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石田明生

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短慮な普遍化
 昨日投書欄に『表現の自由は全てに優先か』というタイトルで、臨床検査技師のSという人が、フランス週刊誌の襲撃事件に関連して、フランス人の自由への思い入れに「傲慢さ」を感じると意見を述べていた。たぶん、Charlie hebdo の風刺画を想定しての意見だと思う。
 「フランスでは表現や言論の自由が民主主義の根幹であり、すべてに優先するかのような国民性を持ち、他者への配慮という感情が欠如しているかのように見える」とS氏は書いているが、これは、Charlie hebdo という雑誌に対していうべき意見であり、フランス人一般にすり替えることは短慮というほかない。Charlie hebdo という雑誌が「他者への配慮という感情を欠如」していると主張するのならば、それなりに納得はできるのだが、それを、まるでフランス人がこぞって Charlie hebdo を読み、風刺を楽しんでいるかのように、フランス全体に普遍化するのはどう考えてもおかしい。
 襲撃されたあと Charlie hebdo がまたもやムハマッドらしき人物に「JE SUIS CHARLIE」と言わせている風刺画を掲載したことを念頭に言っているのだろうが、オランド大統領が表明したように、「政府が掲載禁止」を強制することは不可能だ。それこそ表現の自由に対する官憲の介入であり、恐らく裁判沙汰になるだろう。そんなことは政府としてはできるわけがない。S氏がちょっと頭を働かせれば、日本でもそのような風刺画どころか、どんな表現も(わいせつ等はのぞいて)「掲載禁止措置」にすることは不可能だということがわかる筈だ。「禁止命令」を出せば、日本でも当然同様に裁判沙汰となるだろう。

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オピニオン | 10:51:35 | Trackback(0) | Comments(0)
JE SUIS KENJI.
 後藤さんの安否が気遣われる今、«JE SUIS KENJI»と叫びたい。彼の仲間が、Facebookで«I am Kenji»と声を上げているらしい。僕のような臆病者で行動的でもないものには、後藤さんの立場に身を置いて考えることは困難かも知れないが、それでも彼の立場を少しでも思いやり、連帯を叫ぶのは意味があるだろう。世界中のまっとうな人たちが、後藤さんに«JE SUIS KENJI»を呼びかけることによって、非情で残酷なイスラム国の人たちにも、声が届くかもしれない。届いたからと言って、あの頑な人たちが、後藤さんを解放するかどうかわからない。が、「君たちが人質にしている人がどれほどかけがえのないhumanisteであるか」ということがわかるだろう。
 後藤さんを人質に取り、危害を加えることは、後藤さんひとりに対する罪ではなく、人類全体に対する罪であり、地球上の生命に対する罪であることを、彼らに知らしめねばならない。後藤さんの無事を祈る。

雑感 | 15:08:57 | Trackback(0) | Comments(0)
Je suis Charlie の意味
 新聞社を狙ったテロのあと、パリを中心に «Je suis Charlie»の合唱がわき起こった。あれだけの人数だから、その叫び声の内側が全部同じだったとは思わないが、大切なことは、あのとき«Je suis Charlie hebdo»と叫んだのではないことだ。Je suis Chrlie とは、「我々は犠牲者の側につく」「銃ではなくペンを持つ側につく」「やるならやってみろ」との思いで叫んでいたのだと思う。つまり、あの«Charlie hebdo»という新聞そのものに共感してのことだったかどうかあやしい。というのは、その新聞を嫌いな人たちも、その新聞を開いたことも見たこともない人たちも、あの群衆の中に混じってていた筈だからだ。いや、ほとんどの人がそうだったのだろう。だから、シンボルとしてペンや鉛筆を掲げていたのだ。
 あらためて、Charlie hebdo の風刺画を見て、多数の人が戸惑っているに違いない。時には、えげつないのもあるからだ。
 最近、Charlie hebdo のような風刺画の出版物はヘイトスピーチと同じではないかという主張を耳にして、大いに驚いている。ヘイトスピーチの定義はと言われるとそれほど考えたことがなかったので困るが、wiki によると、「人種、宗教、性的指向、性別などの要素に対する差別・偏見に基づく憎悪(ヘイト)を表す表現行為のこと」とある。

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オピニオン | 11:46:15 | Trackback(0) | Comments(0)
品の良い、エスプリの利いた風刺画を望む
 Charlie が新しい号を出した。彼らはこうなるとたとえ殺されても雑誌を出し続けるだろう。
 ただし、この度の表紙の絵を見て少しほっとしたのは、Je suis Charlieと言っている人物に名前がないことと、泣いていることだ。もしその人物がムハマッドだとしても、その涙は、愚かなテロとその犠牲者のために流していることになる。どんな人でも、まして預言者なら、今回の事件では涙を流さずにはいられまい。ただ、背景の文句「全ては許される」にはどんな意味合いがあるのだろう。まさかテロまで許されるわけではないだろう。
 Charlieという雑誌は、この度初めて知ったのだが、大部分の人たちも同じだろう。聞くところによると、「Harakiri」という新左翼の過激な風刺雑誌を受け継いでいるとか・・・前身のも今のもそれほどの発行部数はなかった筈で、せいぜい3万部程度だったらしい。そうなると今度の新刊雑誌の数300万冊はなんと100倍になる。今までの絵をいくつか見たが、えげつないものから、それなりにおもしろいものまで、要するにできふできがあるようだ。どちらにしても、客層はそれほど上品でも知的でもなさそうだ。今度の恐ろしいテロで有名にしてしまったと言うのが実情だろう。


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オピニオン | 16:30:51 | Trackback(0) | Comments(0)
JE SUIS CHARLIE.
 2015年は、フランスにとって、そしておそらくは世界にとって厳しい、悲しい年になりそうだ。言うまでもなく、7日に起こったテロ事件のことだ。フランスがテロの標的になっていることは、誰でも思っていたが、それにしてもこんなことになろうとは・・・
 日本でもかつて朝日新聞に「赤報隊」を名乗る何者かが記者を射殺するという悲惨な事件があったが、共通しているのは、表現の自由を暴力で封じ込めようとする卑劣さだ。表現の自由は、人民が苦労に苦労を重ねてやっと手に入れた権利だ。とりわけフランスでは、数回の革命を経て、文字通り血で血を洗う苦難を乗り越えて獲得した何事にも代え難い権利だ。
 そのためだろう、今日のパリでのデモンストレーションは、あの壮大な人のつながる光景は人々の心に感動を与える。なんと160万人とも報道されている。フランス全土だけでも350万人、世界中の都市を入れたら何人になることか。「私はシャルリ」は今や抗議と闘争と感動の発露だ。フランスの slameur(Slamを歌う人) Grand Corps Maladeのslam «Je suis Charlie» は、静かに語りかける怒りと連帯のポエムだ。

https://www.youtube.com/watch?v=U2a79-0QuGo

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雑感 | 22:18:07 | Trackback(0) | Comments(0)
2015年初出勤
  初出勤の今日の弁当は、シュークルートとオリーヴ入りバターライス。上々のできばえだったと自画自賛している。

お弁当シュークルート

 電子レンジが用意されているので、おいしくいただけたのはいうまでもない。


 今年もおいしい弁当作りに励んで、エネルギーを蓄えよう。

その他 | 23:03:44 | Trackback(0) | Comments(0)
小説『革命の館パレ=ロワイヤル』
 昨日は、今年最初の小説を読了した。この小説『革命の館パレ=ロワイヤル』は、書名も作者名も何も知らず、どこかで図書館流れになって、どこかの古本屋で二束三文で手に入れたぞっき本だ。昨年から読んでいたがついに年を越してしまい、今に至った。
 読んでみたら、これがおもしろい。物語は題名が示す通り、フランス大革命真っ只中の1793年から始まり、翌年のテルミドールの反動を頂点とし、ナポレオン没落後の王政復古までをたどる。舞台は、もちろんパレ・ロワイヤルを中心としたパリの中心部で、主人公は、サン・ジュストのような純粋な男でも、ロベスピエールのような廉潔の士でもない(ちなみに次に挙げられる特性の士はクートンかもしれない)、女郎のひも上がりだ。
 なにしろ、この書のエピグラフが次の通りなのだ。

「熱月(テルミドール)の政変からは、偉大にして深遠な教訓を引き出すことができる。特性、純粋、廉潔は地獄を地上に居座らせ、悪徳と腐敗が世界を救う」

 そう、主人公のジュリアン・テロワーニュは悪徳と腐敗の士であるテルミドリアンのバラスの側近として、頭角を現す男だ。当時のパレ= ロワイヤルはまさにその悪徳と腐敗の聖地だった。

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雑感 | 16:42:36 | Trackback(0) | Comments(0)
2015年の三が日
 毎年のことながら、一日には実家に新年の挨拶に出かけた。途中、これまた例年通り、近くの氷川神社に初詣した。何の変わりもない。実家では、酒食に預り、良い気分で帰ってきた。家に着くと、これまた例年通り、テレビでニューイヤーコンサートを見て、聞いた。要するに、例年通りというのが良いのだろう。
 二日目は、ひとり家にいて、VHSビデオに入っている映像をDVDに入れ直し、そのついでに何本か古い映画を見た。「Et Dieu... créa la femme (邦題『素直な悪女』)」(1956年)は、いわゆるBB(ブリジット・バルドー)主演、ロジェ・ヴァディム監督。またもう一本の「La Curée (邦題『獲物の分け前』)」(1966年)も、ジェーン・フォンダ主演、ロジェ・ヴァディム監督で、両方とも、監督の若妻が主演のお色気ものとでもいうべき作品だ。本当に両主演女優の色気はすごい。後者は、ゾラの小説の題名と同じだと思ったら、背景だけを借りて、現代物に作り直したものだ。あまり感想はないが、昔の映画ファンはこういう映画を見て、楽しんだものか。

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日常スケッチ | 13:47:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ピケティ現象
 新年最初の「毎日新聞」に掲載された社説は、「戦後日本70年・・・日本と東アジア」と題したもので、中国や韓国の経済的・国家的発展を率直に認め、今までの日本人特有の「日本をアジアの頂点とする序列的思考」をあらためて、中国・韓国と共生できる「並列的」思考を主張している(副題は「脱・序列思考のすすめ」となっている)。ようするに、日本は「大国残像ナショナリズム」を振りかざし、過去の栄光を取り戻そうとするべきではなく、隣国との共存・共栄を計るべきだということだ。
 そうして、昨日1月3日の社説は、「戦後70年・・・ピケティ現象」と題されている。社説によると、フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』の訳本が、各地の図書館で長い順番待ちになっているらしい。経済にひどく疎い僕は、原書であれ、訳本であれ、まだ手にとったことはないし、たぶん手にとってもチンプンカンプンに違いない。だからどうしても、評者経由の「孫引き的」な理解になってしまうのだが、それでも、それなりの理解と同感を得ることができた。「資本主義のもとでは、資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく」という分析も、以前からなんの実証もなく感じていたことであり、それを経済学者が論じてくれたことに納得している。

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オピニオン | 10:22:23 | Trackback(0) | Comments(0)

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