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『ノートル=ダム・ド・パリ』を読んで(3)
IV. クロード・フロロの恋

 さて,学級肌のフロロが抱いた恋の妄想を、作者のユゴーはどういう思いで、描いたのだろうか。作者の私生活と小説の描写をやたら結びつけるのはどうかと思うが,『ノートル=ダム』の訳者、辻氏はあとがきで次のように書いておられる。

《なお、この小説に描かれたクロード・フロロの嫉妬は、作者ユゴーのなまなましい体験の結果であると思われる。ユゴーは白熱的な態度でこの小説にとりくんでいたときにも、妻に対するサント=ブーヴの恋が深刻になってきたのを知って、苦しんでいたのである。
「彼の心のなかに、思ってもみなかった嫉妬がわきあがってくるのがぼんやりと感じられた。・・・夜になると、恐ろしい思いにとらわれた。ジプシー娘が生きていると知ってからというもの・・・また肉欲が戻ってきて、体をかきむしるのだった。・・・彼はベッドの上でのたうちまわるのだった」(第九編五)


 エスメラルダの肉体を思ってベッドの上で悩みもだえるクロード・フロロの姿は、妻の不倫に苦しむユゴーの姿ではなかろうか。》(『ノートル=ダム・ド・パリ』ヴィクトル・ユゴー文学館 第五巻 辻昶[とおる]/松下和則訳 潮出版社)

 この作品を書いている時、ユゴーは28・29歳の男盛りで、ロマン派の総帥として、飛ぶ鳥落とす勢いだった。17歳の頃から頭角を現し早熟の詩人ともてはやされ,28歳の時には劇『エルナニ』のセンセーショナルな成功で、詩人、劇作家の二冠を達成した。次は小説を成功させて,三冠王をねらう。この『ノートル=ダム』がそれを可能にする。
 ところが、そんな彼にも悩みがあった。辻氏が書いているように、妻アデールとの関係だ。アデールは兄のウージェニーと恋のさや当てを演じた後で勝利した、幼なじみの娘だった。二人は二十歳で結婚した(兄は二人の結婚後狂気に陥る)。この大恋愛も、10年以上経て、金属疲労ならぬ,恋愛疲労がおこってきたのだろうか、それとも,文壇の寵児となった夫は、妻に愛情を注ぐ精神的な余裕がなくなったのだろうか。彼女は、共通の友人で、評論家のサント・ブーヴと不倫関係におちいる。辻氏の言う《妻の不倫》はこのことをさしている。
(注) 詩,劇、小説という文学三部門において頂点に登り詰めた文豪も、家庭的には恵まれなかったと言わねばならない。妻のアデールとは以上の通りだし,妻との間に4人のこどもを設けたが,二人の娘はそれぞれ事故死と狂気(この狂気に陥った娘アデールを主人公にした映画がトリュフォーの『アデールの恋の物語』だ)という運命をになった。息子たちも比較的若死にをし、父親ユゴーの死(1885年)を見取ることはなかった。皮肉にも、狂気のアデールだけが、20世紀まで生きた。
 そんな彼を生涯影のように付き添い支えたのが、女優のジュリエット・ドルーエだった。『ノートル=ダム』の発表から2年後,二人は出会い,ユゴーの亡命中も含めて,以降50年苦楽をともにする。

 再び,小説に戻ろう。いかに邪恋とはいえ、フロロの恋は筋の通ったひたむきな恋だったということができるだろう。ところでどうして彼は,ジプシー娘のエスメラルダにいわば一目ぼれしてしまったのだろうか。
 彼は,彼女を見るまでは,まさに学問と信仰の世界だけに生きる謹厳実直な男だった。18歳のときには神学、法学、医学,芸術の4課程をすっかりおさめていたほどの俊才だ(p.148 ・・・ページ数は『ノートル=ダム・ド・パリ』ヴィクトル・ユゴー文学館第五巻 潮出版社)。また、打ち捨てられた、4歳の哀れなカジモドを拾い、育ててやる心の持ち主でもあった。そんな男が、ある日ひとりの少女の幻影から逃れられなくなる。彼は、翌日には絞首刑の運命にあるエスメラルダの独房を訪ねて、初めて思いの丈を女の前で吐露する。それは、かたくなな処女の前でする、絶望的な恋に苦しむ年を経た童貞の呪われた恋の告白だ。

《・・・ある日のことだ。わたしは、自分の独房の窓によりかかっていた。・・・どんな書物を読んでおったかな?  (略) とにかく、わたしは読書をしていた。その窓は広場の方を向いていた。タンバリンと音楽の音が聞こえてきた。夢想に耽りながら、このように頭が乱され、いらいらして広場のほうに目をやった。 (略) それはまさに、この世の人の見るためにつくられた光景ではなかった。 (略) ひとりの女が踊っていたのだ。実に美しい娘だった。神も、聖母マリアよりもこの娘のほうを好まれたであろう。 (略) そのまなざしは黒く、輝くばかりのみごとさであった。黒い髪の真ん中あたりの幾本かは、日の光が射し込んで、金の糸のように輝いていた。足は、ぐるぐるとすばやくまわる車の輻骨(やぼね)のように動きがはやくて、よく見えないほどであった。 (略) ああ! 娘よ、それはおまえだったのだ。・・・わたしは、驚き、酔ったように心がとろかされてしまった。わたしはじっとおまえを見つめていた。とつぜん、何かにおびえて、ぶるぶると震えてくるほどまでに、おまえを見つめていた。宿命がわたしをとらえたように感じたのだ》

 彼の告白はさらに続く。

《そうだ。その日からというもの、わたしの心には、見知らぬひとりの人間が住んでしまったのだ。わたしは、ありとあらゆる薬を用いようと思った。修道院にこもり、祭壇にぬかずき、手に汗して働いたこともあったし、読書に没頭したこともあった。愚かしいことであった。 (略) それ以来、わたしが、書物とわたしとの間にいつでも何を見ていたかを、おまえは知っているか? おまえなのだ。おまえの影なのだ。 (略) 》(pp.326-328)

 フロロの告白は長く、重苦しいが、何のつながりもない、何の共通点もない路傍の女に魅了される過程をよく表わしていて、美しいとすら言えるほどだ。
 タンバリンとカスタネットの音、しなやかな腕とすばやく動く足、太陽の光の中に浮かび上がる踊る肉体、輝く容貌、そして踊りよりもはるかに蠱惑的な歌声。フロロは悪魔に取り憑かれたことを認めざるを得なかった。

一度も言葉を交わしたこともなく、まなざしで認め合うこともないまま、人はこのような命がけの恋に落ちるのだろうか。そういえば、『レ・ミゼラプル』のマリウスも、コゼットに声をかけたときには、既に恋をしていたではないか。彼もフロロと同様、リュクサンブール公園のベンチに腰をかけていたジャン・ヴァルジャンとコゼットをうち眺めていただけだったはずだ。幸いなことに、コゼットのほうも、青年に恋していたのだが・・・

《続く》
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文学雑感 | 14:43:21 | Trackback(0) | Comments(0)
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