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石田明生

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パリの『レ・ミゼラブル』体験・・・雑感(1)
 この度のパリ旅行の目的の一つは、ヴィクトール・ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』で描かれたパリをこの目で確認することだった。だから、新潮文庫を携えてパリに行き、今も読み続けている。若い頃はこんな読み方をしなかった。ただストーリーと名文と、情熱だけを追っていた。もちろんそれはそれでいいのかもしれない。どんな読み方をしても名作は名作だ。人に感動となにがしかの知識と教訓を・・・まれに毒気を・・・与えてくれるのは間違いない。
 年も経て、パリという町になじんで来た今は、どんな小説を読んでも、いや小説ばかりではない、ドキュメントも日記も、さらに映画も、その舞台・背景を必ずトポロジック(地勢学的)に見て、読み解こうとするようになった。

ラップ街.JPG
「ラップ通り」十九世紀、バスチーユ東のこの辺りはまさに革命と暴動の温床だった。



 考えてみれば当たり前のことだが、ほとんどの小説では知らない町や地方が舞台になっているから、作者の描写に頼りきって、イメージをふくらませるほかない。それはそれで面白い。たとえば、僕のもっとも好きな小説『罪と罰』(ドストエフスキー)を読んで作り上げた町、ザンクト・ペテルスブルクは、どうしてもラスコーリニコフやソーニャが歩き、マルメラードフが酔って徘徊する町でなくてはならない。このまま一生この町に足を踏み入れないなら(そうなりそうなのが悲しい)、ザンクト・ペテルスプルグは僕にとって永遠に書物の上の空想の町のままで終わり、トポロジックに小説を味わうことができないままになってしまうだろう。運河の橋に立つスビドリガイロフを追体験できないのだ。
 かつて『感情教育』(フロベール)や『ベラミ』(モーパッサン)などパリを舞台にした小説を読んだ時も、『罪と罰』と同様だった。が、パリにかけがえのない友人ができたおかげで、小説の舞台に立ち、観察し、実証することができるほどに、パリになじむことができた。前にも書いたが、ペラミことデュロワがマドレーヌ教会の階段から眺めた国会のあるブルボン宮を、僕自身も追体験することができた。ミシェル・トゥルニエの小説『黄金のしずく』に登場する、アラブ人通りのその名も「黄金のしずく通り」を彼らに混じって歩き、主人公の少年イドゥリスが立ち寄ったデパート「タチ」で買い物までした。旅と小説の融合、現実とフィクションの境目の曖昧さを体験するのは芸術作品鑑賞の醍醐味だ。

 パリとパリ市民にとって1830年という年はなんだったのだろうか。ナポレオンが失脚して以来(1815年)、職に就けず食客の生活を余儀なくされていたスタンダールが傑作『赤と黒』をせっせと書いていた頃、彼よりも20歳近く年下のユゴーが芝居『エルナニ』を発表して、大喝采を浴び、ロマン派の若き英雄となった。おもしろいことに、エルナニの戦いのことが『赤と黒』の中で言及されている。齢四十七ともなるうだつの上がらない中年男(当時ならそろそろ老境か)が、売れない小説(『赤と黒』は全く評価されず、売れなかった)に取り組んでいる時、イタリア貴族の令嬢十七歳のジウリアに恋を打ち明けられ、有頂天になったのもこの頃だ。彼の日記中特筆すべき事件。
 もちろん彼は彼女と結婚を考え、彼女の保護者に結婚を申し込むも、インターネットカフェ難民ならぬ、無職の彼は断られる。そんなとき、七月革命が勃発。『赤と黒』を「一八三〇年年代記」として発表したスタンダールもその年に革命が起こるとは仰天したに違いない。がそれはそれ、彼にとってチャンス到来だ。彼の就職をはばむブルボン王朝が倒されたのだ。革命後、早速就職運動に及び、イタリアの町の領事の地位を手に入れる。すぐにジウリアの保護者の所に駆けつけて、再度結婚を迫るが、彼女はフィレンツェのさる貴族への嫁入りが決まっていた。彼も領事の職に就くべくイタリアに立つ。
 スタンダールの一八三〇年は、以上の通りだ。では、奇跡のメダル教会のカトリーヌ・ラブーレはどうしていたのだろうか。彼女は一八〇六年生まれだから、二十四歳だった。修道女になることを反対していた父親もやっと折れたので、カトリーヌは一八三〇年四月二十一日にパリのセミナリオ、つまり現在教会のあるバック通りの神学校に「フィーユ・ド・ラ・シャリテ(慈善の娘)」の修道女になるべく入る。そして、七月十八日の真夜中、光り輝く子供がカトリーヌの目を覚まし、礼拝堂へと導く。すると突然、衣ずれの音がして、彼女の目の前に聖母マリアが出現する。「生涯でもっとも快い瞬間でした」カトリーヌは後に語る。
 ところがこの聖母出現の一週間後に、七月革命は勃発するのだ。ドラクロワが描いた不朽の名作『民衆を率いる自由の女神』が表現する「栄光の三日間」(27日、28日、29日)は、カトリックの聖母出現とほぼ同時だ。もっともカトリーヌはマリアのことを誰にも話していないから、まだ聖母出現の奇跡は一般には起こっていないことになっている。それにしても、聖母の出現を見たカトリーヌは、同じパリで異教の神(自由の女神)の勝利をどう思ったのだろうか。
 この年、聖母マリアはカトリーヌの前に再び姿を現す。十一月二十七日のことだ。この時聖母は両手に地球儀を掲げて、次のように言ったらしい。「メダルを作りなさい。それを持つ者はご加護があるだろう」

 ジャン・ヴァルジャンはコゼットをピクピュスの修道院で教育させることができ、ジャベール警部に追われることもなく、一八三〇年は革命騒ぎなどよそに平穏に過ぎて行った。作者のユゴーにとって激動の年が、小説では静かな年だ。革命家たちと付き合うマリユスにとっても、貧しいながら静かな年だ。《愛の情熱以外のすべての情熱は、夢想の中に消え失せるものだ。マリユスの政治熱も、そこに消えてしまった。一八三〇年の革命が彼を満足させ、心を鎮めたことも、それを早めた》(『レ・ミゼラブル』p.180)
 マリユスはリュクサンブール公園を散歩中、六十歳近くの老人と十三・四歳の娘がいつも同じベンチに腰をおろしているのに気付く。が、その二人がこの小説の主人公とは知る由もない。三人にとって一八三〇年は日常的にも政治的にも、若い二人にとっては情熱においても平穏だ。
 状況が一変するのは、コゼットが子供から大人になる時、蝶のような変身を経て美しくなる二年近く後だ。マリウスは赤貧洗うがごとき学生だが二十一・二歳の美青年になっている。二人は一度も言葉を交わさなくとも、理解し、愛の兆候を得る。だから、マリウスがバビローヌ通り近くのコゼットの家を探し当て、その植え込みで愛を語るとき、二人の愛は宿命となる。ところで驚くべきことだが、コゼットとジャン・ヴァルジャンがひっそりと暮らすこの家は、カトリーヌ・ラブーレが聖母マリアを見たセミナリオの近くなのだ。だから、カトリーヌがマリアの指示でメダルを作り、翌々年猖獗を極めるコレラと闘った、ちょうどその時、すぐ近くでコゼットとマリユスは植え込みの中で愛を語らっていたことになる。このコレラ大流行のとき、カトリーヌたちの配ったメダルが効験あらたかなため、「奇跡のメダル」と呼ばれるようになったのは有名だ。
 小説の中であれほど饒舌な作者だが、奇跡のメダル教会について一言も言及していない。また、信仰心が厚くいつも教会に行き、貧者たちに施しをするジャン・ヴァルジャンも、近くで起こった「奇跡」に立ち会った様子もない。
 さて、いよいよ問題の一八三二年だ。
 《一八三二年の春、三ヶ月前からコレラが人々をふるえあがらせ、不安のうえに、何か暗い鎮圧を投げかけていたが、パリはずっと前から今にも激動しそうだった。前に述べたように、大都会はどこか大砲に似ている。砲弾が入っているときには、火の粉が落ちただけでも、発砲する。一八三二年六月には、火の粉とは、ラマルク将軍の死だった》(『レ・ミゼラブル』第五章p.372)

ラマルク.JPG
ランド県の生誕の地(サン・スヴェール)に立つラマルク将軍(フランス・ウィキペディアより転載)

 ラマルク将軍(1770-1832)は、革命時代の軍籍の中で頭角を現し、ナポレオン帝政時代に将軍として活躍、復古王政の下でも議員として活動した。コレラの犠牲となった将軍の葬儀は『レ・ミゼラブル』に、鮮やかに描かれる。一八三二年六月五日、将軍の葬列はバスチーユ広場を通り、セーヌに向かう時、興奮し、ひしめき合う群衆に囲まれてさながら暴動の様相を呈する。
 こうしてその夜、中央市場近くの今は「レスコー通り」となったあたりでバリケードが築かれ、そこに五十人ほどの暴徒が籠城する.このリーダーたちこそみなマリユスの学生仲間で、死を賭して共和制の大義を奉ずる連中だ。遅ればせながらコゼットと会えなくなると思い込んだ失意のマリユスもやって来てリーダーの一人となり、壮絶な市街戦に突入する。そんな中、驚くべき偶然だが、このバリケードの中にスパイとしてとらわれてはいるがジャベール警部がいて、後からマリユスの身を案じてであろうかのジャン・ヴァルジャンまで居合わせる。コゼットを除き役者がすっかりそろうのだ。
 聖者のごときジャン・ヴァルジャンは人殺しをよしとせず、ジャベール警部を処刑したように見せかけて逃してやる。が、最大の問題は玉砕の運命にあるコゼットの思い人マリユスのことだ。叛徒たちは次々と政府軍によって追いつめられ、容赦なくその場で処刑される。何発かの弾丸を受け、意識を失ったマリユスを抱えて、途方に暮れるジャン・ヴァルジャン、完全な八方ふさがりだ。とその時、足下のマンホールに気付く・・・
 こうして、パリの下水道が多分初めて文学作品の俎上にのぼる。ユゴーは「巨獣のはらわた」という一章をわざわざ設けて、パリの下界を語るのだ。「巨獣(原語ではレヴィアタン[英語でリヴァイアサン]という旧約聖書中の語を用いている)」とはパリ、「はらわた」とは、むろん下水道のことだ。
 ここで、ユゴーの筆の後を逐一追うような愚はするまい。ただ、下水のクリストファー・コロンブスについてはひとこと報告せねばならないだろう。ここは作者のペンの切れ味がうれしくなるほど鋭いからだ。
 一八〇五年、ナポレオンが大陸軍の名だたる英雄たちと(ユゴーは名前を挙げている)チュイルリーの中庭でひとときを過ごしている時、内務大臣が皇帝に近付く。
 《「陛下」と内務大臣はナポレオンに言った。「わたくしは昨日、帝国でもっとも勇敢な者に会いました」「それは何者か?」と皇帝はぶっきらぼうに言った。「そして何をしたのか?」「あることをしたいと申しております」「どんなことか?」「パリの下水道を踏査しようというのでございます」
 そういう男が実在した。ブリュヌゾーという名前だった。》(『レ・ミゼラブル』第五章p.147)
 居並ぶナポレオンの将星たちよりも勇敢と言われたブリュヌゾーの初めての本格的な下水道調査、及び整備は七年におよんだ、と作者は言う。確かに、マレンゴの勝利に匹敵したかもしれない。いや、それ以上の功績ともいえる。パリの近代的な下水道とその衛生観はここから始まったと言っても決して過言ではないからだ。

ブリュヌゾー.JPG

アルマ橋の左岸側から下水道見学に降りて、少し行くと、ブリュヌゾー回廊に出る。
このように下水道のコロンブスの名が冠せられるのは当然か。

・・・パリの『レ・ミゼラブル』体験記・・・雑感(2)に続く・・・
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文学雑感 | 22:43:53 | Trackback(0) | Comments(0)
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