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パリ散策:マドレ-ヌ教会からヴァンド-ム広場へ
 約ひと月ぶりに「スキピオの夢」に帰ってきました。フランス滞在記をこれから少しずつ公開したいと思っています。
 まず最初の報告はマドレ-ヌ教会からヴァンドーム広場の散策です。とてもありふれた観光地ですが、文学や歴史と深く関わっています。

マドレーヌからコンコルド.JPG

マドレ-ヌ教会の正面入口階段からコンコルド広場のオベリスク
さらにその向こうのブルボン宮殿を望む
モーパッサンの小説『ベラミ』は主人公がこの視点を持って終わる



 7月31日午後、ヴァンドーム界隈を散歩する。
 まず約二百年前にできたネオ・クラシック様式のマドレーヌ教会に行く。

IMG_0368.JPG

マドレ-ヌ教会の列柱と破風・・・ネオ・クラシック

 ここはギー・ド・モーパッサン(1850-93)の傑作『ベラミ』の最後の舞台となった場所だ。野心家のデュロワは男前だけを頼りに社会の階梯を昇って行き、ついに自分の勤める新聞社の社長令嬢と結婚するに至る。その結婚式が行なわれる教会がここだ。彼の結婚式はここで行なわれなければならない。なぜなら、式を終えて教会正面から出てきたデュロワは、コンコルド広場の中央に立つオベリスクの彼方に目を向けなければならないからだ。

 それから、目をあげると、かなたコンコルドの広場の向こうに、衆議院の建物がそびえていた。マドレーヌ教会の玄関からブルボン宮の玄関まで、ひととびに飛んでいけそうな気がした。(田辺貞之助訳 春陽堂)

 ブルボン宮には日本で言えば衆議院、つまり国民議会が置かれている。作者は、卑しくて、つまらない男が代議士にまで登り詰めることを示唆して小説を終える。ここにこそ痛烈な皮肉が込められているのだ。時代は十九世紀後半の千八百八十年代、狂乱の第三共和制がスタートしたばかりで、銀行家、資本家、成り金、社会主義者からアナーキスト、なんでもござれの時代だった。この共和制は、ブーランジェ将軍事件、パナマ事件、ドレフュス事件を経て、自由の象徴マリアンヌ(ドラクロワなどが描いた自由の女神の愛称)を搾取という栄養材で太りに太らせたあげく、行き着いたのが第一次世界大戦だ。これは史上初めて出現した大量破壊兵器によっておびただしい犠牲者を出す悲惨な戦争となった。

マドレ-ヌ通りから写す.JPG

教会横

 その間、革命百年を記念して開催された1889年の万国博覧会(鉄の時代を象徴するエッフェル塔が作られる。これをモーパッサンが忌み嫌ったのは周知のこと)、十九世紀を葬り、二十世紀を迎えるために開催された1900年の万博という、二つの万博で産業資本の勝利を高らかに歌い上げる。実際は、その勝利のために、植民地の原住民(『ベラミ』の主人公は2年間アフリカでアラブ人を迫害したことを懐かしく思い出している)、鉱山や炭坑で働く人びとなど社会の底辺が犠牲になっていたのだ。それをモーパッサンは短編小説や紀行文で訴えていた。

 マドレーヌ教会からデュフォ通りを行き、サン・トノレ街に出る。このサン・トノレ街は有名ブランドの商店が軒をつらねるフォーブール・サン・トノレとは違う。念のため。後者は前者の延長線にある。

サントノレ街.JPG

サン・トノレ街

このサン・トノレ街はオスマン男爵のパリ大改造以前まで(つまり19世紀初頭まで)はパリの中心的な通りだった。たとえば有名な『シラノ・ド・ベルジュラック』(17世紀)の中に登場するパン屋はこの通りにあったし、大革命時、ジャコバン派を率いた清廉の士ロベスピエールが住んでいたのもここだった。

ロベスピエールの家.JPG

《マキシミリアン・ロベスピエールは、1791年7月17日から1794年7月28日(共和2年テルミドール10日)、すなわち彼の死の日までここに滞在する》とプレートに書かれている。個人的な欲望や利益をいっさい排除しつつ、ひたすら革命の純化を目指し、結果多くの血を流した革命家は、自らもギロチンの露となり、36年の生涯を終えた

 死刑の判決を受けた人びとがコンシエルジュリーの牢獄からギロチンの待つ革命広場(現在のコンコルド広場)まで荷車に乗せられて通ったのもこの通りだった。若きナポレオンはサン・ロック教会前のまさにこの通りで、反革命派の蜂起を殲滅させて華々しいパリデビューを果たした。

サンロック教会内.JPG

サン・ロック教会内

 ちなみにジャコバン派の名の由来となったジャコバン修道院もサン・トノレ街から少し入ったところにある。現在は「マルシェ・サン・トノレ広場」というガラスの建物からなるショッピング・センターになっていて、修道院の面影はまったくない(志を同じくする闘士たちがここで集会を開いたことから「ジャコバン派」と呼ばれた)。

 マルシェ・サン・トノレ広場に入る手前の道を左に曲がるとヴァンドーム広場がある。

ヴァンド-ム広場と街灯.JPG

ヴァンド-ム広場

 ヴァンドーム広場はもしかすると一番ハイソサイティーな広場かも知れない。ぼくのような庶民が広場に入ってもなじまない。なにか拒否するものがある。
 中央の銅柱の上にナポレオンがすっくと立っている。この銅柱はオーステルリッツの会戦で捕獲した大砲を鋳潰して作ったものらしい。古代ローマを模倣して螺旋状にナポレオンの戦勝場面が浮き彫りとなっている。柱上のナポレオンは以前は伍長の姿をしていたらしいが現在はローマ皇帝を模倣している。

ナポレオン.JPG

ナポレオン像

 だが、この広場の持つ拒否反応はどうもナポレオンのせいばかりではないようだ。もっとも画家のクールベはこの銅柱に不快を感じたのか、引き倒して、罰金を課せられたらしいが。
 ピアニストのショパンが息を引き取った館と向き合って、法務省、ホテル「リッツ」などが厳めしく軒を並べているが、ここはなんと言っても宝石店で有名だ。

 ミッシェル・トゥルニエ(1924-)の小説『黄金のしずく Goutte d'or』はここで物語を終える。
 サハラ砂漠に住んでいたベルベル人の少年、イドゥリスは偶然手に入れた「黄金のしずく」という宝石を持ってフランスにやってくるが、あっけなくマルセイユで娼婦にその宝石を巻き上げられてしまう。
 それでもなんとかパリにたどり着き、従兄を頼って18区のミラ通りというアラブ人街に住む。彼が知り合いになる風変わりなマネキン人形の蒐集家が住んでいる所が小説のタイトルにもなっている「黄金のしずく」通りだ。

プラック.JPG


Rue de la goutte d<or.JPG

「黄金のしずく」通り

Rue Boris Vian.JPG

「黄金のしずく」通りと「ボリス・ヴィアン」通りの交差点

 イドゥリス少年がパリを体験し味わうこのミラ通りからグット・ドール通り、ロシュシュアール大通り=シャペル大通りはまさにヴァンドーム広場と対極にある。小説にも登場する「タチ」という安売りの百貨店は、この度も覗いてみたが、本当に安い。たとえばなかなかしゃれた半ダースひと組のコップがたった1.5ユーロだった。

7/31ロシュア-ル駅ホーム.JPG

アラブ人街の最寄り駅「バルベス=ロシュシュア-ル駅」のホーム
ここは珍しく高架線になっている

 さてまた小説に戻る。彼は色々なアルバイトをして、最後にする仕事が道路工事だ。ちょっと小説を引用してみよう。おおはしゃぎの従兄の台詞。

「おい、イドゥリス!ヴァンドーム広場だぞ!あそこはパリの生活の究極のそのまた究極っていうところだ。いろんな宝石店や香水を売る店がある。ホテル〈リッツ〉もあるし、法務大臣の邸もある。それに、何と言ったって、広場の戦勝記念碑の上には大ナポレオンの像が載っかっているんだ!いやおまえの頭の中では想像できないだろう。ところが、われわれ北アフリカのアラブ人は、あそこで、一体何をすると思う?道具を持って行って、いたるところを壊すんだ!」(榊原晃三訳 白水社)

 こうして、イドゥリス少年はヴァンドーム広場の宝石店の前で、猛烈な音をたてるエア・ハンマーで店を揺らしながら道路を粉砕する。すると「アフリカ、中東の宝石と貴金属 クリストバル宝石店」のショーウインドーがふと目にとまる。中にはたった一つの宝石しか展示されていない。彼は我が目を疑う。まさにそれはマルセイユで娼婦に奪われた「黄金のしずく」だった。
 彼は狂ったようにエア・ハンマーを激しく使う。彼はエア・ハンマーをパートナーにして踊り狂う。あまりに激しいのでショーウインドーにひびが入り、地震センサーが働き、サイレンが鳴り響く。それでもかまわずイドゥリス少年はエア・ハンマーを相手に踊り続ける・・・

ヴァンド-ム広場.JPG

ヴァンド-ム広場、今は地下駐車場も完成している(左隅)

 現在、イドゥリス少年たちが始めた工事はとっくに終わり、広場の地下に大駐車場ができている。そして「MIKIMOTO」など宝石店が並び、空々しいまでの格調の高さを誇っている。

 トゥルニエの小説は常に様々な《二項対立》が絡まりあって成り立っている。この小説ではたとえば「砂漠と都会」という対立項から、黄金のしずくという宝石とそれを運んできた少年が18区のアラブ人街とヴァンド-ム広場をするどく対立させる。
 実はこのトポロジックな対立項に「無イマージュ」(砂漠)と「過多イマージュ」(都会)が、「書」と「肖像・写真」が重なって、トゥルニエの世界を限り無くおもしろくしているのだが、それはこの『黄金のしずく』を読んでいただかなければわからないかもしれない。
注:「無イマージュ」と「過多イマ-ジュ」という語はあるいは適切ではないかも知れない。ここだけのための造語です。
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パリ散歩 | 18:35:08 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
おはようございます。 いつも興味深いお話をどうもありがとう! マドレーヌ広場からオベリスクにかけてのロワヤル街で3年以上働いていた私には大変面白く懐かしかったです。 マドレーヌ寺院の地下が貧しい人を対象にした食堂になっているのをご存知ですか? 一度会社の同僚と行ったことがあります。
2006-08-27 日 06:03:39 | URL | Claire [編集]
Claire さん、LE REVE DE SCIPION にようこそ。さっそくのコメントありがとうございます。
はい、マドレ-ヌ教会の地下のレストランについては7ユーロくらいで美味しくいただけると聞いていました。ところがこの度昼食後に行ったものですから、後でまた来ようと思っているうちに、完全に失念してしまいました。本当に残念です。次はメモっておきます。
ロワイヤル街でお仕事なさっていたなんて驚きました。いいところですね。
では失礼します。
2006-08-27 日 11:25:33 | URL | [編集]
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