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『うるさい日本の私』を読んでひと言
 先日、アメリカのオパマ大統領が、ノーベル平和賞受賞記念講演を行った。今朝、テレビでそれについてのコメントを聞いたが、ワイドショーに登場していた評論家諸氏の意見は「健全なことに」おおむね批判的だった。「正義のアメリカ」「正義の戦争」という彼の考え方に批判は集中していた。たしかに、演説の中でオバマ氏は《米国は民主主義の国と戦争をしたことはない》と断言し、かつてアメリカが戦った幾多の戦争を正当化していた。ようするに、アメリカと戦争した国はすべて、非(反)民主国家、野蛮国家ということになる、のか・・・
 それよりもうれしかったのは、評論家諸氏がオバマを神聖視しなくなったことだ。鳩山首相との共同記者会見時の「オバマのおとぼけ」についてのコメントゼロには失望したが、それよりは一歩前進というわけだ。どんな優れた人物に対しても、神聖視は絶対に許されない。人はそのことでどれだけ誤り、悲惨を招いたことか、歴史をちょっとひもとけばわかることだ。


 ところで、今回文章を書こうと思ったのは、オバマのことではない。ノーベル賞受賞記念講演ということから、話の接ぎ穂を見つけようとしただけのことだ。
 ノーベル賞記念講演と言えば、今から約四十年前に川端康成がノーベル文学賞を受賞し、有名な記念講演をした、という具合に。
 さて、この時の演題は『美しい日本の私』だった。この題名、ちょっと話題になった。「美しい」は実は日本にかかるのではなく「私」にかかるのではないか。それなら川端特有のナルシスムということになる。いや違う、やはり、「日本」にかかるから、日本礼賛だ、等々・・・
 それから26年後、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞し、ストックホルムで記念講演をした。この時の題名にみんながビックリした。川端の題名をもじった『あいまいな日本の私』という題だったからだ。
 次に日本人がノーベル文学賞をとったら、記念講演の題名を何にするだろう。二度あることは三度ある?

* * *


 先日図書館を歩いていたら、おかしな題名の本が目に飛び込んできた。それは、ノーベル文学賞の記念講演の題名でもあるまいに『うるさい日本の私』(新潮文庫)だ。むむっ・・・
 「うるさい」は、日本にかかっているのだろうか、いや、「私」にではないか。本を手に取ってペラペラと前書きを眺めてみるとわかった。「うるさい」日本について、「うるさい」私が怒りを込めて書いている。「うるさい」は両方にかかっている。
 
 著者の中島義道の耳はだいぶ敏感らしい。だから、騒音はもちろん、あらゆる雑音に「うるさい」。とりわけ、用もなく繰り返す、エレスカレーターや車内でのテープ音に耐えられないらしい。
 以前書いたように、英語の車内放送や携帯電話の優先席付近での電源切りの要請放送などに常々うんざりしている僕としては、百万の味方を得たかのように、この哲学的思索を混ぜ込んだ怒りの本を一気呵成に読了した。
 中島氏の音に対する感度とそれに対する行動力は、僕の想像を絶するものだ。残念ながら、この本は携帯電話の出始めに出たので(1996年)、僕の「ぼやき」について言及されていない。また、プラットフォームでの鳥のさえずりも当時はまだなかったので、著者は触れていない。が、多分想像の域内にあるだろう。
 携帯電話に対する車内放送は、彼が言う「実行を期待しない言葉」の範疇に入る。実行は期待していないが、とりあえず言っておくという、あれだ。
 これについては、僕が通う大学の最寄り駅のエスカレーターでの放送がおもしろい。朝の10時頃、エスカレーターがびっしり大学生たちで埋まるとき、《良い子の皆さん! 手すりから頭や手を出したりしないようにしましょう》とテープ音が呼びかけるのだ。思わず、周りを見るが、どう見ても大人に見える学生達は何の反応も示していない。
 この線に、動物園のある駅があるために、駅名「・・・大学」のエスカレーターでも放送が流れるのだろうか。つまり。この放送は、技術力がないので、全駅で流れてしまうのだろうか。あるいは、駅ごとで個性を出すことが禁じられているのだろうか。
 しかし、いちばん驚くのは、この「幼稚な」放送に大学生達が何の反応を示さないことだ。「国の横暴」や「イラク戦争」に反対の声を上げている学生運動家達は、こんな些細なことにエネルギーを使いたくないのだろうか。あるいは、こんな放送があることに気づいていないのだろうか。
 『うるさい日本の私』の著者中島義道氏は、《車内への危険物の持ち込みはご遠慮ください》という、およそ「実行期待薄」の放送について次のように言う。
 
 《(大多数の人たちは)こうした放送をぜんぜん聞いていないのではない。無関心なのではない。「車内への危険物の持ち込みはご遠慮ください」という代わりに、「車内で人を殺すことはご遠慮ください」という放送が各駅ごとに入ろうものなら、その「非常識な放送」に対してゴヴゴウたる抗議が湧きあがるに決まっている》(pp.22-23)
 
 つまり、我が大学生達も「良い子の皆さん!」という放送を聞いている、少なくとも聞いたことがあるはずなのだ。それなのに、不快とも、滑稽とも思わず、駅のあるべき姿としてテープ音の放送を受け入れている。もしこれが「大学生および教職員の皆さん! 手すりから頭や手を出さないでください」という、より「実践的な」放送だったらどうだろうか(もちろん、頭や手を出している学生を見受けたことがない)。毎朝、毎朝「大学生の皆さん!」と耳に入るほうが、「良い子の皆さん!」よりも気に触ると思うがどうだろうか。
 実行を期待していない言葉の放送は、まるでBGMのように、駅やデパートや歩道に流される。中島氏が言うように、大多数の人たちはそういうスピーカー音、テープ音に《寛容ないし鈍感》p.22になっている。
 この辺の問題は、日本人の伝統的な問題とも関わると、芭蕉の有名な俳句《しずけさや岩にしみ入る蝉の声》を引用して、氏は指摘する。つまり、この句にある「静けさ」は絶対的な静けさではない。日本では、静けさは《絶対的な無ではなく、そこに「何らかの音」を取り込んで静寂を演出する》p180というのだ。「ししおどし」や歌舞伎の「どんどん」という太鼓の音、雨音、虫の声、風鈴などなどだ。
 確かに、日本人の音に対する「寛容ないし鈍感」はこういう伝統からきているのかもしれない。去年、フランスの田舎に住むフランス人のお宅に滞在した時の強烈な印象の一つは真夜中の「絶対的な静寂」だった。日本でなら、9月という季節がら、虫の声が聞こえて来る筈なのに、まったく聞こえなかった。完全なしじま、無音の世界だった。日本であのような音のない世界を作るのは、むしろ不可能なような気がする。
 日本人は、攻撃的な内容の音でなければ、それをBGMとして、わりとすんなり受け入れることができるということなのだろうか。以前、プラットフォームの鳥のさえずりについて学生に言った時、八割がたの学生がその音に気づいていなかった。彼らの何人かは、翌週になって僕に報告した。
「ええ,鳴いていました。なんで今まで気づかなかったんでしょう」
 そう、攻撃的ではない音には,大多数の人は意識せずに、そのまま生活の中で受け入れてしまうのだ。それが現実の世界だと。怖いのは、耳に不快ではないからと,それどころか快いからと、鳥のさえずりにとどまらず、虫の音や風鈴や水のせせらぎをテープ音で聞かせられるようになることだ。どうか,そんな時代になりませんように。

注: このプラットフォーム上の鳥のさえずりは、耳の不自由な人のために「ここはプラットフォームで、危険ですよ」ということを知らせるためと思われる。だから,健常者の人たちに気づかれなくてもかまわないのかもしれない。というよりも、気づかれないほどいいのかもしれない。が、鳥のさえずりという、自然の営みのサイクルに組み込まれた自然音が、朝・昼・夜の区別なく,春・秋・夏・冬という季節感はなく、快晴・雨天の区別なく,平板なテープの音声で流されること自体が問題だ。目の不自由な人へのメッセージとして,もっと良い音はないものだろうか。
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雑感 | 15:59:12 | Trackback(1) | Comments(0)
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  2010年が始まりました。 昨年2009年の日本ではいろいろなことがありました。最大の出来事は政権交代だったでしょうか。 ジミントー政権... 2010-01-01 Fri 13:54:12 | 村野瀬玲奈の秘書課広報室

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