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石田明生

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モンマルトルの墓地を歩く
 墓地、それは人と魂の交錯する場。

Nijinsky.JPG


Nijinskyアップ.JPG

ペトルーシカの扮装をしているニジンスキー(1890~1950)の墓

 他の墓地ほど大きくないので、モンマルトルの墓地に来ると必ずこの天才舞踏家の前に佇む。現代の我々にとってすでに伝説となった『シェーラザード』(1910)『ペトルーシカ』(1911)そしてドビュッシーとの芸術的融合を果たした『牧神の午後』、フィルムや写真でしか見ることはできないが、それでもフォルムやフィギュールを超越した精(エスプリ、スピリッツ)の発散が感じられる。あるいはそれは危険な、人を超えた境地だったのか。ニジンスキーは翌年ディアギレフ(1872~1929)との確執を経て、1919年、彼自ら「神との婚礼」と呼んだ最後の踊りの果てに狂気の闇に沈んでいく。


《この時刻にコ-ランク-ル橋にさしかかると、墓地の上にたてこめた大きな闇の湖のかなたに、ランシイの最初の明かりが見えはじめる》(セリ-ヌ著『夜の果ての旅』下 P.78 中公新書)
 腸チフスにかかり手のほどこしようのなくなったベベ-ル少年を後に、医師バルダミュはなんとかならないものかと、その道の専門家である先輩医師に会いに行った帰りだった。なんにもならなかった。先輩は単なる馬鹿だった。ヴィレットからヴォジラ-ル通り(左岸のソルボンヌ大学から続く長い通り)までつきあわされただけだった。ボナパルト街からまたセーヌを渡り、パリを縦断する。チフスに苦しむベベ-ル少年とまた会わねばならない。重い足どりで「ムーラン・ルージュ」のあるブランシュ広場からル・ピック通りを上がる。もちろん彼の左側に後に有名になる「2ム-ラン」なるカフェがあることなど知るよしもない(1920年代にあったとは思われないが)。そのカフェのすぐ先を左に行くとコランク-ル通りだ。その通りは無惨にもモンマルトル墓地の上を走る。

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コランク-ル通りから階段を降りると左側に墓地の入口がある

 その欄干からはるか西を望むとセーヌ河の向こうにクリシーの町が広がる。そのクリシーこそ、セリーヌによって小説の中で悲惨の極みのごとく描かれたランシーの町だ(現在はそんなことありません。念のため)。
 だが、小説の方はこのくらいにしよう。もう少しでクリシーの町の写真を張り付けようかと迷ってしまった。モンマルトルの墓地が登場する文学作品を介してこの墓地を紹介しようとしただけなのに・・・あれこれ脱線するのが僕の欠点です。許して下さい。

 さて、次の写真は「アッリーゴ・ベイル/ミラノ人/書いた/愛した/生きた」と墓碑名に書かれたスタンダ-ル(1783~1842)の墓だ。

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Stendhal大.JPG


 グルノーブルで生まれた作家は生涯自分の家というものを所有しなかった。傑作『赤と黒』はリシュリュ-通りのホテル(旧国立図書館のほぼ向かい)で書かれ、ヴァンド-ム広場近くのダニエル・カサノヴァ通りのホテルで亡くなった。ちなみにそこは現在「Stendhal」というホテルになっている。また、「ミラノ人」と称するだけあり、長くミラノに住む(「スカラ座」があるから)。音楽はチマローザ、モーツァルト、ロッシ-ニを、絵画はコレッジオを、そして女性はイタリアの女性をこよなく愛した。生涯独身であった。

 左が「並木道エクトール・ベルリオーズ」、右が「並木道コルディエ」その二つの道に挟まれて、中央にある墓が第ニ帝政期に音楽家のオッフェンバックと組んで一世を風靡した劇作家アンリ・メイヤック(1831~91)のだ。

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永遠にその死を悼まれるメイヤック


 もちろん左に行くと作曲家ベルリオ-ズ(1803~69)の墓がある。

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 ベートーヴェンの後継者と称していた彼は、1830年に『幻想交響曲』を世に問うてフランスロマン主義の旗手となる。同年、ヴィクトール・ユゴーは戯曲『エルナニ』で、文学におけるロマン主義の勝利を確実とする。一方、やはり同年『赤と黒』を発表したばかりのスタンダールは美少女のジウリア・リニエリに恋を打ち明けられ、結婚を考えるが「住所不定・無職」に限り無く近い身の上、彼女の後見人に拒絶される。そんな中、ドラクロアの絵画『民衆を率いる自由の女神』で永久保存された「七月革命」が勃発する。

 その「七月革命」に感激し、フランス革命の精神をしっかりと背負ったまま、戦闘的ジャ-ナリストとしてパリに赴き、そのまま亡命してしまったドイツ青年がいた。ドイツ革命の青写真を作り、ドイツ民衆の覚醒と解放を夢見つつ、パリの二月革命(1848)のドイツへの飛び火の報に接するも病床にありて、ままならず。パリで没し、パリの土となる。ベルリオーズのすぐ先に、その情熱的なドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)が眠る。

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音楽家と詩人、彼らはどんな話をしているのだろうか

 その二月革命の年、若干24歳の若者が、美しい高等娼婦との恋物語を小説にしたと言って、超流行作家の父親の元にやって来る。父親はその妾腹の子供の小説を読んで大喜び、さっそく出版する。作品の題名は『椿姫』。こうして二代に渡る流行作家が誕生した。父親の名はアレクサンドル・デュマ(1802~70)、息子の名もアレクサンドル・デュマ(1824~95)、区別するために後者はデュマ・フィス(息子)と呼ばれる。

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ゆったりと眠るデュマ・フィス

 傑作『椿姫』のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシスもこのモンマルトルの墓地に眠る。彼の墓から最遠の所に位置しているとはいえ、同じ墓地内のこと、二人は逢瀬を楽しんでいることだろう。彼女の墓を撮って来なかったのは筆者の一生の不覚。以前撮ったことがあったので油断してしまった(いずれ揃えるつもりです)。

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ニジンスキーの墓前から「サンソンの階段」と呼ばれる階段を望む

 緑が多くて、起伏のある墓地は散歩に最適だ。階段を登って左に少し行くと先程のデュマ・フィスの墓。また、この撮影地点から少し歩くと作曲家オッフェンバック(1819~80)の墓がある。
 東(ウィーン)にヨハン・シュトラウスがいるなら、西(パリ)にオッフェンバックあり。第二帝政時代(1852~70)、パリ中に『地獄のオルフェイス』(和名『天国と地獄』)のメロディーが響き渡る。日本では、今でも運動会に欠かせない音楽だ。

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オッフェンバック


 さらに散歩を続けよう。美しい墓があるとついシャッターを押してしまう。以下の小説家と画家は劇作家のメイヤックと同様に当時有名だった。

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小説家ポンソン・デュ・テライユ(1829~71)は、ヒーロー
「ロカンボール」シリーズを新聞に連載し、絶大な人気を博した。


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画家ギュスターヴ・ギヨメ(1840~87)


 日本の墓地と違って、食物を供える習慣がないにもかかわらず、徘徊する猫が多い。

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墓地に猫はよく似合う


 非行の果てに感化院、そんな少年時代の自伝的な映画『大人は判ってくれない』で鮮烈なデビューを果たしたヌ-ヴェル・ヴァ-グの鬼才、フランソワ・トリフォー(1932~84)。彼はその後も矢継ぎばやに傑作を発表し続ける。『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』『黒衣の花嫁』『アデ-ルの恋の物語』『隣の女』などなど、彼は仲間達よりも早く幽界へと旅立ったが、人の一生涯分以上の傑作を残した。

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シンプルな黒大理石の下には静謐の世界が広がっているのだろうか。安らかであれ


 モンマルトルの墓地の一番高いところで燦々と光を浴びて彼女は立つ。雨の日も風の日も敢然たる姿で彼女は立つ。強くあれ、ダリダ!
 モンマルトルの街にあんなにも愛されていたのに、自らパルカの糸を断ち切ってしまったダリダ。けれどもここであなたが歌う限り、あなたの歌声は永遠にモンマルトルの街角に響き、人の心に感動を与え続けるだろう。

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シャンソン歌手ダリダ、本名ヨランダ・ジリオッティ(1933~87)

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モンマルトルにある「ダリダ広場」の像、彼女の視線の先にはサクレ=クール寺院が・・・

 ダリダのレパートリーでどうしても1曲だけ選べと言うなら(500曲近くありますからまず不可能ですが)、今の心持ちでは『ブリュッセルに雨が降る』Il pleut sur Bruxelles にします。もし、機会があったら、お聞きになって下さい(次のURLでお聞きになれます)。

http://www.youtube.com/watch?v=kfft8yWDmwg&feature=related


 また出口(=入口)に比較的近いところにエミ-ル・ゾラ(1840~1902)の墓がある。しかし、これはモニュメントにすぎない。なぜなら、彼の遺灰はパンテオンに移されているからだ。つまりゾラはフランスを代表する偉人の1人となっているのだ。作家では他にヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、ヴィクト-ル・ユゴーがいる。四人とも共通しているのは作家としての文学上の功績以外に社会的、政治的な貢献のした、ということだろうか。たとえばゾラの場合、「ドレフュス事件」において毅然として正義を貫き(「我弾劾す」1898年)、最後的にはドレフュスの無罪を勝ち取った(彼は故人となっていた)。

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意志の強さをうかがわせるゾラ像


 さらに出口(入口)に近いところに、大革命期から19世紀中葉まで、活躍した政治家の一族、カヴェニャック家の墓がある。いかに有名とはいえタレ-ラン程の知名度もないのに、なぜこの墓を紹介したいかといえば、ここの彫像がフランソワ・リュ-ドの手になるからだ。彫刻家リュードはエトワ-ル凱旋門の傑作『ラ・マルセイエ-ズ』の作者として有名だ。

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ジャン=バチスト・カヴェニャック(1763~1829)と思われる像

 リュードは1784年に生まれ1855年に亡くなっている。その没年から考えて父親のカヴェニャックと考えられる。長男のゴドフロワ(1801~45)もリュ-ドより先に亡くなっているがこれだけの作品を製作するには歳が行き過ぎているだろう。ジャン=バチストは大革命時にジャコバン派として国民公会メンバーになり、王政復古の際に「弑逆者」として追放された。二人の息子(年子のルイ・ウージェーヌ)も七月王制(1830~48)時代に活躍する。

 モンマルトルの墓地にはまだまだたくさんの文人、芸術家、著名人が眠っていますが残念ながら、割愛せざるを得ません。他に紹介したいことが山のようにありますので。読んで下さり、ありがとうございます。
最後に墓地に眠る方々に合掌します。写真を好き勝手に撮り、お騒がせしました。
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墓地探訪(パリ) | 15:44:51 | Trackback(0) | Comments(0)
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