投稿日:2012-05-02 Wed
一昨日(4/30)は休日だったが、仕事に出かけた。今や大学は15回という授業日数を確保するために休日を返上しているありさまだ。当然月曜日が一番多い。覚えておられるだろうが、一昨日は朝から気温が上がり、夏のように暑くなった。まったく最近は冬と夏の間がなく、両極端だ。いきなりの気温の変化だ。そのために、当然電車の中も蒸し暑く、むっとするような空気になっている。不思議なのは、車内の乗客たちがその蒸し暑さをじっと我慢していることだ。少なくとも、乗り合わせた車両の窓は一つも開いていなかった。さっそく、僕は窓を開けてみた。すると、五月の涼しい風が舞い込む。いくら暑いとはいえ、やはり五月だ。吹き抜ける風は気持ちよい。
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投稿日:2012-04-20 Fri
講義の準備で、『トリスタンとイズー』の物語を読み返してみた。これは言うまでもなく、『アーサー王』につながる、ケルトの物語だ。現在のウェールズ、インゴランド、アイルランド、ブルターニュを舞台に展開される。主人公のトリスタンは、ローヌア王の子として(現在のウェールズと思われる)生まれるが、そのときすでに父はなく、母も彼を生むとすぐに他界する。まさに「悲しみの子(トリスタン)」という名にふさわしい出生だ。しかし、義人ゴルヴナルのもと、武芸一般を身に付け、立派な若者に成長する。ひょんなことで、伯父のマルク王のいるコーンウォールの城にたどり着いたトリスタンは、この国の民が悲しみにうちひしがれているのを目の当たりにする。
ミュージカル『トリスタンとイズー』の中で歌われた Je peux mourir pour être à toi をYouTubeで聴いてください。これは1982年のドイツ映画に歌を合わせたものです。
http://www.youtube.com/watch?v=6kKJzxM_4rc
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投稿日:2012-04-06 Fri
最近スーパーで珍しいものを見つけた。さまざまなインスタント食品のなかに、カップヌードルライスなるものがあったのだ。思わず手にとってみた。一見、今までのカップヌードルと同じようだが、違っている。なんと中身はライスなのだ。要するに、お湯をかけて、三分間待ち、カップヌードルのように食べるのだろう。最初、麺と米が混じってはいっているのかも思いきや、どうも違って、ライスだけらしい。おそらく、カップヌードルのような味がするのだろう。そのとき、買い求めるエネルギーが湧いて来ず、まだ試食していない。ヌードルとは麺のことだから、どう考えても名前に偽りがあるようなのだが、日本人はあまりそういうことを気にしないのだろう。ただし、食べる前から、味のイメージはできるという強み(嫌いな人には弱み)はある。もしかするとうまいかも・・・ただし、カップヌードルのうまさは、というか僕が好きなのは、あの麺の頼りなさにあるのだが、ライスだとどうなるのかな。
投稿日:2012-03-28 Wed
今日のニュースも、もっぱら北朝鮮のミサイル発射問題だ。そのミサイル、沖縄の上空を通過したらどうする、破片が落下したらどうする・・・国会の風景では、田中防衛大臣が、まるで鳩がまめ鉄砲食らったような顔をして、答弁している。しかし、色々ニュースを見ているが、もしもミサイルの軌道が逸れて、日本に破片が落ちた時、どうなるかということは、どうも誰も言っていないようだ。落ちてくるかもしれない破片の大きさ、重量、そして何よりも被害想定などまったく聞こえて来ない。それよりも、その破片を撃ち落とすことばかり先行している。やれ、パトリオットだ、やれイージス艦だと。
まるで、弾道ミサイルが飛来するような話になっている。その破片には、爆薬はないだろうし、第一段ロケット、第二段ロケットというような破片なら、燃料もない筈だ。要するに、その空の落下物が地上か海上に落ちたとしてどれだけの被害があるのか。それについてはさっぱりだ。
その破片に、一発6億だか16億だかの迎撃ミサイルを準備している。こういう国ってなんだろう。なんだか滑稽だ。
それよりも、人工衛星落下時のときのように、町に落ちる確率や人に落ちる確率をまずは発表してもらいたいものだ。
だから、この度の騒動は、なんだかいたずらに恐怖心をあおっているか、迎撃ミサイルを見せびらかしているか、あるいはその両方か、そんな風に見える。
投稿日:2012-03-21 Wed
もっか、フロベールの『感情教育』を読み直している。以前(いつ頃だったろうか、少なくとも四半世紀以上は経っている)、の読書は読書とは言えない代物だったと言わざるを得ない。ゾラの作品でもそうだが、以前(青春期)に読んだとき、なにもわかっていなかった。フランスもパリも、歴史のことも、なにもわからずに読んでいた。なにもわからずに読むメリットも多分あるだろう。たとえば、パリのことをほとんど知らないで、パリが舞台の小説を読むこと、それ自体今の僕とは違う「なにか」を感得する筈だ。絶対に今とは違う。なにも知らずに読む青春の読書とはそういうものだ。だから、若い頃の読書に意味がある。年を取ってからでは、あの無鉄砲な読解は絶対にできないのだ。
そして今、何度もパリに行き、パリの地理に多少とも知悉して読むこの青春の墓碑は、恐ろしいまでに人と社会の厳しいレアリテを突きつけてくる。フロベールはよくもまあ、詳細に渡って、主人公を筆頭に駄目な男や女、政治や社会を淡々と描き続けたものだ。
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