示しながら、買った。
もし行けなくなったら、キャンセル料金は3万円となっている。老人4人のこと、何しろ半年後なので何が起こるかわからない。むしろ実現したら御の字だ。
13日成田発11 :00、14日パリ着7 :35の便に乗る。14日は月曜日なので、シャルル・ド・ゴール飛行場でナヴィゴ・デクーヴェルトNavigo découverte(パリ郊外を含む交通の乗り放題パスカード)の一週間を買えば、パリまでのアプローチ、ホテルまでの交通全て乗ることができる。ちなみにチャージ料金は一週間22.8ユーロ、これで、イル・ド・フランス(パリを中心に郊外を含む、日本で言えば東京、埼玉、千葉、神奈川)のメトロ、トラムはもちろん鉄道、バスも一週間乗り放題となる。飛行場からパリの中心まで電車かバスで約10ユーロだから、そのお得感は言うまでもない。
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