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石田明生

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画家シスレーの愛した町・・・モレ・シュル・ロワン
 パリで生まれたイギリス人アルフレッド・シスレー(1839-99)は、フランス人以上にフランスの水や空や、樹木や町並みを愛したのかも知れない。そして、友人のモネやルノワール達、印象派の仲間よりもずっと自然に印象派の画家になったのかも知れない。
 彼はモレの町に住み、モレの風景を描き、モレで没した。目にも心にも優しい色彩を魔法のようにあやつるペイザジスト(風景画家)があんなにも愛した町、モレに行く。

ロワン川と教会

「モレ・シュル・ロワン」の町は名前の通り、ロワン川沿いにある
《ノートルダム教会と橋と城門(ブールゴーニュ門)》
シスレーが描いた風景が100年の時を越えて、目の前に広がる



 モレ・シュル・ロワンはパリ・リヨン駅から、日本で言えば特急か急行にあたる電車で南東に約50分ほどの所にある小さな町だ。有名なフォンテーヌブローの城のあるフォンテーヌブロー駅から5分ほどで到着する。運賃は片道7.9ユーロ。

朝のリヨン駅.JPG

朝のリヨン駅

ポスト.JPG

改札口のないフランスの駅の構内にさえポストがあるのに
日本では簡単に外に出られないのだから、本当は日本にこそ構内のポストは必要だ


列車.JPG

モレ・シュル・ロワンまで、約1時間、郊外列車はほとんど二階建て

モレ駅.JPG

「モレ・ヴヌー・レ・サブロン」駅


 駅から「アヴニュー・ジャン=ジョレス通り」が町の城門まで一直線に結んでいる。

ジョレス通り.JPG

アヴニュー・ジャン=ジョレス

ジョレス通りの家.JPG

アヴニュー・ジャン=ジョレス沿いのしゃれた家、シスレーへの思いはいやがおうでも高まる

パン屋.JPG

アヴニュー・ジャン=ジョレス沿いのパン屋さん
子供と犬があまりにもかわいいので思わず ma femme がシャッターを押す


 前方に見える城門を目指して、アヴニュー・ジャン=ジョレスを15分くらい歩くと、左手にシスレーの記念碑が見える。

記念碑.JPG

シスレーの記念碑、その向こうにある建物がオフィス・ツーリスト
どこの町もそうだが、係りの人は親切で感じがいい。町の地図をもらって、「出発!」


 町は城壁に囲まれていて、双方の出入り口で二つの門が人たちを見守っている。パリから来る旅人がくぐるのが、今越えようとしているパリ門、その名も「大通り Rue Grande」という300mほどのメインストリートの先にブールゴーニュ門が川のほとりに立つ。つまり、町は直径300mほどの小さな町、ということになる。

パリ門.JPG

パリ門

門のアーチ.JPG

門のアーチから「大通り」を望む

城門のマリア像.JPG

信仰厚き時代の証し、城門のマリア像


 城門を含めた城壁は12世紀に建設された。時代は十字軍の熱とロマネスク芸術が横溢する、信仰の時であった。
 城壁の建設から約700年後、1815年の3月19日から20日の深夜この町を通り抜けた男がいた。エルバ島を脱出し、ジョワン湾に上陸、それからは破竹の勢いで、グルノーブル、リヨンを無血で通過してきたナポレオンである。パリはもう目と鼻の先だ、こんなことを思っていただろうか。

町の風景.JPG

「大通り」沿いの家、左に通ったばかりの「パリ門」
「大通り」とは名ばかりで、狭い道、まさに中世そのままだ



町並み.JPG

「大通り」沿いの家、ナポレオンの目に止まっただろうか

骨董屋.JPG

「大通り」沿いの店、見ると骨董屋さんだった。しゃれた飾り「アタムとイヴ」

アンチキテ.JPG

「大通り」沿いの骨董屋


 オテル・ド・ヴィル(町役場)に行くと、その中庭に「フランソワ1世の館」と呼ばれているルネッサンス様式の建物がある。フランソワ1世とは直接関係ないらしい。そこに彫られた浮き彫りは彼とその一族に関係している。

オテル・ド・ビル.JPG

フランスに来て驚くことは多いが、その一つにオテル・ドヴィルがある
パリなどのそれが立派なのはわかるが、こんな小さな人口5千人にも満たない町なら町で建物はそれなりに美しい


ファサード.JPG

典型的なルネッサンス様式の「フランソワ1世のファサード(正面)」

サラマンダー.JPG

フランソワ1世の象徴、火の中を無傷で通り抜けられるという蜥蜴「サラマンダー」

浮き彫り.JPG

左「アンリ2世」、中央はその20歳年上の愛人「ディアーヌ・ド・ポワチエ」、右端がアンリの父「フランソワ1世」


 ホテル・ド・ヴィルの先を少し行くと「sucre d'orge 大麦糖」博物館があった。モレの名物は大麦糖なのだ。大麦でできた上品な甘さの飴だ。

飴屋さん.JPG

残念ながら開館は午後2時からなので入れなかった
田舎はしっかり昼休みをとるから注意


 博物館には入れなかったが、「ノートルダム教会」の横に飴屋さんがあったので、さっそく甘い土産を買う。

飴屋.JPG

この木枠の家は5百年は経っているだろう。消えかかっている svcre d'orge の文字も美しい

店内.JPG

大麦糖の飴ばかりではなく、甘いものはなんでも揃っていた
中年のご夫婦が商っていた。彼らの客に対する接し方はソフトで遠からず近すぎず、まことに心地よかった
スタンダールなら「こんな田舎にも人はいるものだ」とでも言うのだろうか


 不信心者の我々は、隣のノートルダム教会に入り込み、信者用の椅子に腰掛けて買い求めた土産物をうれしそうにバッグに入れ替えた。ふと、まわりを見るとステンドグラスが美しく、光を放っている。

教会内.JPG

教会内、完成までロマネスク様式からゴチック様式へと300年の歳月が流れた


 古い町並みに感嘆しながら通りを歩いていると、「この地点は、シスレーの絵画」という標識を発見。ふと見上げるとふむふむ、確かに見覚えのある風景だ。

シスレーの絵.JPG

このポイントでシスレーは描いた
そう思うと何気ない町並みも不思議な魅力を持つ


シスレーの家.JPG

シスレーの家
貧しかったシスレーは生涯この家を持ち家にできなかった


 建物の間にある抜け道を通ると、そこにロワン川としだれ柳と橋があった。あまりの美しさに息を呑む。

しだれ柳.JPG


門・橋・バス.JPG

橋と城門とバスがタイミングよく

橋下.JPG

橋下のロワン川、鴨の家族が泳いでいた

城門の門.JPG

橋に上ってブールゴーニュ門を撮る。すると門の中にパリ門が見える


水車小屋.JPG

橋から水車小屋を撮る

水車小屋の少女.JPG

水車小屋に降りると、ひとり少女が本を読んでいた

水車小屋から.JPG

水車小屋からロワンの堰

老夫婦.JPG

対岸からモレの町を眺めようと橋を渡ると、老夫婦が絵筆をとっていた
その後ろ姿はシスレーの絵のように美しかった


しだれ柳と教会.JPG

対岸からノートルダム教会を望む(表紙の写真も同様)


 ロワン川の水は冷たく、澄んでいて、30cmほどの鱒(?)が群れをなして泳いでいた。川沿いを散歩していると、まさに目の前に住んでいるマダムと挨拶をする。
「いいところに住んでいますね」そう言ってみると、
「ええ、冬の雪の時もいいんですよ、一面真っ白で」と、彼女はこう言いながら、雪を降らすかのように右手を横に大きく振った。
 そうか、雪のロワン川にモレの町か・・・


食堂から橋.JPG

川沿いのレストランから橋を写す


 昼食はブルゴーニュ門に隣接する川沿いの素朴なレストランでとった(表紙の写真に写っている白い壁のある建物がそれ、絶好のロケイションだ)。この小さな町にはレストランがとても少ない。この川沿いのレストランはクレプリー(クレープ専門店)だったので今一つ元気が出なかったが、近くにはいわゆるカフェしかない。カフェ料理も食べる気がさらにしない。そこでこのクレプリーにしぶしぶ入ったが、メニューを見ると思ったよりも品数があったので、冷たいロゼワインを飲みながら、川に面したテラスで景色と料理を楽しめた。

ロゼワイン.JPG

前菜とロゼワイン


 昼食後、ほろ酔い加減で、帰り道をたどっていると、面白い標識に遭遇する。

犬さん注意.JPG

「犬の・・はこの中に。月・水・金が回収日」と書かれている


 さらに行くとおもしろいノッカーと鎧戸留めがあった。

ノッカー.JPG


留め金.JPG

観音開きとなる木製の窓を固定する留め金だが、郊外の町や村を歩くとたいていこの種の留め金が付いている。大きさは人差し指ほどの長さ。ただのカギでも用は足りるのに、ずいぶんと芸が細かい


 こういう郊外の町を散歩していると、不法移民の問題やら低額所得者の問題やら社会格差の問題やら、そういう社会問題が存在していることさえ疑わしくなってくる。それほど清潔で、プチブルジョワ的で・・・つまりみんなニコニコして人なつこく、親切で、付き合いは欲得抜きというような、平和な町にいるという印象を持つ。いったい貧しい人はいないのだろうか。それとも貧しい人は住んではいけないのだろうか。
 そういえば駅への帰り道、我々の前を歩いていた若者は、少し悪がって見えたが、あれは不良少年だろうか。この町では不良少年が存在できないのでパリにでも行くのだろうか。
 では、シスレーは?
 1870年の普仏戦争で実家は破産し、己の絵はほとんど誰にも認められず、失意の毎日を送っていた彼は、あの若者達とは逆にこの静かでゆったりした平和の地を終の住処と望んだのだろうか。コンスターブルやターナーを誰よりも絶賛していた彼はイギリスで骨を埋めようとは思わなかったのだろうか。モレとその近郊で描き、展覧会を開催するも失敗の連続、誰にも評価されない。一説によるとモネやルノワールの成功を彼はついに知ることがなかったらしい(彼らはシスレーに救いの手を差し伸べなかったのか)。死ぬまで認められなかった彼は運命を呪うことはなかったのだろうか。この頑なペイザジスト(風景画家)に、都会から来た貧乏な絵の先生に、モレの人たちはどのように接したのだろう。ここではモレの村人たちと共に緩やかに時は流れるだけだ。彼の穏やかな絵は本能的にこの地を希求したのだろうか。水としだれ柳、橋と町並み、自然と人工の絶妙な融合の地、モレ・・・
 駅への道すがら、こんなことを考えた。
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パリ旅行記(2005年) | 19:32:50 | Trackback(0) | Comments(0)
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