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12月23日の記事より・・・死刑制度について
 昨日の毎日新聞(12月23日)に死刑制度に関するネット調査なるものが掲載されていた。このネット調査は説明によると「14~15日、goo リサーチのモニターから無作為で選んだ20歳以上を対象にインターネットで調べ1092人から回答を得られた」(2面)ものらしい。Goo リサーチのモニターがどんな人か、どんな階級で、どんな年齢層が多いか、性別の割合はどうかなど、わからないことだらけだが、確実に言えるのは、パソコンでインターネットを利用している層だということか。



 「パソコンでインターネットを利用している層」とは、どんな階層だろうか。少なくとも我が家はその中に入る。我が家が入るくらいだから、相当の割合の人がこの「階層」に含まれる。だから、「パソコン利用層」は今やこのような調査のベースにもなりうるのだろう。現在でもしているかも知れないが、以前はよく「電話調査」というものがあった。あれは電話を所有している層が対象ということになる。電話を所有している人以外から意見を聞かないということは、電話を所有していないものは限りなく「住所不定」的な存在に近くなるということか。もしそうなら、いずれ「パソコンでインターネットを利用していない層」もその範疇に入る時代が来るということだろうか。現在買い物などの折に電話番号を書いているが、住所・電話番号とともにメールアドレスを併記する時代になるということだろう。ちなみに僕の勤めている大学ではメールアドレスを併記するのが普通だ。
 話がすっかりそれてしまった。言いたかったのは、ホームレスの人や、高齢で機械にうとい方たちはこのモニターには含まれていないだろうということだ。

 さて問題は、その調査の結果だ。「死刑制度の存続を90%」の人が求めているとあった。当然死刑制度の廃止派は10%だ。この調査は、国連総会で、死刑廃止が世界の方向として決まり(反対は日本、アメリカなど)、少なくとも死刑制度のある国に対して死刑執行の一時停止を求める決議案が採択されたのを受けてなされたものだろう。
 死刑制度廃止の理由として、「死刑にせずに罪を償わせるべきだ」(42%)「国家が人を殺すことになる」(22%)「誤審の時取り返しがつかない」(21%)「凶悪犯の抑止にならない」(15%)の順となっている。
 反対に存続派の理由は、「命で償うべきだ」(48%)「凶悪犯罪の抑止になる」(24%)「再犯の可能性がある」(15%)「被害者の遺族感情がおさまらない」(13%)という順だった。
 両方の理由を見比べると、どう見ても、廃止派の方の理由が理にかなっているように思えるのは僕だけだろうか。いつもそうだが、存続派の理由というのはどうしても情緒的なものになってしまい、理論としては常に破綻しているような気がする。たとえば「再犯の可能性がある」という理由に対しては終身刑を定めれば簡単に済むことだし、「凶悪犯罪の抑止になる」という主張も、死刑制度のない国(例えばEU諸国)で凶悪犯罪が増えたという報告も、死刑制度のある国からすると想像を絶するとんでもない凶悪犯罪のニュースも入ってこないところをみると、あまり根拠がなさそうだ。むしろ、死刑制度があると自殺志願者が「人を殺せば死ねる」とばかりにひどい罪を犯すケースがある(大阪の池田小学校)し、「どうせ死刑になるんだから一人殺すも何人殺すも同じだ」という自暴自棄的な凶悪事件のケースもある。そうなると死刑というものは抑止の逆になる。
 「命で償うべきだ」という理由も、きわめて情緒的、さらに言えば短絡的だと言える。殺したのだから、命で償えというのは、古くは「目には目を」のハムラビ法典につながる古典的な刑法だが、現在ではそぐわないのではないだろうか。というのは、現在の法ではたとえ凶悪な犯罪でもひとりを殺したのではなかなか死刑の判決は出ない。それなら何人殺したら死刑になるのか、どういう人を殺したら死刑の判決が出るのか、どんな方法で殺したらより重くなるのか。自首した場合はどうするのか。このように、ハムラビ王の時代と異なり、現在の複雑な社会の中において「命には命」では刑法はとうてい成り立つとは思えない。
 では最後の「被害者の遺族感情がおさまらない」という理由はどうだろうか。先ほどから情緒的という言葉を使っているが、この最後の理由こそもっとも情緒的だ。なにしろ、遺族の復讐心というもっとも奥深い、それこそどうしようもない情念からわき上がる、押さえがたい感情が問題だからだ。子を殺された母、親を殺された子、皆殺しにあった親戚、こういう不幸にあわれた方々の思いは筆舌に尽くしがたい。どす黒い復讐心に燃えても不思議ではないし、当然ともいえる。かくいう僕とてもそんな目にあったならば、相手の死を望むかも知れない。
 上に挙げた死刑存続の理由で一番低い13%しかなかったこの「遺族感情」こそが、実は死刑制度存続を願うもっとも強い理由だということは、ここ数年のマスコミの論調で見てとれる。オウム事件で死刑制度廃止は遠のいたばかりではない。その後の、特に「光市」のいたましい事件と、裁判の経過は、野次馬のような僕たちをも憤激させて、死刑廃止論者に沈黙を迫るほどの圧倒的な迫力で、日本中を死刑制度堅持へとシフトさせた感があった
 未成年だから死刑はなく、いずれは出所できると高をくくっていたかも知れない(?)卑怯な犯人、死刑制度反対派らしき弁護士たちの情けない姿、何度も何度も流される幸せだったときの被害者の母子の写真・・・
 だが、ちょっと待って欲しい。
 死刑制度存続の理由を「被害者の遺族感情がおさまらない」とするならば、同じような犯罪でも遺族のいない人、例えば孤独なひと、ホームレスの人、父殺し母殺し子殺し(遺族にあたる人がいなくなる)の場合は死刑ではなく、復讐を叫びうる遺族のいる被害者を出した場合は死刑になる、ということになりはしないか(実際、親殺しや子殺しの場合、死刑の判決はないらしい)。また、遺族の方が相手の死を望まないこともあるだろう。その場合では死刑の判決が出ないかも知れない。それでは量刑は遺族の気持ち次第ということになりはしないか。
 要するに被害者の命に差が生じないだろうか、ということだ。それこそ、基本的人権の侵害ではないだろうか。

 僕は大学生の時、いわゆる文学青年だった。大学のときはロシアの文豪ドストエフスキーにはまり込み、『罪と罰』のラスコーリニコフの生と死をともに生きたつもりになっていた。彼は、強欲な金貸しの老婆を殺しただけではなくそこにたまたま居合わせた娘をも手にかけてしまった。彼の苦悩、その果てに辿り着いた大地への接吻と自首(娼婦でありながら聖母のようなソーニャ!)、憎むべき犯罪者のシベリア流刑と魂の救済、そこには死刑では到達不可能な何かがあったと思う。
 卒論は、ドストエフスキーとの関連から、アルベール・カミュに興味を持ち、カミュの小説『ペスト』について書いた。もちろん内容も構成も文章もなにもかも「ままごと」のようなもので、読み返す気にもなれない代物だが、その中で登場人物のひとりタルーについて書いたことを今さらながら思い出した。あの時、死刑廃止論という、当時日本では馴染みのなかった問題にはじめて遭遇した。

 舞台はアルジェリアの町、オラン。小説『ペスト』は不可解な鼠の死とともに始まる。鼠の死はやがて恐ろしい伝染病ペストが町中に蔓延する序曲だった。外部との接触が禁止され、閉鎖される町、オラン。主人公の医師リウーは、その閉ざされた町の中で、ペストとそれに起因する様々な問題と闘う。そんな医師に友情を抱き、保険隊を組織してペストと戦い、ついにはその犠牲になるタルーがいる。彼は、オランの町のひとではない、たまたまペストに遭遇したのだ。彼の過去は医師リウーとの会話から知れる。

「いっとかなきゃならないが、僕(タルー)は君(リウー)みたいに貧乏じゃあなかった。親爺は次席検事をやっていたし、これはまあちょっとした地位だ。・・・(略)
・ ・・ちょうど僕が十七になったときだったが、親爺が僕に自分の論告を聞きに来るようにいった。・・・(略)・・・きっと親爺は、自分がそのときいちばんりっぱに見えるものと思ったのだろう。・・・(略)・・・僕は行くことにした。というのは、それは親爺を喜ばせることだったし、それからまた、親爺が僕たちの間で演じているのと違う役割を演ずる姿を見、声を聞いてみたい気がしたからだ。・・・(略)
・ ・・ところが、その日のことについて、僕の心にはたった一つのイメージが残っただけだ。それは罪人のイメージだった。・・・(略)・・・男はまるであんまり強い光線におじけだった梟という様子だった。ネクタイの結び目もカラーの折り口にきちんと合っていなかった。一方の手、右手の爪ばかりかじっていた・・・。要するに、・・・(略)・・・この男は生きていたのだ。
・ ・・・(略)・・・しかし僕のほうは、そのとき突然それに気がついたわけだった。それまでは、ただ《容疑者》という便利な概念を通してしか彼のことを考えていなかったときだからね。
・ ・・・(略)・・・僕はほとんどなんにも耳に入らなかった。ただみんながこの生きている男を殺そうとしていることを感じると、大波のようにすさまじい本能が、僕を一種の頑強な盲目さでその男のかたわらに押しやった。
・ ・・・(略)・・・僕にわかったことは、親爺が社会の名においてこの男の死を要求しているということ、この男の首を切れとさえ要求しているということだけだった。もっとも、親爺はただこういっただけだった。《この首は落ちるべきであります》」(pp.428~430)

 こうしてタルーは、自分が人の死の上で生きていることを知り、父の元を離れ、死刑宣告のない世の中を実現しようとして闘う。だが、どんな組織に入っても、同士とともに闘っても、結局は人の死の上で生きていることを痛感させられる。彼が言うように、「人は皆ペスト患者」でしか生きられないのだろうか?
 「結局」と、淡々たる調子で、タルーはいった。「僕が心をひかれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ」
 タルーは極力人に害を与えず、犠牲者が出れば必ず犠牲者の側に立つことを決める。つまり「聖者になる」ということだ。もちろん無神論者の彼が目指すのは、「人は神によらずして聖者になりうるか」ということだ。

 さて、死刑問題から、さらに行き過ぎてしまったようだ。この小説の一部分からもうかがわれるように、カミュも死刑廃止論者だった。古くは、『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトール・ユゴーも先鋭的な死刑廃止論者だったことを付け加えよう。
 この度の死刑制度存続指示90%という報告は、ますます僕の気持ちを暗澹たるものにした。一体、日本で死刑制度という国家レベルの殺人がいつかなくなることがあるのだろうか。そして、真の意味で日本が先進国になることがあるのだろうか。
 今これを書いている時、TVニュースで、「今年の死刑判決は20を越した」(何年か前までは20を越えることはなかったらしい)と放送していた。理由にやはり「遺族の感情」という表現がなされていたように思う。タルーではないが、死刑囚の首にかけるロープの何千万分の一か、何億分の一かわからないが、その一部を我が税金で支払い、僕も「人の死」の上で生き、殺人に加担しているのかと思うと、やりきれない気持ちになる。
 ちなみに、同じコラムに、「09年にスタートする裁判員制度で、無作為に選ばれる市民が死刑などが定められた重大事件を裁くことに対して、「負担に思う」が(73%)、「負担に思わない」が27%だった。死刑判決が出るような重大裁判には、70%以上の人がかかわるのが億劫だと答えている。
 もし日本が西洋諸国のように古くから陪審員制度があり、一般人が重大裁判に身近に関わったり、関わる可能性があったとしたなら、死刑制度廃止の風潮はもっと早く押し寄せていたかもしれない。生か死かというような重大裁判に立ち会う、ということは「億劫」どころの話ではない。我々一般人が論理的に「人を生かすか殺すか」というぎりぎりの選択に直面することだからだ。

引用した書は新潮世界文学48 カミュ1( 訳者 宮崎嶺雄)から。
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オピニオン | 22:04:59 | Trackback(1) | Comments(0)
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  この記事は、2007年9月30日の「死刑廃止FAQを作ってみようかな。」という記事で考えた構想にしたがって2008年1月1日から作り始め、ときどき新... 2009-08-08 Sat 23:26:42 | 村野瀬玲奈の秘書課広報室

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