■プロフィール

石田明生

Author:石田明生
ホームページの方もよろしくお願いします。
文学雑感、旅行記、翻訳などを載せています。

■4travel

スキピオの旅行記(写真付き)もごらんください。

■最近の記事
■カテゴリー
■最近のコメント
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■リンク
■アクセス解析

■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んで(1)
I. ある事件と『ノートル=ダム・ド・パリ』

 昨日から,新聞やテレビで埼玉県のある高校長の話題がにぎにぎしい。今朝,たまたま付けたテレビ画面で,「みのもんた」という司会者が「とんでもない奴だ」「このやろう」というような表現でその校長を罵倒していた。さらに,「教師は聖職者(この字でいいのかな)なんだから」とも言っていたように思う。
 この哀れな校長は年齢56歳にして、愚かなことに元教え子,兼恋人(?・・・付き合っていたらしい)に、ふられた腹いせに、脅しのメールや手紙を送りつけたという由。こともあろうに、校長室のパソコンを使っていたということだ(例のテレビ番組ではゲストのひとりはこの点を強調していた・・・聖域での破廉恥行為?・・・アメリカの大統領の執務室での情事というのもあった。あれも聖域)。

 昨日、ヴィクトール・ユゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』を読了した。このあまりにも有名な小説、自分がそうだったからといって、他人をも巻き込むのは気が引けるが,この分厚い小説の完全版を読んだ人は意外と少ないのではないだろうか。少年・少女向け,あるいはダイジェスト版を読んで,事足れりとして文豪との出会いを完了したつもりになっていなかっただろうか。


 恥ずかしいことに、かくいう僕がそうだった。
 エスメラルダ、カジモド、それに高位聖職者と憲兵隊長,この4人が繰り広げる恋愛劇・・・カジモドの純愛を見、エスメラルダの純潔を信じ,高位聖職者の邪恋を憎み,憲兵隊長の軽薄さに腹を立てる。この程度のダイジェストでは、ユゴーの真意を汲み取ることは到底不可能だと言わざるをえない。


II. ディズニーの『ノートル=ダム・ド・パリ』

 学生に『ノートル=ダム・ド・パリ』というと、ほぼ100%、ユゴーの作品はディズニーのそれとして了解される。試みに,インターネットでディズニーの「物語」を読んでみた。やはり驚くべきストーリーだった。死んだユゴーはもうモノを言わないから,かまわないのだろうが,たぶん,文豪の意図とはほとんど正反対の方向へと「恋」は導かれる。
 男前で遊び人の憲兵隊長のフェビュス(英語読みでは「フィーバス」)・・・エスメラルダに美の化身として慕われるフェビュスは、小説ではこれからものにしようとするエスメラルダの名前さえ間違えるほどの浮気者なのに(もちろん,許嫁のフルール・ド・リスなど気にもしていない・・・潮出版社刊『ノートル=ダム・ド・パリ』の翻訳者はこの許嫁の名を「フルール・ド・リ」と書いているのが気になった。「百合の花」lys は「リス」と最後の子音を発音する),ディズニーでは,エスメラルダと結婚してハッピーエンドになるというのだ。
 文豪は、権力者側にいて美男でもあるフェビュスこそ、醜い姿ではあるけれども、もっとも純粋なカジモドの対極に配置しようと筆を進めたはずだ。
 つまり、
美・権力者・差別者・肉欲の愛(フェビュス) ←→ 醜・非抑圧者・非差別者・精神的純愛(カジモド)
という,対立構造の関係に,二人は位置している。そう考えるとディズニーは凄い。このもっとも唾棄すべき存在と、聖母的な存在(純潔を守るという意味でも・・・後に詳述・・・彼女の純潔はフロロによって守られる)とも言えるエスメラルダを結びつけてしまうのだ。
 では司教補佐のフロロについては?
 彼のエスメラルダに対する邪恋は、これが核だから当たり前だが,どちらの作品においても、制裁される。彼の恋は成功しようがない。俗世の欲をかなぐり捨てた筈の神父の、ジプシー娘に対する恋は死をもって制裁されなければならない。

 こんなことを考えていたときの「校長事件」だった。聞けば,彼がその元教え子と関係を持ったのは、教え子が高校2年生くらいだったそうな。それならば、彼女の年齢は、まさにエスメラルダの年齢に等しかったことになる。校長はその時、40代後半に入りかけた頃だろうか。フロロと同じ年齢だったとは言わないが(フロロは30代半ば),感覚的には同じだったかもしれない。そして、みのもんたが言っていた「聖職者」という言葉・・・
 ディズニー作品の中では,高位聖職者フロロの邪恋は、テレビ番組の中のように「この野郎」呼ばわりする程度だったのだろうか。というのは、この破廉恥についておそらくありとあらゆるテレビ・ワイドショーが取り上げるだろうが,ユゴーが小説の中で描いたような、中年の孤独,耐えに耐えてもなお押し寄せる狂おしい恋、肉欲の域を超えるほどの絶望的な恋・・・件の校長先生にこのような恋心があったかどうか・・・を映し出すべく彼の内面についてはおそらく語られないだろうから(注)。

(注) 3月11日(火)の毎日新聞夕刊のコラム『近事片々』(一面の右片隅にある寸評欄)に次のような一文があった。
《教え子に交際を迫った校長は往年の映画「嘆きの天使」と二重写し。実直で生徒から尊敬された老教師が踊り子に一目ぼれ,人生を棒にふる。嗚呼人間はなんと愚かで懲りない動物か。》
この、コラムっ子氏の視点はワイドショーと違い,校長の愚かな行為をどんな「人間」でも持ちうる暗愚な部分として、普遍性を持たせている。ちなみにこの映画『嘆きの天使』(Der blaue Engel)は1930年のドイツ映画で、トーマス・マンの弟ハインリヒ・マンの原作、監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグ、主演はマレーネ・ディートリッヒによる。


 文学というのはおもしろいものだ。この校長事件の破廉恥な校長の内面をユゴーがフロロを描いたように描いたら,作品になるかもしれないからだ。
 家庭教師が、教え子の母親と恋仲になり,あげくの果てに、その母親を銃で撃つという事件があった。その事件にヒントを得て,その家庭教師の若者が抱いていた怒りと野心と哀しみと恋を余す所なく描いてみせた傑作,それが『赤と黒』だ。この事件でも、みのもんたの手にかかれば「あばずれの奥さん」と「無分別な若者」ですんでしまうかもしれない。
 あるいはこんな事件はどうだろう。フランス支配のアルジェリアで、ヤクザ喧嘩がらみで,ひとりのフランスの若者が、たいした理由もなしにアラブの青年を撃ち殺してしまう。支配者側のフランスからすれば、アラブ人に刺激を与えてはいけない時だ。そんな時の事件。調べれば,その犯人は,母親の葬式でも泣かず,翌日には喜劇映画を見、恋人と爆笑している。みのもんたなら彼を「血も涙もない青年」と呼ぶだろうか。
 そうかもしれない。
 しかし,アルベール・カミュはその事件から『異邦人』という傑作をものした。
 文学はおもしろい。誰か別の作家がムルソーに撃ち殺されたアラブの青年の内面を綿密に描いたらどうだろう。その作家の能力にもよるが、もしかするとそこから傑作が生まれ出るかもしれない。
 もちろんここで、みのもんたもワイドショーも非難しているのではない。僕には興味のないことだ。問題は,ディズニーの『ノートル=ダム』が、文豪の作り上げた、それこそ我が身を削りながら作り上げたかもしれないフロロという人物とその邪恋を、ワイドショー並みに扱っていたかどうかということだ。というのは、いやしくもディズニー作品として、アニメなり,ミュージカルなり,ひとつの作品として世に出るのならば、単なる興味本位の(視聴率稼ぎの)ワイドショーとは、おのずから異なるはずだからだ。それがワイドショーと同様,単なるドル稼ぎの作品に堕してしまっているなら、ユゴーにすまないどころか,ウォルト・ディズニーに対しても申し訳が立つまい。
 子供向けの作品にアレンジしたから、という言い訳は成り立たない。子供向けの作品だからと言って、人が抱く思想や哲学をおろそかにしてよいという理由にはならない。それはフランスの現代作家ミシェル・トゥルニエの童話を読めばすぐにわかることだ。彼は,子供の作品にこそ、哲学を盛り込まなければいけないと主張し,実践している(注)。

(注) トゥルニエも昔の作品を現代作品としてよみがえらせている。しかもその作品を大人向けと子供向け、二様に書き分けている。その中でもっとも有名なのが、スウィフトの『ロビンソン・クルーソー』を現代によみがえらせた『フライデー あるいは太平洋の冥界』(子供向け版は『フランデー あるいは野生生活』)だ。題名からわかる通り,トゥルニエの手にかかると、18世紀のヒーローは、主人公ではあり続けても、書名にはならない。むしろ、キリスト教的な名前さえ拒否された「野蛮人」の名前がタイトルとなっている。

《続く》
スポンサーサイト
文学雑感 | 11:38:22 | Trackback(1) | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

「赤と黒」についての最新ブログのリンク集
赤と黒 に関連するブログ記事の検索結果や関連ワードをまとめてみると… 2008-03-14 Fri 14:32:16 | 話題のキーワードでブログサーチ!

FC2Ad