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エジプト・カイロの町を徘徊する。
 まもなく夏休みという、前期最後の慌ただしさのさなか、畏友田中氏から、一冊の本が送られてきた(『老教授ゴハルの犯罪』アルベール・コスリー著、田中良知訳 水声社)。試験やら採点やら忙しくて読み切ったのは今日になってしまったが、読み出したらおもしろくて、大部分を今日一日で一気に読んだ。

ゴハル


 我々日本人には馴染みのない、エジプト・カイロの町が舞台だ。たとえ、カイロに行ったことがある人でも、ツアーで行く限り、この小説の舞台は、未体験に違いない。そのカイロの「現地人街」を徘徊して、東京のどんな街角とも異なる、生活と心のありようが見て取れた。
 ここに少し紹介してみよう。


《騒々しい声、アセチレン・ランプの光は、心地よい隠れ場のように、彼を迎えてくれた。夜のこの時間、カフェ・デ・ミロワールは、ざわざわとする客でいっぱいだった。テーブルはどこもあふれ返り、踏み固められた車道を突っ切って、ゆっくりと列になって客が出入りしていた。つけっ放しのラジオからは、ラウド・スピーカーを使って、大音響のやかましい音楽が洪水のように吐き出され、同じ混乱の渦の中に、見事におしゃべり、わめき声、笑い声を呑み込んでいった。この何ともすさまじい喧噪の中で、ぼろ着の乞食、モク拾い、行商人が、縁日の大道芸人さながら、いかにも楽しそうに仕事に精を出していた。毎晩がこんなふうだった。縁日の祭りの雰囲気といったところだった。カフェ・デ・ミロワールは、悲しみからどうしても抜け出せない世界の果てであり、人間の知恵が何とか捻り出してできた場所のように思えた》(p.93)

 このすさまじいカフェの風景は、1950年代のエジプト・カイロの《現地人街》から切りだされたものだ。アセチレン、水煙草、人いきれ・・・むせかえるようなこの小宇宙は、「彼」ことイェゲーンにとっては《心地よい》場だ。イェゲーンは、詩を書くような(字を知っている)教育のある男だが、住まいもなく、仕事にも就かず、母親から小遣いをせびったり、麻薬の密売で、その日暮らしをする。彼の唯一の関心は、尊敬する老教授ゴハルに麻薬を提供すること、手助けをすることだけだ。
 老ゴハルは元大学教授だが、上昇志向の世界を嫌い、すべてを捨てて、こちらの小宇宙にある安アパートで一人暮らしをする。売春宿で娼婦たちの代書をして口に糊しているが、麻薬中毒で、イェゲーンの世話になっている。彼は、いっさいの社会的関係を断ち切っているために、金銭や性や権力、つまりあらゆる世俗的な欲望の対象に興味を持たない。彼の願望はただひとつ、シリアの高原のハシッシュ畑でのんびりと暮らすこと・・・そしてその夢が彼を犯罪へとかり立てる。
 「殺人事件」の捜査を担当するのは、ヌール・エル・ディーン警視。ごみための小宇宙の外側にいるのだが、彼にも悩みはある。同性愛の性癖はいかんともしがたいのだ。どんなに権力があっても、小生意気なペデ(少年)ひとりにこけにされてしまう。
 殺人事件と言えば、物盗りや痴情のもつれが相場だが、彼は、この事件の特異性に目をつける。動機が見つからない、不条理な殺人なのだ。
 だから、容疑者は単なるごろつきではない。まず、役人の仕事にうんざりした役人のエル・コルディーに目を付ける。彼は革命家気取りの若いインテリだ。彼もゴハルを慕い、敬意を抱いている。
 次にイェゲーンを怪しみ、いよいよ最後にゴハルと出会うというわけだ。警視はこの元教授とあった瞬間に、犯人と見抜くが、それ以上にその人間性に興味を抱く。
 ごったがえすカフェ・デ・ミロワールで役者が揃い、四人はテーブルを囲む。ヌール・エル・ディーンの言う現実とは《偏見に凝り固まった現実》《人間どものでっち上げた悪夢》だと言うゴハルに、警視ヌール・エル・ディーンは問いかける。
 「それではもうひとつの現実って、何です?」
 「それは簡素な生活の現れである、晴れやかな現実ですよ。だって人生はたやすいものなんです、あなた。生きるには、人間に何がいりますか? 少々のパンがあれば、十分なんです」
 「少しは、ハシッシュもなけりゃ、先生!」イェゲーンはまぜっ返した。
 「それもそうだな、君! ハシッシュも、少々だ」
 「でもそれでは、一切の進歩の否定だよ!」ヌール・エル・ディーンはわめいた。
 「選択は必要ですよ」とゴハルはぴしゃりと言った。「進歩か、平安か、僕たちは平安を選(と)ったんです」(pp.212-213)

 権力側にいる警視ヌール・エル・ディーンは、ゴハルの犯罪を確信すると同時に、ゴハルに引かれるのを感じる。彼が老教授の部屋に行くシーンは、この小説でもっとも胸を打つ。いや、こう言おう。ヌール・エル・ディーン以上に感動するシーンだと。
 ゴハルの隣人は、プロレスラーのような巨体の女と、手足のない《樽男》だ。彼女は毎日、樽男を抱えて路地に行き、道端で物乞いさせている。夜は夫婦の生活・・・
 そんな樽男の悩みは、大女の嫉妬だ。彼女は嫉妬すると食べ物を樽男の口に運んでやらない。
 さて、警視がゴハルを訪ねた日も、大女は焼きもちを焼いて出奔してしまった。樽男はタンタロスよろしく、食べ物を前にして口に入れることができず、泣いている。警視と一緒に部屋に入ろうとしたゴハルは彼に食べ物を食べさせ、彼を慰める。旺盛な食欲を見せながら、樽男は自分のモテモテぶりをゴハルに話す。そのことはヌール・エル・ディーンを驚嘆させた。

 「あんな化物が!」
 「あの化物は、我々を凌ぐ強みがありますよ、警視さん。彼には平安があるのです。もう何も、失うものはありませんからね。・・・」(p.239)

 結局、樽男は、進歩の対極にある「平安」を表象している。進歩を信じている、権力側、あるいは資本主義的人間は、このような存在を前にして、何することもできない。ゴハルは、他の所で、「民衆はみな乞食になればいい」とも言っている。カイロの、「ヨーロッパ街」ではない「現地人街」からしか、生まれ得ない主張が、ゴハルの口から生まれ出る。それは、鋭い二項対立を構成する。

現地人街 ⇔ ヨーロッパ街
平安 ⇔ 進歩
アラブ的価値 ⇔ 西洋的価値


 そういえばこの小説の原題は『 Mendiants et Orgueilleux 乞食と高慢ちき』だった。

乞食 ⇔ 高慢ちき(役人)


 警視ヌール・エル・ディーンは、まさに対立項の右側に位置する高慢な男だった。が、樽男という「乞食」を目の当たりにし、ゴハルという「乞食」に接したあと、彼はどうなるだろうか。作者の深いユマニスムが見て取れる結末だ。

 このアラブ的小説の作者はもちろんフランス人ではない(フランス人には無理だ)。エジプト出身のアルベール・コスリー(1913生)という、フランス語作家だ。僕がいかに現代文学に無知であることか。この、アルベール・コスリーは1990年に《フランス語圏文学大賞》をとっている有名な方だった。
 訳された田中氏は現地に行ったことがあるのだろうか。もしなかったら、このカイロの町の描写の日本語化は至難の業だったと思われる。おかげで、僕もカイロの片隅を徘徊できた。ありがとう。
 この小説、映画化もされているようだが、ぜひ見てみたいものだ。
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書評 | 18:22:10 | Trackback(0) | Comments(0)
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