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石田明生

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『レ・ミゼラブル』雑感(3)
 この、ユゴーの嗅覚に関する疑問の答えになるかどうかわからないが、貧乏学生となったマリユスが、下宿から大学(法学部)に通う途中にあるリュクサンブール公園の描写はそういう意味できわめて興味深い。

若きユゴー.JPG
若き日のユゴー(ダヴィ・ダンジェ作)
ヴィクトール・ユゴーの家所蔵

 ここは彼が初めてコゼットとその父(と彼は思っている)の存在に気付き、意識し、コゼットの方もこの美しい学生に関心を抱く物語の伏線となる重要なところだ。少し立ち寄ってみよう。

 《一年以上も前から、マリユスは、リュクサンブール公園の人けのない小道で、苗木園の柵に沿った小道で、一人の男とうら若い娘の姿を見かけた。・・・(略)・・・そこに行くと、ほとんど毎日、その二人に会うのだった。男は六十歳ぐらいだろうか、わびしそうな,気むずかしそうな様子をしていた。・・・(略)


 ・・・娘は十三、四の少女のようでみにくいほどに痩せて,ぎこちなく、別に人目をひくところもなかったが、目はかなり美しくなりそうに見えた。》(『レ・ミゼラブル』第三章p.191)

 こうして二年ほどが過ぎて、マリユスはたいした理由もなく半年ほどリュクサンブール公園通いをやめてしまっていた。そして夏のあるさわやかな朝、彼はひさびさ公園に足を向けてみた。すると、《・・・やはり同じベンチに見慣れた二人の姿が見えた。男の方は前と変わりはないが,娘はもはや別人のようだった。》(『レ・ミゼラブル』第三章p.193)美しい蝶となったコゼットを作者はどう表現しているか,長くなるが引用してみよう。ユゴーの一世一代の美女の描写だ。

 《今,目の前にいる人は背も高く,美しくもなって,まだ子供らしいあどけない愛らしさをそのまま残している年ごろの女性の最も魅力的な姿態を申し分なくそなえており,十五、という二語だけで表わせるうつろいやすく,清らかな年ごろだった。金色の筋がほのかにただようすばらしい栗色の髪,大理石でつくられたような額,バラの花びらのような頬、ほの白い淡紅色と目もさめるように白い肌、ほほえみが光のように、言葉が音楽のように流れ出る美しい口もと,ラファエロの聖母マリアを思わせる顔が、ジャン・グージョンが彫刻したヴィーナスを思わせる首の上にのっていた。このうっとりするような顔だちは、美しくはないが、可愛らしい鼻で申し分のないものになっていた。まっすぐでもなく、曲がってもいない、イタリア風でも、ギリシャ風でもないパリジェンヌの鼻、つまりどこか知的で、こまやかで、ととのってはいないが、純潔な感じで,画家を絶望させ,詩人を魅惑するような鼻だった。》(『レ・ミゼラブル』第三章pp.193-4)[ジャン・グージョン(1510-66):フランスの彫刻家・・・筆者注]

 しかし,まだマリユスの心に火はともっていない。ただ散歩の習慣を取り戻しただけだった。が,ある日,

 《ある日,空気はなま暖かく、リュクサンブール公園は影と陽光にあふれ、空は今朝天使たちが洗ったかのように澄みわたり,マロニエの木立の中では,雀が可愛い鳴き声を立て、マリユスの心はすっかり自然にゆだねて、何も考えず、ただ生きて、呼吸するばかりだった。例のベンチのそばにさしかかると、二人の目が合った。
 その時,若い娘の眼差しには何があったか? マリユスにはそれを言い表す言葉がなかっただろう。何もなく,そしてすべてがあった。不思議な光があったのだ。》(『レ・ミゼラブル』第三章p.196)

 こうしてマリウスは《純潔な心が知らずにはりめぐらし、思わず,われ知らず、人の心をとらえる罠》(p.197)のような眼差しに射抜かれ,《魂の奥底に、恋という香りと毒にみちた暗い花をにわかにひらかせる魔力》(p.197)に取り憑かれて,屋根裏部屋に帰ったのだ。ふと,散歩中に着ていた自分のふだん着に目をやる。それはぶざまにも《リボンのところまでつぶれた帽子や、馬車屋のはく無骨な長靴や、膝が白くなったズボンや、肘が薄くはげた上着》(p.197)だった。
 翌日、黄金の矢でハートを射抜かれた男が、一張羅を着て勇躍公園に向かったのはお察しの通りだ。

 ところで、このリュクサンブールの場面が「興味深い」と言ったのは、実を言うと恋愛の誕生という理由によるだけではない。この初夏の花咲き誇る公園には「雀の鳴き声」は聞こえるが、植物の発する匂いについての表現がない。匂いがないのに気付いたからだ。

リュクサンブール.JPG
リュクサンブール庭園

 たとえば、『レ・ミゼラブル』の執筆から約二十年後、二人の恋人の出会いからなら約五十年後に、ギー・ド・モーパッサンは短編小説『メヌエット』の中で、同じ季節にしかもこれまた同じ法学生にリュクサンブール公園を散歩させている(法学部は公園の隣にある)。マリユス同様彼も毎朝散歩をしている、と、決まってある人物と出会うことに気付く。だが、懐疑主義的な『メヌエット』の主人公が出会う人物は少女でもなければがっしりとした男でもない、がりがりに痩せた小柄な老人だ。しかも驚いたことにその老人は誰にも見られていないと思って、ピョンピョン踊ったり、しなを作って会釈をしたり、不思議な動作をするではないか。話を聞くと、彼はルイ十五世時代の舞踏家で、しかも当時花形の舞い姫ラ・カストリと結婚しているとのこと・・・

 《「私はラ・カストリと夫婦になっています。よろしかったら、ご紹介しましょう。・・・(略)」
 ・・・まもなく、例の友だちが、黒い衣装を身につけた、ごく小柄の老婦人へ腕をかして歩いてきました。わたしはその老婦人に紹介されました。あのラ・カストリでした。・・・(略)
 ・・・時はまさに五月、花々のにおいが、そうじのゆきとどいた小道に、ふくいくと漂っていました。気持ちのよい日光が、木の葉のあいだからもれてきて、わたしたちの上に大きな光のしずくをたらしました。ラ・カストリの黒い衣装が、びっしょりと光にぬれているように見えました。》(『モーパッサン全集』2 [田辺貞の助訳・・・一部訂正] p.430)

 モーパッサンが描写するリュクサンブール公園の苗畑(ユゴーのは苗木園と訳されている)は花の香りと光に満ちている。それは、前世紀の亡霊が抱えた悲しみ、時に流される人のどうしようもない悲哀を描出するための意匠の限りを尽くした舞台装置なのだ。老夫婦は、「わたし」にメヌエットがどんな踊りか教えようとして踊ったが、踊るうちに往年を思い出したのだろう、感極まって、踊りをふいに止めてひしと抱き合いすすり泣く。もちろん書かれてはいないが、彼らが生きたロココの華やかな時代から革命時代、帝政時代、王政復古、というめまぐるしく変わる時代を越えてきた今、二人の「メヌエット」は二人だけに、そして二人のリュクサンブール公園だけに封じ込まれてしまっていたのだ。ほどなくそれも消滅しようとしている。

恋人.JPG
リュクサンブール庭園の恋人たち

 この二つの場面を比較して、ユゴーの嗅覚を云々するのは彼に酷かもしれない。彼がリュクサンブールの苗木園で、花の香りに言及しなかったのは違う理由があったということも考えられる。というのは、プリュメ通りにあるジャン・ヴァルジャンとコゼットの隠れ家には多くの植物が生い茂る庭があり、そこでは花の匂いがちゃんとしているからだ。

 《夕暮れには、夢想の靄(もや)が庭から立ちのぼって庭を包み、霧の屍衣が、天のひそかな哀愁が、庭を覆い、すいかずらや朝顔の酔わせるような匂いが、妙なる毒のように、いたるところから立ちのぼった。》(『レ・ミゼラブル』第四章p.104)

 ところがこの花の匂いは、一種官能的なものを伴っていることに注意せねばならない。アフロディテの月(四月・・・avril はAphrodite から)ともなれば、茂みは《自由になり、万物も芽生えるひそやかな発情作用に入り、まるで宇宙にみなぎる愛の息吹を吸いこんで》(p.104)、花は花開き、鳥や虫を引き寄せる。
 この二人の隠れ家はもとは高等法院長の妾宅だったからだろうか。人目につかない庭は恋を語るにもってこいに作られているのだろう。いまだ言葉を交わしたことのないコゼットとマニユスの再会と語らいにこの庭が選ばれたのも偶然ではなく、ユゴーのしたたかな計算に依るのかも知れない。
 マリユスはついにコゼットの家を見つけ、彼女にそっと恋文を手渡すことができた。現実にはもちろん小説でも芝居でも恋のことを知らない、恋にまったく免疫のないコゼットは、手紙を読み、手紙の主がリュクサンブール公園の青年とわかったとたんに恋に落ちてしまう。
 そして初めて言葉を交わしたとき、彼女はもうすでに恋に酔っていたのだ。マリユスが「愛してくれますね?」と尋ねたときには、彼女は強く愛していたのだ。まだ互いに名前さえ知らないのに・・・

 《どのようにして二人の唇が触れ合ったか? どのようにして小鳥は歌い、雪は溶け、バラの花は咲き、五月が輝き、黒い樹木の向こうに、おののく丘の頂に、曙が白んでいくのか?
 ただ一度の接吻、それだけだった。
 二人とも体がふるえ、暗闇の中で、輝く目で見つめ合った。》(『レ・ミゼラブル』第四章p.189)

 二人は毎晩、ジャン・ヴァルジャンの不在の時、逢瀬を重ねる。コゼットはマリユスに何も拒むつもりはないにもかかわらず、マリユスは最初の接吻だけでそれ以上のことをしない。なぜか?

 《彼にとってコゼットは香りであって、女ではなかった。彼は彼女を呼吸していた。彼女は何も拒まず、彼は何も求めなかった。》(p.289)

 そうなのだ。この庭の花々の匂いが官能的だと、感じられたことを思い出してみるといい。コゼットも花であり、花の香りであり、マリウスを呼び寄せて、二人は、周囲の植物の交換作用と一体化してしまうのだ。

 《彼らのまわりにあらゆる花がひらいて、香りを放ち、彼らは魂をひらいて、花の中にあけひろげた。みだらでたくましい植物は、その潔白な二人のまわりで、樹液と陶酔にみたされてふるえおののき、木々がふるえるほど二人は愛の言葉をかわした。》(p.289)

 言葉も交わさず、触れ合うこともなく、視線を交わしただけのリュクサンブール公園では、花の香りはなかった。が、二人がひとたび愛を語らい、唇を重ね合わせると、植物は満開の花にむせ返るような匂いを放出するのだった。二人は潔白にもかかわらず、コゼットが不思議な官能美をまとうのは、ひとえに花の香りによるのかもしれない。ユゴーは花の香りで官能的な処女を描くという冒険をしたかったのだろうか。少なくともユゴーにとって、花の香りはアフロディテと切り離して考えられない、愛と官能に深く結びついたものだったのだろう。
 このあと、マリユスはバリケードで瀕死の重傷を負い、物理的に二人の恋の進展が不可能となったのはご存知の通りだ。

 以上、『レ・ミゼラブル』についての一考察でした。

コゼット.JPG
コゼット像(ヴィクトール・ユゴーの家所蔵)
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文学雑感 | 22:18:59 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
拝受しました
Scipion先生

ご無沙汰しております。お元気ですか?
本日はセリーヌに関する論文を、有難うございました。
2時間目が空きでしたので、早速読み始めました。

Scipion先生、「破天荒」なお話がお好きですよね?
「レミゼラブル」も似た話かな、と思いましたが、
ご著作の最後を拝見しましたら、全然構造的に別とのこと、
なるほど、と感心しています。

「レミゼラブル」は子ども向けの本でしか読んだことがなく
色恋沙汰があったなんて全く知りませんでした(覚えてないだけ?)。
小学生のとき読んだ印象で、
「貧しい人に冷たくしてはいけません」という教訓話かと思っており...
どうも全然とんちんかんでしたね。

では失礼しました。

2007-11-14 水 16:45:47 | URL | koharu [編集]
koharu さん、お久しぶりです。
突然、メールボックスにおじゃましてすみませんでした。
さっそく雑文を読んで下さり、ありがとうございます。
月曜日はフランス人の先生とシコシコやっています。
ではまた。
2007-11-15 木 19:54:41 | URL | [編集]
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