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石田明生

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柿の話からあれこれ
10月24日(土)

 先日、同僚の先生から柿をいただいた。まん丸い、小さな実で、たぶん子供の頃「だんご柿」と呼んでいた柿だと思う。その先生のお宅には、ふんだんになるらしいが、僕が子供の頃は、「つるっこ」という紡錘形をした小粒な柿に押されて、だんご柿はちょっとめずらしく、貴重なものだった。

夫婦柿
「いただいた柿、まるで夫婦のようだ」

 そのだんご柿、たくさんいただいたので、心いくまで味わうことができた。小さな実の割に、種が大きいので、食べる部分は少ないが、それだけにありがたさもひとしおだ。もちろん皮ごといただく。そのときの柿らしい何とも言えない味と歯ごたえは、少々オーバーだが、まるでプルーストの小説『失われた時を求めて』のマドレーヌ菓子のようだった。深い味わいだ。


 柿と言えば、子供の頃の定番は先ほどあげた「つるっこ」だった。正式名称はなんと言うのだろう。渋柿の「筆柿」に形は似ているがもっと小粒で、色はどちらかというと黄色だったような気がする。もちろん「だんご柿」も、正式の名ではなく、くださった先生によると「禅寺丸」と言うらしい。何十年も生きて来て、今頃やっと正式名称を知ったことになる。勉強不足も甚だしいが、それも仕方がないだろう。「だんご柿」とも何十年ぶりに再会したのだから(実は近くにあるのは知っていたが、失敬するわけにはいかないので、ずっと横目でよだれを垂らしながら見ていた)。
 そこでその「禅寺丸」をウィキペディアで調べたら、驚いたことに、この柿こそ日本最初の甘柿として、記録されているよし(《1214年に神奈川県川崎市麻生区の王禅寺で偶然発見された禅寺丸が、日本初の甘柿と位置づけられている》ウィキペディアより)。川崎市の柿生という地名は、明治時代、「柿が生まれた地」ということでつけられたそうだ。なんだかわくわくしてくる話だ。日本にはそれまで、渋柿しかなかったということになる。ということは、昔の人は、干し柿にして、甘みを摂取していたのだろうか。砂糖のない時代、保存食にもなる干し柿ならば、比較的常時「甘み」を味わうことができる。
 この禅寺丸も、かつての「つるっこ」もそうだが、かぶりつくと、実が黒い点々でいっぱいになる。それが甘みの印で、僕たちは子供の頃、それを「こがふいている」と言っていた。柿をくださった先生によると、「こがふく」の「こ」は「粉」が転じたもので、元々は柿の皮の表面に白い粉のようなものがつくことから来ているということだ(ちなみに、その黒いつぶつぶは「ごま」と呼ばれたらしい)。これまた、思い違いもひどいものだった。そうか、そういえば、ぶどうや干し柿など甘い果物の表面にはいつも白っぽい粉がついている。ふむふむ、少し賢くなったぞ。それにしても、埼玉の人たちは皆勘違いしていたということになるのだろうか。と思い、柿をいただいたときすぐ目の前におられた同僚の先生・・・茨城県出身・・・にうかがうと、やはり僕らと同様「こがふいた」と言っていたという。どうやら、関東地方全体の勘違いかもしれない(しかし、禅寺丸柿をくださった先生は先祖代々何百年も前から杉並区にお住まいだ)。
 このたび、だんご柿とは再会を果たせたが、子供の頃いちばんありふれて当たり前のように食していた「つるっこ」とは、いまだ再会していない。店頭ではもちろん近所の散歩途中でも目にしないのは驚きだ。次は是が非でも「つるっこ」と再会したい。
 八百屋や果物屋で見る柿は、巨大な富有柿ばかりでおもしろくない。大きい柿を扱う方が、単価が高く、商売になりやすいのはわかるが、素朴な柿の姿が見られないのは寂しい。
 実は、このことはひとつ柿だけの問題ではない。品種改良のせいだろうか、リンゴも桃も梨も、みな巨大化し、高額化して、店頭に並んでいる。ぼくはそれを精一杯皮肉を込めて「千疋屋コンプレックス」と呼んでいる。それは、どんな果物でもメロンをいただくように、上品に、皿の上に盛って食べる食べ方で、野蛮な丸かじりをまっこうから否定する。武者小路実篤の絵ではないが、やはり、果物は素朴な姿の方が良い(と思うのは、歳のせいか)。
 日本における、その果物の巨大化は思わぬところで問題を投げかける。フランス語の授業で、数えられる名詞と数えられない名詞に関する説明のときに、はたと迷うからだ。フランス語文法によると、リンゴは数えられる名詞として、une pomme(一つのリンゴ)となっている。たいして、メロンやスイカは、du melon, de la pastèque というふうに、数えられない名詞用の冠詞・・・部分冠詞(du, de la)・・・に先立たれる。これは何を意味しているかというと、メロンやスイカは丸ごと一つを食べるのではなく、切り身を食べるということだ。つまり、魚やハムの切り身と同様の考え方だ。たいして、一つを表す不定冠詞の付いたリンゴは一個丸ごと食されるということを意味するのか。そういえば、une pêche(一つの桃)、une poire(一つの洋梨)、 une orange(一つのオレンジ)というふうに桃、梨、オレンジは数えられるものとして、教科書でも紹介されている。実際、フランスで僕自身も、それらの果物を、歩きながらはもちろん、デザートとしても丸ごと一つ出てきて、食した。始めてのとき、オレンジの皮むきにひどく手こずったことを覚えている。
 翻って、果物の巨大化した日本ではどうだろうか。リンゴも、梨も、桃も、すべて切り身として(オレンジはもとから)、つまりメロンやスイカと同様に、食していないだろうか。だから、これらの果物は買う時はいざ知らず、食べる時は完全に部分冠詞の付く「数えられない名詞」に属することになってしまうのではないか。de la pomme, de la pêche, de la poire, de l’orange と表現したらどんな感じだろう。あるいはそれも「あり」かな。

柿
最初の甘柿とされる禅寺丸、直径はせいぜい5から6センチだ

 僕はかねがね日本の果物の巨大化と高級化を快く思わず、日本全体が陥りつつある千疋屋コンプレックスに警鐘を鳴らしてきた(つもり)。毎年学生たちにアンケート調査のように、「リンゴを丸かじりしますか。する人は手を挙げてください」と尋ねるが、今では手を挙げる人は皆無だ。たとえ、丸かじりしたことがある人でも、周りの雰囲気から手を挙げる勇気が出ないのかもしれない。
 いったいいつ頃から、日本人はリンゴの丸かじりをしなくなったのだろう。かつて、テレビコマーシャルで「リンゴをかじると血が出ませんか」というのがあった。画面上でリンゴの一部ががぶりとかじられる映像だった。歯磨き粉の宣伝だったと思うが、してみるとあの頃はまだ「リンゴの丸かじり」はされていたのだろうか。「富士」に代表される巨大なリンゴが日常的に登場しだすのはいつ頃からだろうか。梨や桃も同様だ。そして、今回の主役「柿」も切り身としての柿になったのはいつ頃からだろうか。
 少々下品かもしれないが、旅先のベンチや車内で、あるいはハイキングの途中で、リンゴや柿をかじりながら景色をうち眺める醍醐味は何物にも代え難い快感のような気がするが、いかがだろう。そういえば、子規の句でも「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」とある。果物を食する時の食感は、この、千疋屋とは無縁の「食えば」のなかにすべて込められているような気がする。
 フランスの町を歩いたり、公園のベンチでひと休みしたり、列車に乗って旅行したりしていると・・・こんなことを言うと眉をひそめる方もおられるかもしれないが・・・フランス人(特に女性)の方が果物を食べるその食べ方の美しさに感嘆することがある。とりわけてリンゴを食べている時の魅力と言ったら・・・果物のおいしさだけではなく、それをほおばる人の健康まで伝わってきて、感動的だ。

 柿をいただいた翌日さっそく、昼食の弁当に柿(禅寺丸)をデザートとして持参し、食べた。それを見ていた向かいの女性の先生が、「皮ごと食べるのですか?」と驚いた様子で、僕に尋ねた。その先生はアメリカ留学経験のある英語の先生だが、果物を皮ごと食べるのに、ひどく抵抗感があるらしい。やはりアメリカ留学経験のある他の先生からうかがった話だが、アメリカでは農作物の皮は農薬だらけ、と相場が決まっているので、恐ろしくて、リンゴでも何でも果物を皮ごと絶対に食べる気がしないということだ。
 そんなことを聞くと、フランスの農作物事情はどうなのか気になるところだ。が、それよりも何よりも、葡萄酒用のブドウやリンゴ酒(シードル)用のリンゴは洗ってからつぶしているわけがないから、もしそれらの果実に農薬がかかっていれば、酒を飲むこと自体農薬摂取の危険ありということになる。まさか、そんなこと・・・

 日本でも若者が、リンゴや柿を丸ごとがぶりとかじる健康とさわやかさを見たいものだ。駅のホームや電車内で菓子パンやおにぎりをほおばっている若者の姿を時たま見かけるが、残念ながら堂に入ってない。上手な食べ方とはお世辞にも言えない。フランスの若者は、そんなとき、臆することなくてらうことなく、それでいて大口を開けることなく、菓子パンやリンゴをさらりと食べる。これは、歩き食いの習慣があったフランスと、なかった日本の違いからきているのだろうか(パリのシャイヨー宮内にある「人間博物館」の展示より)。それとも、果物の丸かじりをしなくなった日本人の必然の結果なのか。
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雑感 | 10:17:29 | Trackback(0) | Comments(5)
コメント
オリーヴの木さん

コメントありがとうございます。でも、操作ミスのためにせっかくのコメントが消えてしまいました。申し訳ありません。熟読しておりますから、お書きになった内容は存じ上げております。
「皮ごとの柿」、ご家族の方達の反応はいかがでしたか?
干し柿を作ったことがありませんが、それは昔の「甘み」を創出する行為です。難しいのでしょう。
明日は、柿をくださった同僚の先生と会います。先週お話ししていたので、きっと、またたくさん禅寺丸を持参なさると思います。楽しみですが、台風のために休講とならなければいいのですが。
では失礼します。
これからもよろしく。
2009-10-26 月 23:40:16 | URL | 石田明生 [編集]
丸ごと食べる柿について
今回も、とても興味深く読ませて頂きました。
(最初のコメントを書き直しました事、ご迷惑お掛けして
すみませんでした。)
「皮ごと食べる柿」は、初めて知った事で とても驚きました。
早速、家族に試してみました。
我が家は、皮はむいたほうが良い が、全員でした。
気になって、ネットでも少し調べてみたら「皮のまま」という方たち
案外いました。
中には、皮を捨てなくて良いのは「エコ」でもあるという方もいて
なるほど、と思いました。
また、魚を煮る時に干した皮を一緒に煮ると、甘味が増して
美味しいそうです。
いろいろ勉強になりました。ありがとうございました。
次回も楽しみにしています。

2009-10-27 火 23:21:52 | URL | オリーブの木 [編集]
Re: 皮は皮でも
コメントありがとうございます。
皮ごと食べる柿は、「だんご柿」や「つるっこ」のようなちび柿でなくては食べづらいかもしれません。

ところで、皮は皮でも、魚の皮の利用法、おもしろいですね。機会があったら試したいものです。シャケやブリなどの皮でいいのですよね(実は普段、身と一緒にいただいていますが・・・)。
では、失礼します。
2009-10-30 金 22:16:56 | URL | 石田明生 [編集]
「魚の皮」でなく、「柿の皮」で。
こんにちは。
コメントを読んで頂き、ありがとうございました。
皮の利用法についてですが、「魚の皮」ではなく、「柿の皮」を
煮魚の時に一緒に煮て、甘味を出す、という事だそうですので
訂正させてください。
しっかりお伝えできなくて、申し訳ありませんでした。

「だんご柿」や「つるっこ」を、私はまだ知りませんが、今度
見つけた時には、是非、まるかじりしてみようと思っています。
いつも楽しいお話を、ありがとうございます。
2009-10-31 土 09:08:06 | URL | オリーブの木 [編集]
汗顔の至り
読み間違え、申し訳ありません。そうですよね。魚を煮るのに、魚の皮を入れるなんて、僕の頭はどうかしています。
汗顔の至り、とはこのことです。
これから、気をつけます。
2009-11-01 日 10:33:29 | URL | 石田明生 [編集]
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