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乾燥社会とコンビニ
12月29日(土)曇

 朝刊の社会面の見出しに思わず瞠目してしまった。先日(12月23日 http://scipion.blog60.fc2.com/blog-entry-108.html#more)、今年の死刑確定が20を上回り、ますます増加していると書いたばかりだったが(死刑確定者23人)、今日の見出しは「死刑判決 最多の47人」となっているではないか。最高裁にデータがある80年以降最多だそうだ。ちなみに80年以降の死刑判決数は、年間5~23人だったが、01年に30人、02年に24人、03年に30人、04年に42人、05年に38人、06年に44人となっていた。これから上告などの再審があるので、死刑確定とは異なるが、それにしても、死刑判決、いわゆる「厳罰を持って臨むほかない」という決まり文句がいかに多く発せられるようになったことか。
 また、拘置所に収容されている死刑確定者も107人に上り、年末としては戦後最多となったそうだ(今年は9人も処刑したのに)。


 毎日新聞は、先日述べたように「被害者感情を重視し、厳罰化傾向が進んでいることが背景にある」と結んでいる。
 この記事について、刑事法の先生が次のようにコメントしている。
《メディアの犯罪報道などによって社会に厳罰主義の流れが進み、司法判断も影響を受けていることが、死刑判決増加の背景にある。刑法犯の認知件数は減ってきているのに、全く落ち度がない子供が被害者になるような残忍な犯罪が増えていることも理由の一つだ。・・・以下略(結論は「社会で残忍な事件を減らす努力を」)》
 つまり、厳罰主義で臨んでも凶悪犯罪は減らないという証左でもある。それよりも、この先生が言うように、社会そのものが凶悪犯罪をなくす、あるいは凶悪犯罪から身を守れる環境を構築する必要があるのではないだろうか。
 もちろん今具体的な方策を述べよ、と言われても困るが、犯罪を生み出す環境を改善することから始めるしかないだろう。たとえば、格差をなくすということも大切だ。社会全体が貧しいことに人は恨みを抱かないが、自分だけ貧しいこと、自分だけ除け者にされていることに恨みを抱くものだ(秋田の子殺し事件)。
 また、社会全体がかさかさに乾いた関係性の中で生きていることも、内面の荒廃に繋がるのではないか。例えば、買い物に便利なコンビニという店の形式が、ここ十何年かで、人と人、人と子供、子供と子供の関係を乾いたものにしていったと考えられないだろうか。

 立場上、学生から「フランスにもコンビニはありますか」とたびたび尋ねられる。その度に、僕は問い返すことにしている。「コンビニの定義は何ですか。それがわからないと答えられません」
 すると、質問者は一様にビックリする。そんな問い返しを想定していないからだ。「そんな・・・考えたことありません」少し時間をおくと「便利な店ですか?」
 「それはそうでしょ、英語の convenience store(便利な店) の略語なんですから」
 「では、一晩中やっている店」
 「でも、学校にあるコンビニもコンビニと呼んでないですか? あれが一晩中やっているとは到底思えません」
 「・・・、何でも売っている店」
 「まあ、いいでしょう。何でも売っているかどうか知りませんが(そんなわけないだろう)、何でも売っている店、という意味では日本では《百貨店》というのがありましたが。今はなくなりましたか(苦笑)。君たちが必死になって言おうとしているのはわかります。そういう意味の店はフランスにはありません。一晩中開店している雑貨屋と食料品屋の混合のようなのは。まあ、それは置いといて、適切かどうかわかりませんが、僕のコンビニの定義を言っていいですか。「商品が安くない割に、一円も負けない店。隣近所にあるのに店員が常に匿名性を帯びている店。こんな感じかな」
 前者については説明の要はないだろう(同様のケースにデパートやスーパーもある。デパートは身近ではないが、スーパーはコンビニに近いかもしれない)。後者の「匿名性」についてはひとこと言おう。そうしないと「店員は名札をつけています」と言われるかもしれないからだ。もちろん、「匿名性」というのはそういう意味ではない。店員の方達と僕は今までも知り合いではないし、これからも知り合いになりそうもない、ということだ。例えば、我が家の近所のコンビニの店員さんたちを見ると、今まで会ったことがなかった、つまり近所の人ではなかったし、よほどの努力をしなければおしゃべりをして、親しい仲になりそうにない、ということだ。それは僕がお高くとまっているから、と思わないで欲しい。そうではない。彼らは「いらっしゃいませ」と言う時、僕の目を見ていない。通りすぎながら、機械のように「いらっしゃいませ、こんにちは」と誰でも誰に対しても同じ決まった抑揚で言うのだ。これは「歓迎の気持ちはありますが、親しい関係になりたくはありません」と表明しているのと同じだ。
 それは店の経営としては当然のことかもしれない。というのは、店員が来る客来る客と次々親しくなり、馴れ合うようになるのは、様々なトラブルの原因となり経営者としては望ましくないからだ。まして、店員がデパートなどのプロの店員のようにあらゆる客に適当な距離感を保ちながらうまく接客ができればよいが、アルバイトの若者だとそうはいくまい。むしろ、匿名性の中にいる方が安全なのだ(商品の善し悪しについての判断や会話は皆無なのだから、プロの店員である必要がない)。
 例えば、僕が通う近所の肉屋さんと八百屋さんは、コンビニとは正反対の概念を持った店だ。
 昨日も八百屋さんで、勘定をしていると、そこのおじさんが「いつもいつもありがとうございます」と、小声ながらつくづくと礼を述べてくれた。僕はあまり愛想のいい方ではないので、ずいぶんと失礼をしているかもしれないのに、それでもお礼は言ってくれるし、時には半端の金額をはしょって負けてくれることもある(先ほど、買い物をしたら、2410円の10円をわざわざ返してくれた。たかが10円と言わないで欲しい。あくまで気持ちなのだ)。
 時たま、本当に時たまだが、子供が買いに来ると、「いい子だなあ、お手伝いかぁ。この茄子、いい茄子だってお母さんに言っといて」あるいは、子供の買い物メモを見て「ごめんね、ぼく。今日はキュウリいいのがないんだ。これ安くしとくから、これ持ってって。おかあさんに、謝っといてぇな」
 肉屋さんも同様だ。「今日は寒いねえ」と僕の顔を見ながら、にこにこする。ここでは売り手はむしろ匿名性を脱ぎ捨てて、親密性を求める。どちらの店でもアルバイトを使っているが、どちらも近所のオバさんだ。この店以外でも顔を見かける。ただし、胸に名札を着けていないので、どちらの店主の方もバイトの方も今だ名前を知らない。多分店の人もそうだろう。名前で呼ばれたことがないからだ。だが、これはコンビニの「匿名性」とは根本的に違う。
 以前は(20年ほど前)この近くにも商店街があり、年末の今頃は商店街の店で買い物をすると福引きをすることができた。一等賞はせいぜい自転車かテレビだったがそれでも通りのあちこちで歓声が上がっていた。貧しい地域の、貧しい商店街だったが、目を背けたまま「いらっしゃい」と言う店員はいなかったし、「101円」の勘定で、一円玉を探していると、「いえ結構ですよ」と言ってくれたりもした。90年代に入り、コンビニができ、櫛の歯が抜けるように、店は一軒一軒なくなり、さっきの肉屋さんと八百屋さんだけになってしまった。恐ろしいのは、地元の商店と違いスーパーやコンビニは採算が取れなくなるとすぐに店を畳んでしまい、その後残るのは廃業した商店街だけになることだ。当たり前だ。彼らは地域活性化のために店を経営しているのではないのだから。当然、雇用も近所のオバさんである必要がないわけだ。目的地を探すのに、コンビニのお兄さんに道をきいたことがあるだろうか。以前この事情を知らない時に経験があるが、役に立ったことはない。これまた当たり前だ。彼はその町の人間ではないのだから。別に不親切というわけではない。「ここのものではありませんので」とすまなそうな顔をするだけだ。
 歯の抜けた商店街には子供の歓声は聞こえない。
 もちろん、コンビニだけが悪いわけではない。時代の流れは自動販売機、自働改札、ATM等々、コミュニケーションの場は可能な限り減少し、スーパーやコンビニなど、店員との関係が希薄な店は増え続ける方向にあるのだから。
 言い古されていることだが、そういう利便性を追求すればするほど、思いやりとか温見(ぬくみ)、お節介や意地悪など、人と人が交われば自ずと生じるうるおいが追いやられることになる。結果はかさかさに乾燥した環境だけが残る。そんな中で、女も男も、子供も大人も、つかず離れずの関係を身につけ、べたべたした人間関係を極力避けながら、生きていく。もしかしたら、家によっては家庭内まで乾燥しているかもしれない。互いのコミュニケーションはケータイやパソコンのメモだけになっている親子や兄弟関係もあるのかもしれない。
 そんな環境で、差別意識や落ちこぼれ意識にさいなまされた人間はどこにその発散場所を求めるのだろうか。オバさんが話を聞いてくれるような安い小料理屋、「いいよ、今日はつけで」と言ってくれるような店は今やおいそれとは見つからないだろう。チェーン店の居酒屋に行っても、話し相手なぞいるわけもなく、あげくの果てにコンビニのレジのごときレジでぴしゃりと支払わされる。彼はどこに行くのだろうか。コンビニで発泡酒を買い、弁当を買い、ひとり部屋で食するのだろうか。
 この男が、さっき話題にした近くの八百屋さんの常連なら、「どうだい景気は? 今きついからな」と声をかけられるかもしれない。あるいは、彼がこう言って、ぼやくかもしれない。「おやじさん、寒いねえ。財布まで寒いや」
 そんな他愛もない言葉のやりとりでも、コンビニの機械的な抑揚の「いらっしゃいませ」よりどれほどましなことか。
 社会の病巣は、乾ききった人間関係を営まざるをえない現代社会そのものにあるのは疑い得ない。もちろんここまで来て、今享受している利便性を手放すことなど論外だろう。差別意識、格差意識の解消に努めるのは当然だが、格差社会の仕組みそのものを根本から考え直さなくてはならないだろう。しかしこれは政治の問題が絡む難しい課題だ。僕にできることといったら、さっきの八百屋さんや肉屋さんをせいぜい利用して、店の元気を長続きさせることぐらいか。飲み屋に行くときには、可能な限り大型チェーン店を避けて個人の小料理屋を利用しよう。ささやかながらこのような、人の間尺に合った店は、心の健康にもいいのだ。日本の古き良き伝統とはこんなことかもしれない。
 「死刑判決最多」からずいぶん遠くまで(近くまで?)来たものだ。要するに、厳罰をいくら科しても、凶悪犯罪はなくならないと言いたいのだ。それよりも犯罪の起こりやすい環境を変えなければならない。これは現在世界的な問題となっているテロとも通じることだ。いくらテロリストをモグラ叩きのように叩いても、テロはなくならない。テロの起こる土壌そのものを変えなければだめだからだ。
 来年こそ、死刑判決の減少を、子殺しのような凶悪犯罪の消滅を願わずにはいられない。
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オピニオン | 19:49:19 | Trackback(0) | Comments(0)
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