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石田明生

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「鳥のさえずり」について(2)
 最近 I さんという方から、メッセージをいただいた。やはり、駅のホームで流れている「鳥のさえずり」を常々不快に思っていらっしゃると言う。さらに日本の、あるいはJR東日本の「貧しさ」をお感じになっておられる(同感!)。ところで I さんは僕よりも行動的だ。JRサイトを通して、あの音を流している理由を尋ねて、現在回答待ちの状態だそうだ。どうか I さん、回答が来たら教えて下さい。興味津々です。

 そこでもう一度、この「鳥のさえずり」について考えてみよう。


 昨年僕の記事(12月12日)でどなたかの次の文を引用したが、

《駅のホーム上で聞こえるのは視覚障害者のための案内であって、癒しのためではありません。

平成14年に国土交通省から示された「旅客施設における音による移動支援方策ガイドライン」によるものです。
駅における改札口、コンコースからのエスカレーター、トイレ、ホーム上の階段、地下鉄の地上出入口の5ヶ所について、音案内の標準の方法がガイドラインによって示されています。》

 これだけではわからないので、「施設における音による移動支援方策ガイドライン」を検索して調べてみたら、次のような項目があった。

《それぞれの場所における音案内の標準例として、改札口はピン・ポーンという音響、エスカレーターは行き先と上下方向の音声案内、トイレは男女別の音声案内、プラットホーム上の階段は鳥の鳴き声、地下鉄地上出入口はピン・ポーンという音響を示した》

 たとえば、僕の最寄り駅では、エレベーターとエスカレーターの案内用に言葉による放送が流れている。鳥のさえずりはむしろホーム上に上がった時聞こえるから、メッセージとしては「ここはホーム上ですよ」と確かに言っている感じがする。もちろん、視覚障害者の人に「現在プラットホーム上にいるから」と言って、注意を喚起するのは悪いことではない、それどころか必要ですらあるだろう。だからと言って、どうしてそれが「鳥のさえずり」でなければいけないのだろうか。
 いくら耳に心地よいからと言って、自然界にある(あるいは自然界に存在するのに近い)音にメッセージ性を与えることが間違っていると言いたいのだ。
 今まで人は、様々な音や形や色にメッセージ性を与えて、生活空間に快適性を導入してきた。たとえば、信号機の色(赤、緑、黄)やサイレンの音がそうだ。しかし良く考えて欲しい。危険を意味する赤や安全を知らせる緑は単に信号機という物体の枠をはみ出してさらに人の生活空間に入り込んではいないだろうか。サッカーの審判が差し出すレッドカード、イエローカードは今やサッカーグランド以外にも進出していないだろうか。救急車にしろ、パトカーにしろ、人のサイレンの音に対する反応はどうだろうか。あるいは、横断歩道の印は? 方向を示す矢印は?
 ところが、この、快適生活を創出する人間の知恵の成果はすべて自然界にそのまま存在するものとは似ても似つかないものだいうことに注意して欲しい。そう、似てはいけないのだ。自然界のものに不必要に自然界以外の「意味を持たせてはいけない」のだ。雷の音はいくら恐怖を与えるのに効果的でもサイレンの音にしてはいけない。小川のせせらぎはいくら耳に心地よくても、緑の信号機の代りにしてはいけないし、まして、黄色の信号機にするなど言語道断だ。もしも、せせらぎの音が聞こえるたびに注意の身構えをするように刷り込まれたとしたら・・・想像するだに恐ろしい。
 ホーム上で聞こえる「鳥のさえずり」が乗客の耳を心地よくするための効果音(癒し効果) 以外の意味を持ち、注意を喚起するメッセージ性を持っているとは・・・古来慣れ親しんできた鳥のさえずりはその自然の自然性を失い、人の文明の意味に汚されることになってしまうだろう。そればかりか心配なのは、視覚障害者の方たちにとって、鳥の鳴き声は駅にいるいないに関わらず、不必要に煩わしいものになってしまうのではないだろうか、ということだ。この心配、取り越し苦労なら、それはそれでいいのだが・・・

 ところで、鳥のさえずりと言えば、僕は毎朝そのかしましい鳴き声で目を覚ます。ヒヨドリ、ムク、セキレイ、鳩、雀・・・これは、都心から遠く、小さな家が寄り添う地区に住む貧しい我が家の唯一の贅沢かもしれない。その鳥たちは、時々、猫の額ほどの庭に降り立つこともあった。そんな時、ガラス戸越しに鳥図鑑を片手にバードウォッチングを楽しむ。うれしい瞬間だ。
 去年の暮れ頃、そのうれしい瞬間をもっと持続的なものに、つまり「うれしい時間」にすることはできないものだろうかと、欲が頭をもたげた。そこで、せっせと餌台を作って、水やパン粉を置き、鳥たちの到来を待った(餌台の上で鳥たちが餌の取り合いをする姿を夢見て)。

庭
鳥さんの到来をひたすら待ち続ける二つの餌台


 驚いたことに、それから鳥はぴたりと来なくなった。餌台の設置が鳥の警戒心を誘発したのだろうか。やはり欲張り過ぎたのだろうか。
 年が明けても、家のまわり中でかまびすしく鳴き声を立てていても、鳥たちは我が家の庭に降りて来ない。警戒心が解けるまで無理なのだろうか。
 ところが先日、ついにヒヨドリが来て、枝に刺しておいたミカンをついばんだ。やっと!
 すると次に、鳩が庭を歩きながら、柚の種をついばんでいた。ついに!
 我が家の喜びようを想像して欲しい。柚の種を追加し、ミカンの実を枝に指し直し、南天の実を餌台に置いた。
 実を言うと不安もある。妻がぼそっと言ったひとことだ。「大きな鳥が来るとセキレイのような小鳥が来なくなるかも」
 確かに・・・内心うなずきながらも「どんな鳥でもまったく来ないよりはマシだね」と、己を慰める。
 聖フランチェスコではないが、小鳥たちが集まり、餌台で餌をつつき、さえずりが絶えない、そんな庭を勝手に想像している。その鳥たちをカメラに収められたら・・・いやいや、そこまでは欲張らないようにしよう。
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その他 | 20:52:54 | Trackback(0) | Comments(0)
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