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紀伊国屋サザンシアターにて劇を見る
1月26日(土)快晴

 今日は1時間目だけ試験。そして今年度最後の出講だ。少しうれしい(採点と成績表記がなければもっとうれしいのだが・・・)。

 帰りに新宿で途中下車して、紀伊国屋サザンシアターに行く。民藝の一月公演『選択 一ヶ瀬典子の場合』を見るためだ。劇作家の木庭久美子さんから招待状をいただいた。昔から親しくさせていただき、作品上演のたびに招待状をいただいている。だから、木庭さんの劇はほとんど観させていただいている。『夢二の妻』や『ピアフの妹』のような、偉大な人物の近くで暮らす地味な人間の微妙な心理にスポットを当てた作品もあるが、木庭さんの真骨頂はやはり、「老い」と正面から向き合い、老いを抱えた人間の実存をテーマにした劇(例えば『さよならパーティー』)になるだろう。
 今回の『選択』も、老いの先で待っているかもしれない「認知症」や「終末医療」、「尊厳死」がテーマだ。


 一ヶ瀬典子は、末期癌で苦しむ患者の妻から、「楽にしてやって欲しい」と涙ながらに懇願され、ついに患者を安楽死させてしまう。それが、当局の知る所となり、彼女は告発される。そのうえ、事もあろうに患者の妻は安楽死など頼んでいないと、偽証する。こうして、彼女は窮地に追い込まれる。なぜ彼女は安楽死という選択をしたのだろうか。彼女が延命治療に対して批判的だったことはわかるが、実際の一歩(一つの選択をする)となると話は別だ。
 彼女はその理由を弁護士に語る時、古代悲劇のヒロイン、アンチゴーネ(劇中ではアンチゴーヌと発音していた。さすが仏文出身の木庭さん、フランス語の音だ)の例を出す。アンチゴーネは古代ギリシャの劇作家ソフォクレスの劇「オイディプス」もののひとつだ(3作ある『オイディプス』『コロノスのオイディプス』『アンチゴーネ』)。
 エディプス・コンプレックスという言葉まで生まれた(フロイト)ことであまりにも有名なテーバイ王、オイディプスは、アポロンの神託通り、父親を殺し、母親と結婚する。そしてこの婚姻から男二人、女二人の四人の子が生まれるが、アンチゴーネは長女(母親の子でもあるから妹でもある)だ。オイディプス王なき後、息子二人はテーバイの王座を争い、相打ちとなり、相果てるが、王となった叔父のクレオンはテーバイ攻めをした反逆者の遺体の埋葬を禁ずる。
 兄を埋葬できない不条理に怒りを覚えたアンチゴーネは、テーバイの掟よりも神の掟の優位性を楯に、兄を埋葬する。そのために、王クレオンは彼女に死刑の判決を下す。
 要するに、掟に従うクレオンが正義か、掟よりも家族愛という掟以前の感情、つまり神の掟に従ったアンチゴーネが正義なのか。安楽死の問題は、今から二千五百年近く前の劇作家ソフォクレスの選択と同質なのだ。ソフォクレスの劇には、「悪法も法なり」と言って唯々として死んで行ったソクラテスの態度はない(ソクラテスはソフォクレスよりも後の人)。アンチゴーネは古来反抗する女の象徴なのだ。現代のアンチゴーネ、典子は終末医療、とりわけ延命治療に対する批判を展開し、法律の非を説く。裁判は、典子対医師会=法律という対立構造を生む。そこにはもはや、患者の妻からの懇願というセンチメンタリズムの入り込む余地はない。

母と娘
パンフレット『民藝の仲間350号』の写真を転載(青木道子と白石珠江)
認知症の母親と典子
母親が言う認知症特有の台詞に笑って反応していたのはお年寄りの観客ばかりだった。
この笑いはどんな質なのだろうか。


 次に彼女が弁護士に語るのは、認知症の母親への思いだ。病気以前の母親と彼女は約束をしている。母はこう言っていた。「お母さんが、自分のことを何もできなくなったら、安楽死させてね」
 元気だった母親に、彼女は笑って「ええいいわよ」と安請け合いをしていたのだ。ところが認知症は現実のものとなった。人に迷惑をかけることをあれほど嫌っていた母親は、食事から下の世話まで何もできなくなってしまったのだ。娘の顔さえも識別できない。だからといって、もちろん彼女には母の命を絶つことなどできやしない。
 そんな苦悩を背負いながら、彼女は末期癌患者の終末医療に携わっていた。そのときひとつの「選択」がなされたのだ。苦痛を訴えない認知症と違って、猛烈な痛みに苦しめられる末期癌患者と、経済的にも肉体的にも疲労困憊する患者の家族たちを前にして、典子は注射器を手にする。人は、鼻や口に管を入れられ、手足を点滴の注射痕だらけにして生きながらえるよりも、尊厳死を選ぶことができる。それどころか、たとえ患者自ら意思表示ができなくともほかならぬ医師には患者の尊厳死を選択することができると、典子は言いたかったのだろう。難しい問題だ。医師は神ではない。注射器で人の命を縮める権利は神ならぬ身、人間には絶対にないのだ。もしできるとするなら、人工呼吸器など、付属物をとり除くことくらいだろうか。

 演出はベテランの渾大防一枝氏だった。仕方ないのかもしれないが、裁判シーンはなんとかならないものだろうか。裁判長副裁判長の三人が高台で観客席を向いているのに、証言台も証人も観客席を向いている。つまり我々観客は裁判官であると同時に傍聴人ということだろうか。もしかしたらそれを意図したのかもしれないが、僕としては観客は傍聴人でいたかった。だから、思い切って、証言台を舞台の奥に向けて、証人は本物の裁判のように観客に背中を向けてもよかったのでは、と思う。もっと臨場感が出たかもしれない。が、証人席の役者さんは背中で演技するという困難にぶつかることになり、たいへんかもしれない。

裁判
パンフレット『民藝の仲間350号』の写真を転載
(前列左から白石珠江、伊藤聡、戸谷友、吉岡扶敏)
偽証する患者の妻(裁判官と証人が観客の方を向いている)

 主役の典子役は白石珠江という女優さんだったが、これといって難はないのだが、おそらく手がきれいな人なのだろう。それが裏目に出ているような気がした。演技中、手がまさに手持ち無沙汰で、哀れなほどだった。特に腕をたらしているときはまったくと言っていいほど手が死んでいた。だから、手に何か持つとか、髪をかきあげる癖を付けるとか、何か工夫してやらないと、手がかわいそうだ。もっとも、役者さんが指先まで張りつめた演技ができれば一流中の一流だ。

 上演後、一瞬だったが、木庭さんにお目にかかれた。お元気そうなご様子で、以前と少しもお変わりになっていない。「老い」や「死」と向き合い、テーマになさっておられるので、かえってお年を召さないのかもしれない。うれしいことだ。

『選択 一ヶ瀬典子の場合』
作 : 木場久美子 演出 : 渾大防一枝  民藝上演
1月23日(水)から2月3日(日)まで紀伊国屋サザンシアターにて

 紀伊国屋サザンシアターに初めて入ったが、なかなかいい劇場だった。さすが民藝、ほぼ満席だった。ちなみに、名優大滝秀治さんの姿を見かけた。ご年配にも関わらず、かくしゃくたるものだ。僕のほうは昔から知っていたので思わず会釈してしまった。大滝さんは「はあ?」というような顔をしておられた。当たり前だが・・・
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劇評 | 18:14:42 | Trackback(0) | Comments(0)
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