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石田明生

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東大・本郷から上野公園まで
11月28日(水)快晴

 休みの水曜日を利用して、西洋美術館の「ムンク展」を見に行った。が、それだけ見学して帰って来るのも芸がないので(あまりムンクを期待していなかった)、東大・本郷のレストランで昼食をとり、大学キャンパスから上野公園まで紅葉を見ながら散歩した。
 
安田
安田講堂と銀杏並木

 銀杏の黄色はイマイチだったが・・・

ヒマラヤ桜

 キャンパス内にヒマラヤ桜が咲いていた。構内の端の端なのに、この写真を撮っている間に三組の見物人がやってきた。してみると、かなり有名なのか。


 昼食は構内にあるレストラン「ポルタ・ロザ」(その名も「赤門」)でとる。千円のランチを注文した。前菜として、スープとサラダ、メインディッシュは僕がサーモン、妻がポーク(選択肢はふたつだった)、デザートは抹茶のババロア、コーヒーという組み合わせだった。パンは丸パンとミニクロワッサンの二つなので軽めだ。お腹がすいている人はライスを注文した方がいいかも知れない。

ポルタ・ロザ

 食後まずヒマラヤ桜を見に行き、池之端門へと向かう。途中、三四郎池に立ち寄る。
 東大病院の手前を左に曲がり、小径を行くと、大学構内とも、大都会の中とも思えないほど、隔離された静かな空間がそこにはあった。

三四郎池
《・・・二人は申し合せた様に用のない歩き方をして、坂を下りて来る。三四郎は矢っ張り見ていた。
 坂の下に石橋がある。渡らなければ真直ぐに理科大学の方へ出る。渡れば水際を伝って此方へ来る。二人は石橋を渡った。》(『三四郎』p.16 「夏目漱石全集4」)


三四郎池2

 写真のように、程よい紅葉が目を和ませる。こんなに野趣あふれた、美しい池とは思っていなかったので正直なところ驚いた。
 実はここに来たのはほとんど初めてといってもいいほどなのだ。かつて中学一年の時だったと思うが、一度兄に連れられて来たことがあった。今目の前にある風景は、その時のイメージとまったく違う。それだけではない。小説『三四郎』の池のシーンとも違っているような気がする。小説では景色がもっと開けていたように思えるが・・・
 そこで、『三四郎』をひもといてみた。
 すると、三四郎が野々宮君の穴倉から出てきて、暑さを避けるため涼を求めて森に入り、池のほとりにたたずむ場面を見ると、ここは現在の池と同様隔絶されているような錯覚を覚える。。

 《其森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ蒼い葉と葉の間は染めた様に赤い。太い欅の幹で日暮しが鳴いている。三四郎は池の傍へ来てしゃがんだ。
 非常に静かである。電車の音もしない。》(p.15)

 ところが、一転、三四郎が上を見上げると池の回りが開けているように描写されるのだ。

 《不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向こう側が高い崖の木立で、其後が派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光を透してくる。女は此夕日に向いて立っていた。》(p.15)

 現在池のほとりに立って、周りを見回してみても、眼に入るのは大木と灌木だけだ。看護婦に付き添われた《団扇を持った女》が見えないのは当たり前としても(東大病院に入院している患者さんはここまで散歩の足を伸ばさないだろうか)、建築物は木々に遮断される。『三四郎』は明治42年の発表だから、今から約百年前だ。《団扇を持った女》美穪子が看護婦に「是は何でしょう」と訊ねて、仰ぎ見た《椎》も、回り中の木々も百年の星霜を経て、成長し、繁茂したのだろうか。
 僕たちも、石橋を渡った。すると渡った先は東屋風になっていて、ベンチがひとつあった。前方から素朴そうな男女の二人連れがきて、「あらっ、ベンチがある! すわりましょう」と言って、腰をおろした。女の子の言葉が流暢な日本語なので一瞬驚いた。東南アジアから来た留学生ではないかと勝手に想像していたからだ。それほど二人の学生が地味で素朴に見えたのだ。三四郎池は、あでやかな美穪子にも合っているかも知れないが、ベンチで語り合う素朴な二人の学生にも似合っている。

 我々は三四郎池を後にして池之端門に向かった。そこから不忍池経由で西洋美術館に行く。
 池之端門は本郷通り側の赤門や正門と違って、意匠も何もないつまらない門だった。けれども外の景色は断然おもしろい。門を出た狭い通りの向かいで「かもめ亭」というレストランの看板がものすごく自己主張しているのだ。つい好奇心に突き動かされて、メニューを見る。ランチメニュー850円なりだった。「ここの方が良かったかな?」一瞬、ちらちらと思いが脳裡をよぎる。

かもめ亭

 一日に二度昼食を取ることはできない。次の機会を期するよりないだろう。とあきらめぎみに、振り返ると、そこに弁慶の井戸と称する井戸があるではないか。これまたビックリおもしろい。こんなところに弁慶が来たのだろうか。実に怪しい。

井戸

 「もし来たとしたら」と、妻と大真面目に議論を始める。「どこからだろう」「いつだろう」
 そうこうするうちに、不忍池に辿り着く。ゆりかもめの大群を目にするとすぐさま二人は弁慶のことを忘れて、写真撮影に興じる。鴎外の「雁」もいいが、ゆりかもめもなかなかのものだ。

ゆりかもめ


 ここのゆりかもめは、人にいじめられることがないせいか、近くに寄っても逃げない。それどころか、餌をあげたり,あげる振りをすると大騒ぎになる。
 不忍池を越えると上野公園だ。少し行くと,大道芸人が,一輪車の芸を披露していた。若い女性が見上げるほど高い一輪車に乗ったまま、足に載せた皿を蹴り上げ頭で受けているのだ。

芸人

 最初は一枚,次は二枚,次は三枚、四枚まで成功したところで、西洋美術館の方に向かった。茂みの影でホームレスのおじさんが三人ばかり、ちょこんと腰掛けて拍手をしている様子が微笑ましかった。
 ところで,公園の出口(入口)に立てられた掲示板に、演奏、大道芸をして金銭を受け取ることは禁止と書かれていた。ということは,さっきの人たちはあれだけ人を集めて、拍手喝采を浴びても、一文にもならなかったのか。何とも言えない気持ちになった。一体,日本は堅過ぎる。見物人たちが勝手に投げ入れる投げ銭くらい大目に見られないのだろうか。もっとも,日本では大道芸に金銭がからむと、今度はヤクザが入って来るかも知れない。すると,色々複雑になり,面倒が起こるのだろうか。

 「ムンク展」は想像以上によかった。僕のような素人にもわかりやすかったし(入り口でビデオによる予習ができた),なによりも、「叫び」以外にもスポットが当たっていたのがいい。しかし,彼の絵の題名に「吸血鬼」とあったが、あれはいただけない。解説にもあったが,誰かがそう呼んだにすぎないのだから。あれではムンク畢生のラブシーンも台無しだ。
 ムンク(1863年生)は、給費留学生として2年間の予定で1889年にパリに来た。残念ながら,彼のパリ時代の作品ないし習作はなかった。彼はパリで何を描いたのだろう。なにしろ89年と言えば,革命百周年を記念する「パリ万博」が開催され,あのエッフェル塔が建てられたのだから。彼はその鉄の塔をどう思ったのだろう。いや,パリという町をどうとらえたのだろう。ドガやモネやルノワールのような巨匠たちと面識があったのだろうか。あったとするならどんな付き合いをしたのだろう。想像すると興味が尽きない。
 彼の代表作『叫び』は展示されていなかったが,その周辺の作品,たとえば『不安』があった。これら、苦悩の赤裸な表現の作品が描かれた時代は、ほとんど1893年から94年だ。この93、94年という年は,エッフェル等をあれほど忌み嫌ったモーパッサンの狂気と死の年でもあった。北方の画家の苦悩はそのまま世紀末の不安でもあったのだろうか。彼も,モーパッサン同様生涯妻を娶ることはなかった。
 世紀が変わり,恋に破れた彼の絵筆は,不思議なことに軽快かつ明るくなる。いつもいつも、彼は北欧の短い夏を描き続ける。最北のノルウェーにまるで寒い冬がないかのようだ。海,日の出,日没,恋、ダンス、巨匠の筆は滑らかだ。
 晩年,彼の筆はプロレタリア的なリアリズムを帯びて,冬景色の労働者を描く。が、もはや彼の筆は、フランス絵画とは異質な、あの北欧らしい魅力を発散しない。時代は確実にシャガールのものとなっていたのだ。

館内
常設展の風景(常設展のみ撮影可)


 常設展を見て、館外に出るとそこに光の噴水があった。

電飾
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プロムナード | 19:32:56 | Trackback(0) | Comments(0)
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