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石田明生

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印鑑のこと
 先日、現金書留を受け取った。その時、印鑑がすぐに見つからなかったので、サインでよいか尋ねた。すると、「サインでしたら、フルネームにして下さい」と言われた。そこでフルネームでサインをしたが、なぜか釈然としない。
 印鑑では名字だけなのに、なぜサインの場合、フルネームでなくてはいけないのだろうか。その郵便局員に尋ねてみればよかった。残念なことをしたものだ。と後悔したが、考えてみたら、その局員の方(かた)が納得できる説明をできるとも思えない。だが、今度は尋ねてみよう(次に現金書留が我が家に来るのはいつのことか)。
 サインの場合はフルネームにしてほしいというのは、フルネームで書けば、家族の誰が受け取ったかわかるからだろうか。いや違う。なぜなら、印鑑のほうが押した人間の匿名性ははるかに高いからだ。三文判で押す場合、誰が押しても同じだ。対して、サインはたとえ名字だけでも筆跡を見れば、少なくとも我が家族は誰の手によるものかすぐにわかる。つまり、フルネームで書く必要などまったくないのだ。結句、郵便局員の方が「フルネームで・・・」と、おっしゃったのは、家族の誰が受け取ったか、明確にするためではない。判子の場合でわかるとおり、受取りの家族名をもとより知ろうとしていないからだ。
 ではなぜフルネームか?


 と、ここまで書いて、妻 にこのことを話してみた。すると、彼女もやはり同じ経験をしたばかりだった。それどころか、貴重な証言を得ていたのだ。
 「判子が見つからないので、サインでいいですか」
 「はい、でもその場合はフルネームでお願いします」
 「あらっ、サインのほうが判子よりも誰が受け取ったがはっきりしているのに。前は、名字だけでしたのに。なんででしょう」と、妻はきいたらしい。
 「本当にそうですね。民営化してから、サインの場合はフルネームでしていただくことになりました。どうしてかわかりません」と、配達員の方。

 というわけで、やはり、局員の方もなぜだかわからず、命じられたままにしているようだ。これで、益々謎は深まった。この謎を解明するためには、幹部の人にきいてみるしかないだろう。

 印鑑については、ずいぶんと前から不思議に思っていた。と同時に、日本特有の習慣に流された形式主義の最たるものではないかと怪しんでもいた。
 以前、やはり郵便局で、印鑑がないためにどうしても、引き渡してもらえないものがあった。預金ではない。預金の場合は、特定の印鑑を登録してあるから、その印鑑でなければもちろんおろすことはできないからだ。そのとき僕は少々腹が立ったのを覚えている。
 「サインか、拇印ではいけないのですか」
 「印鑑でなければいけません。きまりです。どんな印鑑でも結構ですから、お願いします」
 「だって、今そのあたりで買ってきた判子よりも、サインか拇印のほうが僕だと特定できるではないですか」
 「きまりなのです」
 「判子は何のためにするのですか。間違いなく僕が受け取ったという証明ではないですか」
 「・・・。きまりですから」

 彼女はただ「きまり」を繰り返していた。困り果てた様子から見ると、もしかすると、彼女も変だと思っていたのかもしれない。結局、腹を立てた僕は品物を受け取れず家に帰ったことを覚えている。そのとき、つくづく思った。印鑑制度というものは本当に必要なのか、と。
 例えば、大学でも出勤簿というものがあり、判子を押すか、サインをしている。これはどちらでもよしとなっているから、問題はないが、それでも、サインのほうが確実で、優れているのではないだろうか。判子は、他人が押してもわからないが、サインの筆跡を真似るのは用意ではない。
 そういえば、懐かしい映画『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督)の有名な場面を思い出した。貧しいトム(アラン・ドロン)は裕福な友人(モーリス・ロネ)を殺し、その友人に成り済まして銀行からそっくり預金を引き出そうとする。トムは友人のサインを書くために、どれほどの苦労をするか。サインの練習場面は日本人である僕には新奇なふうに見えたし、なぜかリアリティーがあった。完璧なサインをしなければ、トムの計画はご破算だ。ところが、これが日本なら、友人を殺し、銀行の届出印を持って行けばいいのだ(印鑑が見つからなければことだが)。映画のシーンはおのずから変わってしまう。

 昨今、役所等、公的支出の無駄についてかまびすしいが、この印鑑制度というものも、非能率的かつ無駄なものの代表ではないだろうか。
 たとえば、実印というものがある。僕も印鑑登録した実印を持っている。恥ずかしい話、生まれて初めて実印を作ったときは、真の大人になったような、誇らしい気がしたものだ。たいしたものではないが、まるで自分の人生の一部を購入するかのような、運命を買うかのような(実際判子の占いもある)、そんな思いで少々ふんぱつしたのを覚えている(「お客さん、一生ものですからいいものにしたほうがいいですよ」判子屋さんの台詞)。
 ところで、今思うとこんなもの本当に必要なのだろうか。登録手続きやら何やらして、今はカードになっているが、拇印ではいけないのだろうか。だいいち拇印のほうが確かではないだろうか。
 こんな主張をすると、判子業界の人は猛烈に反対するだろう。もし印鑑制度がなくなったら、その関係の人たちは職を失うことになる。だが、印鑑が簡単に作れるようになってからは、そして、筆跡鑑定や、指紋鑑定が発達してからは、やはり、印鑑は無駄でしかないのではないか。


 電車内であるいは乗り合いバスの車内で、「優先席付近ではケータイ電話の電源をお切り下さい・・・」と放送されても、まるで「こんにちは」の挨拶ように、いや挨拶ほどにも、だれひとり意に介している様子がない(僕はケータイを持っていないから当然だが・・・)。この車内放送も、だれも反応をしないのだから、無駄な習慣の繰り返しではないだろうか。
 僕は毎週午前9時半過ぎの下り電車に乗るが、見るとガラガラの車内にもかかわらず、椅子が上がったままだ。10時になるといつも車内放送が入る。「10時になりましたので、椅子をおろしてお使い下さい」車内放送している人はどんな気持ちで、マイクに向かっているのだろうか。上がる椅子はラッシュ対策なのに、どうして下りのガラガラの電車でも上げたままなのだろうか。どうして「お座り下さい」が10時以降でなければいけないのだろうか。10時と決めたら、すべての電車にそれを機械的に押し付けるのだろうか。まさか、椅子の解除が車両ごとにできないわけではあるまい。
 印鑑制度も、本質的にはもう要がないことを、だれでも・・・印鑑を強要する側でさえも・・・じゅうぶん承知しているのに、習慣的に持続させている、形式、形骸ではないだろうか。
 一度定着した制度・習慣を変えるのはきわめて大変なことだろう。まして、判子のようにたぶん巨大な業界が関わっていればなおさらだ。しかし時代の流れはどうしようもない。コピーやパソコンが出現したために、どれだけの業界の人が泣いたことだろう。この頑迷とも思える印鑑制度、そろそろ見直す時期に来ている、そんな気がするが・・・
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オピニオン | 18:00:52 | Trackback(0) | Comments(0)
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