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書評・・・『私家版・ユダヤ文化論』(内田 樹)文春文庫
12月25日(火)曇・・・アップは遅れて、大晦日になってしまいました。

 奥付を見ると第1刷発行が2006年7月20日となっているから、この本が出てから一年以上経っていることになる。こんなおもしろい本に出会うのに一年以上とは、いささか己のボケ具合にあきれてしまう。

ユダヤ文化論

 以前、フリーメーソンとユダヤ人の問題を雑文にして『父の肖像』という題で、このブログで紹介したことがあった(http://scipion.blog60.fc2.com/blog-entry-104.html) が、その中でのユダヤ人問題はあくまで、19世紀の資本主義や政治・経済、事件の流れの中でとらえたにすぎなかった。そういう意味で、反ユダヤ主義の本質に迫るものでは到底あり得なかった。


 今おりしも、H.-E. Kaminski の『茶シャツを着たセリーヌ(仮邦題 CELINE en chemise brune)』を読んでいるところだ。フランス語を読むのが疲れたので、ちょっと息抜きにと、この内田 樹(たつる)氏の著作『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)を手にとった。こんなことを言うと失礼かも知れないが、そして僕の抜きがたい偏見も露呈してしまうことになるのだが、本が文春文庫なので、あまり期待もせず、軽くユダヤ問題のおさらい程度のつもりで読み出した。それがどうしてどうして、サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書)に勝るとも劣らない(僕に言わせれば優れている)、反ユダヤ主義のまさに本質に迫るユダヤ人論の好著だった。
 この著者がサルトルよりも一歩進んでいるのは、レヴィナスをしっかり読み込んでいるせいかも知れない。最後の「7 結語」あたりを読んでいるときには「鳥肌が立った」というのは使い古されているから、「総毛立った」とでも言おうか。フロイトからレヴィナスまでしっかり読んでいる人はやはり違うな、と思う。
 遅きに失した感はあるが、この優れものを簡単に紹介してみたい。

 著者は他のユダヤ人論と同様「ユダヤ人とは誰か?」から出発するのだが、その問いはあまりに難しいので、消去法「ユダヤ人は何ではないのか」から話を始める。
1. ユダヤ人というのは国民名ではない。
2. ユダヤ人は人種ではない。
3. ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。
 この最後の3.については説明を要するだろう。著者も書いているように、《近代市民革命による「ユダヤ人解放」以後、かなりの数のユダヤ人がキリスト教に改宗した》が、《ユダヤ人であることを止めることができないということをニュルンベルク法と「ホロコースト」は教えた》からだ。《ユダヤ人と「ユダヤ教徒」が同義語であったのは、近代以前までのことである》(p.28)と、氏は言い添えているが、ここで「近代」とは、18世紀末のフランス大革命(1789)と考えていいだろう。
 それなら、ユダヤ人とは?
 ここでサルトルの著『ユダヤ人』を参考にする。つまり、サルトルが言うように、ユダヤ人とは《実定的な存在ではなく、反ユダヤ主義者が幻想的に表象したもの》かどうか。また、彼の同士ボーヴォワールの有名なフレーズ「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と同様の表現をユダヤ人に当てはまるのかどうか。著者はここで「否」を言い、この定式はユダヤ人には当てはまらないと主張する。
 むしろ、ラカンが取り上げる対立項《「昼と夜、男と女、平和と戦争」という対語から始まる長いリストの続きのどこかに「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対語を書き加えたい》と著者は言う。そう言うことによって、彼は、スリリングな確信を抱くのだ。
 《この二項対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはそれまで言うことのできなかった何かを言うことができるようになった》(下線部は著者の傍点部、以下同じ)(スキームとは図式のこと)
 《ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは今のような世界になったのである》(注:「シニフィアン」とはフランス語で「意味するもの」。ここでは、通常のシニフィアンに上の引用文の「何か」というシニフィアンを付け加えたもの)
 ここが大事なところだ。サルトルは反ユダヤ主義者にとって優越を抱き続けるために《ユダヤ人がどうしても必要だった》と言い、《ユダヤ人を創造したのは、キリスト教徒であるといっても決して言いすぎではない》(p.81 『ユダヤ人』岩波新書)と書いたが、内田氏の踏み込みはそれを越える。これはラカンと、後に取り上げられるレヴィナスを彼が踏襲しているからかもしれない(もちろん、その後の様々なユダヤ人問題を承知しているはずだから)。
 著者は次の章で、まだ「ユダヤ人」というシニフィアンを持たなかった日本の事情について語る(第二章 日本人とユダヤ人)。
 この章で、著者は面白い概念を紹介している。分子生物学者ルドルフ・シェーハイマーが「ペニー・ガム法」と名付けたその概念は、y=f(x)の方程式だ。これがなぜペニー・ガムかと言うと、ガムの自動販売機を考えればいい。ペニー硬貨を機械に入れるとガムが飛び出して来る。つまり、ぺニー貨というものがあるファクター(関数f)を掛け合わせることで、ガムになるというのである。著者によると、陰謀史観はすべて「ぺニー・ガム法」だという。
 三章(「反ユダヤ主義の生理と病理」)はフランス革命と陰謀史観から始まる。僕にとっては以前書いた雑文とだいぶリンクする章だ。特に、19世紀最大の反ユダヤ主義者エドゥアール・ドリュモンのベストセラー本『ユダヤ的フランス』について、ちゃかすだけではなく、しっかりと批評眼を持って取り上げているのは、敬服に値する。
 さて、ドリュモンの革命史観は、まさに「ぺニー・ガム法」だという。なぜなら、この反ユダヤ主義者は「革命による最大の受益者は誰か」「ユダヤ人である」と考える。だから、革命を引き起こしたのはユダヤ人だ、というわけだ。ユダヤ=f(革命) の方程式が成り立つわけだ。著者はこのような「閉鎖系」では、19世紀以降の問題は解決できないと主張する。
 終章(「終わらない反ユダヤ主義」)で、ノーマン・コーンの「特別の憎しみ」について解説してくれる。これこそ、僕の待っていた考え方だったのだ。
 まず、非差別集団は常に必ずあらゆる集団に存在する。《ユダヤ人が存在しない社会では、別の任意の小集団が(例えば黒人が、例えばツチ族が、例えばセルビア人が・・・)「供犠」の対象に選ばれる》(p.165)というわけだ。
 ところが、コーンはユダヤ人が憎まれるのはこの論理ではないと主張する。そうではなくて、《ユダヤ人が蒙っているのは「特別の憎しみ」であり、この憎しみは他のどのような非差別集団によっても引き受けられることができない。・・・(略)・・・こういうことを書いた人はそれまでには反ユダヤ主義者しかいなかった》(pp.165-6) 申し添えておくが、コーン自身もユダヤ人ということだ。
 ここにこそ、著者の眼目がある。この特別の憎しみとは何か。それを追求するのが、この終章であるはずだ。そしてこれは難解を極める。
 ここで再びサルトルが取り上げられる。サルトルは《ユダヤ人がユダヤ人である時、彼はユダヤ人である。ユダヤ人がユダヤ人でなくなろうとする時も彼はユダヤ人である。ユダヤ人はユダヤ人であることによって罰せられ、ユダヤ人でなくなろうとすることによって罰せられる》(p.197)と、看破している点ですぐれているが、著者が納得したいのは、《なぜ他ならぬユダヤ人だけが》そうなのかということだ。それにサルトルは答えていないというのだ。
 ここまで来ると、著者自身も言っているように難解の極みに達する。この場で僕が端的に明解な説明などできるわけがない。この書を読んでいただくよりしょうがないだろう。
 しかし次のパラドクスから始まる一節だけは読んで欲しい。《サルトルには申し訳ないけれど、ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者ではない。やはりユダヤ人が反ユダヤ主義者を作り出したのである。
 この行程を逆から見ると、反ユダヤ主義者がユダヤ人を憎むのは、それがユダヤ人に対する欲望を亢進させるもっとも効率的な方法だから》(p.218)
 この欲望こそ、フロイトの言う原父殺しと関わるというのだ。しかし、やはりこの後の結論は、消化不良のまま、言わない方がいいだろう。この書評だけ読んで、消化不良のまま満足されても困るからだ。ただ言えることは、この反ユダヤ主義はユダヤ教とユダヤ人という特殊な状況の中でしか成り立たないということだ。
 このことと、ユダヤ人のあらゆる分野における才能の突出性をも関連づける。例えば氏はユダヤ人のノーベル賞受賞者の統計をあげる。
 医学生理学賞のユダヤ人受賞者48名(182名中・・・26%)、物理学賞44名(178名中・・・25%)、化学賞26名(147名中・・・18%)に達する。ユダヤ人の世界人口に占める割合はたったの0.2%にすぎないのにだ。
 また、映画界、音楽界の分野に目を向ければ、さらにユダヤ人の突出ぶりがわかるというものだ。こういう事象も含めて、というより、こういう事象を踏まえて、この著書の中で「ユダヤ人の特異性」について考察されているのが、またサルトルの「ユダヤ人」とも違うところだ。

 「これは単なるユダヤ論ではない」と、養老孟司氏が帯の推薦文に書いているが、まさにその通りで、我々読者はユダヤと反ユダヤ主義についての論を読み進むにつれて、始源の神とトーテミスムの問題にまで立ち入ることになる。つまり、人間の根源にまで考えを及ぼさなければならない、ということだ。
 ユダヤ問題とは、世界をおおい尽くしている西洋文明の、エネルギーであると同時に根源的かつ深刻な瑕疵でもあると言えるかもしれない。なぜ、ナチスが前代未聞の大虐殺という手段で、ユダヤ問題の「最終解決」に邁進したのか、この本を読んで少しわかったような気がした。
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書評 | 21:25:06 | Trackback(0) | Comments(0)
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