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石田明生

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不肖の身でありますけれども・・・
 ついに民主党の小沢氏が代表選に出馬した。まあ、誰が出ようがかまわないが、首相がたった数ヶ月ずつで代わるのは落ち着かなくて困る。
 その小沢氏が出馬の決意を語るとき、ご自身を「不肖の身でありますけれども・・・」と表現していた。「不肖」とは「不肖の息子」(父とは似ても似つかない)というように「似ていない」という意味だが、彼は誰と似ていないというのだろうか。出馬をうながした(と思われる)鳩山前首相だろうか。それならばわざわざ似ていないというまでもないではないか(まだまだ評判はよろしくない)。それとも、菅現首相だろうか(まさか!)。
 もっとも、ただ単に自身をおとしめる謙譲語ともいえる。あの人、見た目、あまり謙譲の人に思えないが・・・

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雑感 | 07:12:36 | Trackback(0) | Comments(0)
甲子園球場のベンチに大人はいらない!!!
 今年の夏も、高校野球の熱戦が終わった。制したのは沖縄の港南高校という学校で、春夏連続優勝とのことだった。だから、多分この学校は今年一度も負けたことがないに違いない。
 翌日の朝刊(毎日新聞)の「ひと」の欄では、その優勝チームの控え捕手が取り上げられていた。一度も試合に出ることのなかった、ピッチャーの練習用の捕手だ。この「ひと」の欄では、優勝するとたいていその優勝監督が取り上げられることが多いのに、珍しいことだ。おそらく、春の優勝のときすでに取り上げられたのかもしれない。
 実は、今朝朝刊を手にしたとき真っ先に見たのはこの欄だった。しかも半ばうんざりした心持ちでだ。
 というのは、甲子園野球を見ていていつも感じるのは、試合中ベンチにいる監督の存在が鬱陶しいということだ。ほとんど中断のないサッカーやラグビーと違い、敵と味方が守りと攻撃に別れる野球というスポーツは試合の流れの中で、監督と選手が絶えず接触していられるスポーツだ。そのため試合運びに対する監督の影響が、他のスポーツと違ってきわめて大きい。攻撃のときのバッターへのアドバイス、ピンチヒッターの決定、打者へのサイン等についてはもちろん、守備のときでさえ、タイムの取り方、ピッチャーの投球、守備位置にいたるまで、監督が容喙しようと思えばすべてにわたる、つまり監督は試合の采配を完全に掌握しようと思えばできるのだ。

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雑感 | 13:56:32 | Trackback(0) | Comments(0)
孫話をもうひとつ
 昨日、原爆投下の軍人とトルーマンの孫の話をしたばかりだったが、すると今朝、8月18日(水)の毎日新聞に今度は沖縄守備隊約10万人を率いた司令官牛島中将の孫が登場した。彼は現在小学校の教師をし、平和教育に力を注いではいたが、ずっと沖縄には触れることができなかったらしい。辛い年数を重ねたことだろう(国民性の違いと言われればそれまでだが、米国の二人からはその「辛さ」が伝わって来ない)。
 彼は、94年に教員の平和学習ツアーで初めて沖縄を訪れ、祖父の足跡をたどり、生存者の方の証言を聞き、ついにひとつの結論に達して、現在は沖縄について積極的に取り上げ、教えるようになった。その結論とは、「軍隊は住民を守らない」。つまり、優しい人間だったはずの祖父の辞世の句(秋待たで 枯れ行く島の青草は 皇国の春に 蘇らなむ)にも、自決後の命令(「最後まで敢闘し、悠久の大義に生きるべし」玉砕命令)にも、どこにも人情が見えないのだ。
 もちろん、孫の牛島氏は祖父とは違う。それでも、時代の中で祖父(や軍部の人たち)がどうしてそうなったか、優しい人柄も賢さも兼ね備えていたはずの人がどうして非人道的な迷路に迷い込むのか、当人の孫だからこそ語れることがあるはずだ。太平洋の彼方の昨日の孫たちとはずいぶんと違う。

雑感 | 06:25:27 | Trackback(0) | Comments(0)
恥ずかしいリーダーと彼方の孫達・・・猛暑
 今年もお盆が過ぎた。毎年8月のこの時期を過ごすとき、広島・長崎の原爆記念日および終戦記念日があるために、日本中が厳粛な気持ちになる。65年が過ぎたとはいえ、被爆体験はあとにも先にも広島・長崎以外この地球上にないのだから、常に人はこの非人道的行為を告発し続けなければならない。
 今年の記念式は、広島に米・英・仏の代表が初めて参加したことが話題となった。特に原爆投下の当事国である米国の式典参加は、コペルニクス的な発想転換とも言えるほどの画期をもたらすものと期待できる。
 だからといって、英・仏両代表の式典参加の価値を下げるものではないはずだ。どう狂ったのか、菅直人首相はそう勘違いしたらしい。というのは、彼は子供代表の平和への誓いのあと、あいさつで次のように言ったからだ。「本日の式典には、バンキムン国連事務総長、さらにはルース駐日米国大使をはじめ70カ国を越える国の代表の方々が出席されています。心より歓迎いたします」(毎日新聞より)
 この文言は毎日新聞の『金言』(西川恵)でも指摘されていることだが、英・仏をすでに参加している他の国と「十把一からげ」(金言)にしてあつかい、きわめて失敬だと言わざるを得ない。
 広島市長の平和宣言の冒頭に耳を傾ければ、その違いは歴然としている。「今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されています」
 国の代表としての言葉はどちらが妥当か。どうも我々は恥ずかしいリーダーを持ったようだ。

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雑感 | 09:43:03 | Trackback(0) | Comments(0)
ファールかデッドボールか
8月16日(月)

 終戦記念日の翌日、ひどく暑い一日もいよいよ日が暮れようとしていた。
 そこで、ニュースでも見ようと、たまたまテレビを付けたら、甲子園の第四試合「九州学院対鹿児島実業」が放映されていた。ちょうど9回裏で、鹿児島実業が3点差ながら、1点を入れなお1・2塁と攻めているときだった。おもしろい局面だったので思わずテレビに釘付けになった。
 そのときピッチャーの投げた球が、バッターのグリップヘッドあたりにあたった。デッドボールかファールかどっちなのか。デッドボールならワンアウト満塁、攻撃側にとってこれ以上ない好機となる。審判は迷うことなくすぐにファールを宣告した。仕切り直しだ。ところが、バッターは手の甲を押さえて痛がったまま、なかなか打席に立てない。ついに手袋を脱いで、どうやら腫れているらしい部分に痛み止めのスプレーをかけている。それだけではない。スプレーをかけている補欠の選手が審判に腫れているらしい部分を示している。会話は聞こえないが、「ここにあたった」と言っていたのだろう。

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雑感 | 22:35:35 | Trackback(0) | Comments(0)
NHKの『日本の、それから』を見て
 今NHKの「日本の、これから」を見た。感想がいろいろ渦巻いてまとまらないので、すぐにみな披瀝できないが、最後のまとめで言った、京大の小倉という教授の言葉についてはひとこと言いたい。
「EUというのは、経済協力の発展した形から生まれたのではなく、デカルト、カントを経て生まれたものです。日韓が仲良くなり共同体になろうとしても、彼らのような人間についての(彼らの場合の人間とはヨーロッパ人のことですが)哲学がなければいけないのです。もちろん、西洋から輸入した哲学ではなく、東洋の日韓独自の哲学がなければ・・・それを考えねば」

 こんなような趣旨のことを言っていたようだ。

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雑感 | 23:55:26 | Trackback(0) | Comments(0)
21世紀の妖精・・・ミレーヌ・ファルメール
 ミレーヌ・ファルメール Mylène Farmer、シレ-ヌ(=セイレーン)もかくやと思われる歌声を持つ、この魔性の女に今取り憑かれている。彼女の、絹糸のような細い声は、高音になると朝顔の蔓のようにトリルとなって天に向かって上昇する。切れるのではないかとハラハラさせられるが、限界ぎりぎりですっと下降に転ずる。その危うさが何ともいえない。

Mylene
ミレーヌ(http://nightquest.bsx.ru/album/displayimage.php?album=random&cat=0&pos=-1453)


 アップテンポなロックも、波のうねりのようなバラード調の曲も、はたまた電子音鋭いエレクトロニカもその細い声に見事に融合する。そこから紡ぎ出される詩句は、オスカー・ワイルド、ジャン・コクトーを彷彿とさせる耽美であったり(“Je te rends ton amour” “Sans logique”)、18世紀、大革命前のバロック的な頽廃・・・フラゴナールやブーシェの世界・・・であったり(“Libertine” “Pourvu qu’elles soient douces” )、あるいは19世紀末のキャバレー「シャ・ノワール」なら展開されたかもしれないストリップティーズ的(世紀末的)なセクシュアリテ(“L’amour n’est rien”)であったり、どれもこれもきわめてフランス的な快楽をたっぷりと含む。

http://www.youtube.com/watch?v=WQ7L9XLjBic

“Paradis inanimé”Mylèneのライブ

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ポップ・フランセ | 09:32:35 | Trackback(0) | Comments(0)
秋葉原のホコ天復活に願う。
 秋葉原で、無差別殺傷事件以来やめていた歩行者天国が再会されるというニュースが流れた。うれしいことだ。と思ってニュースを聞いていたら、路上ライブや路上パフォーマンスは禁止にすると但し書きを付けているのにはガックリした。
 せっかくのホコ天復活が残念だ。自動車を追い出した広大な車道で、人々が自由に行き来し、歌い、踊ったりするのは本来圧迫されている欲望の解放にもつながり、精神衛生上プラスとなる筈だ。普段あまり意識していないが、地上が様々な乗り物に支配されて、人は隅の歩道に追いやられ、自由に動く場が失われているために、人は常に閉塞感を味わっている。だから、歩行者天国となった車道を見たとき、あれほどの解放感と清涼感を味わえるのだ。
 秋葉原のホコ天を実際見たことがなかったので、ネットで写真を見たら、人のにぎわいはいいのだが、パーフォマンスのあまりのレベルの低さには正直驚いてしまった。いや違う、ミニスカートで座り込んだ女の子のスカートの下を必死で撮ろうとカメラをローアングルに構えた見物人達の、観客の下司ぶりに驚いてしまったのだ。あの手の下司なパフォーマンスに、これまた輪をかけた下司ぶりの見物人、お堅い商工会議所のおじさん達がパフォーマンスの禁止を謳い上げるのもむべなるかな、とも思える。バンドに関しては写真なのでわからないが、拡声器やらマイクやらを見ると想像できなくもない。
 ようするに、日本の場合は、路上パフォーマンス・路上ライブ等々の歴史があまりにも浅すぎるのだ。その証拠に、例のネット上の写真で見るホコ天には年配の音楽家もパフォーマーもいないし、(聞こえないので確信はないが、ヴァイオリンやチェロ、クラリネットなどが見当たらないので)クラシック演奏などもないようだ。見せたり、聞かせたりする側も、見たり聞いたりする側も、もっと幅広いスペクタクルを楽しむようにするべきなのに・・・
 そのためには、ホコ天委員会かなにか知らないが、おじさん達は、ホコ天で演奏するためにオーディションを開催してみたらいいと思う。合格の決め手は、耳に心地よい音楽、耳を聾する音の禁止、ぐらいにして、まさにホコ天の一郭でやったらどうだろう。パフォーマンスも同様だ。むしろそれが売りになるかもしれない。

 そもそも、無差別殺傷事件があったからといって、歩行者天国を廃止したところに、秋葉原のなんとか委員のおじさん達の頭の固さが感じられた。あのひとたち、この提案に答えるほどのセンスがあるとは思えないが・・・

雑感 | 07:25:05 | Trackback(0) | Comments(0)

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