■プロフィール

石田明生

Author:石田明生
ホームページの方もよろしくお願いします。
文学雑感、旅行記、翻訳などを載せています。

■4travel

スキピオの旅行記(写真付き)もごらんください。

■最近の記事
■カテゴリー
■最近のコメント
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■リンク
■アクセス解析

■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
死刑容認85%・・・過去最高
2月7日(日)

 朝刊をめくると、内閣府による死刑制度に関する世論調査の結果が目に飛び込んで来た。

《死刑容認85% 過去最高》

 暗澹たる気持ちになる。日本はあいかわらず中国同様死刑が好きな国として名を轟かせているのだ。
 最近アメリカで死刑問題が取りざたされているのとはだいぶ違うようだ。もっともアメリカの死刑問題はどちらかというと死刑の手段・・・薬物による死刑は残酷か否かということが主眼であって、本質的な死刑廃止論とは微妙に違っているような気もするが・・・まあなんであれ議論することはしないよりはましだ。この度の内閣府調査には、日本における死刑の方法・・・絞首刑について残酷かどうかという問いかけはない,というよりも,これまでもなかったような気がする。まさか,絞首刑が死刑の方法として究極のものだとは誰も思っていないだろう。


 イラクのフセイン大統領が処刑されたことは,まだ記憶に新しい。彼は死刑判決を聞いて,「絞首刑ではなく銃殺にしてほしい」と願い出たが、当局は無慈悲にもその願いを拒否して,絞首刑に処した。なぜ彼は絞首刑を嫌ったのだろうか。もちろん、軍人というものは銃殺を望むものだから,銃殺を願い出たのはうなずける。が,いずれにしても絞首刑を忌避したがったのは確かだ。
 アメリカで問題になったのも、絞首刑の問題ではない。絞首刑というものは,歴史的にみても時代がかった処刑方法なのだから。
 かつてフランスでも死刑の手段として絞首刑は行われていた。18世紀までのことで,世紀末のフランス革命期にギロチンに取って代わったことはよく知られている。
 ギロチンが登場するまでは,一般的に庶民は絞首刑、貴族は打ち首というように処刑方法は身分によって異なっていた(革命時に死刑方法も平等にしようという考えから統一された)。ここにおいても、絞首刑は下位に位置している。どうしてなのだろうか。おそらくは、即死の可能性が少ないこと,死んだ姿が醜いこと(かつては公開だった)などからだろうか。残念ながら,刑罰の専門ではないのでよくわからない。
 ヴィクトール・ユゴーの小説に『ノートル=ダム・ド・パリ』という、有名な小説がある。あるいは『ノートル=ダムの鐘つき男』という邦題で知られているかもしれない。この作品は映画化,ミュージカル化、漫画化、アニメ化、さまざまな表現手段で世に知られている。ヒロインは美女のエスメラルダだ。この小説の結末にいきなり突入して申し訳ないが・・・死刑という問題をいまだ抱えているこの国では、たかが小説とはいえ死刑の描写に顔を背けてはいけない・・・この小説の最終部分の話をする。
 そのエスメラルダは、彼女に恋いこがれる僧侶フローロの申し出をはねつけて、絞首刑に処せられることになる。この処刑の時に興味深い描写がある。彼女が首を吊られた瞬間、彼女の足にぶら下がるひょうきんものが現れることだ。
 この男はどうしてジプシー娘の足にしがみついて,重力を増すことをしたのだろうか。そう,彼はまさに彼女に重みを与えたのだ。ほっそりしたエスメラルダは、自身の重みで即死することができず、恐ろしいことに苦悶のうちにゆっくりと息絶えるかもしれない(「絞首台で最後の踊りをする?」)。
 そのひょうきんものはエスメラルダの即死を願ってぶら下がったのだ。
 かくも絞首刑は残酷なものだ。それを、その残酷性をユゴーは忘れずに書いたのだ。19世紀最大のこの作家は,『ノートル=ダム・ド・パリ』を書く2年前に『死刑囚最後の日』を書いて(1829年),死刑廃止論ののろしをあげたばかりだった。だから、この悲劇の結末は死刑であり,しかもその残忍性を男のぶら下がりによって強調したのだ。

 と、ここまで書いて、いまだその絞首刑によって死刑を存続させ,死刑制度そのものの支持率をあげる東の果ての国のことを思う。長い間平和を享受し、経済的にはもちろん,文化的にも一流国の仲間入りをしていると思い込んでいるこの日本のことを思う。
 死刑を容認するもっとも多い理由(54.1%)は、「被害感情がおさまらない」ということだ。早く言えば,復讐心、英語で言えばリヴェンジだ(どうしてこんな英語がはやるのだろう)。古代からずっと打ち続く、あいも変わらぬ感情だ。このどうしようもない感情を乗り越えるにはどうしたらいいのだろう。
 ひとりひとりの感情を計れば,その復讐心を屈服させることは不可能だろう。しかし、国家単位,社会単位、共同体単位で、その感情を理解し、慰撫し、なだめ,癒してやることはできないだろうか。被害感情に突き動かされてなされる死刑とは、復讐心に燃えたものが自ら手を下して、相手を殺すのではなく,死刑執行人という一種のプロの執行人に頼んでする仇討ちのことだ。想像力を働かせて、自らする敵討ちのことを考えてほしい。僕たち人殺しでないものが,どれほど憎み,どんなに殺したいと思っても、目の前の無抵抗のものを殺せるだろうか。
 殺せる、という人がいるかもしれない。だが、そんな人があまたいる社会は考えるだに恐ろしい。人殺しでない人が、人殺しにいとも簡単に変ずる社会など,かつてあっただろうか。仇討ちが許されていた江戸時代においても、「返り討ち」という言葉があるように、敵討ちは,無抵抗のものを殺すのではなく戦いの結果だった。いや、たぶん人は仇討ちをなかなかしないので、仇討ち制度は無理矢理作り上げられたにちがいない。だから、その種の物語には「お家再興」という言葉がまといつくのだ。
 かつて,妻と子を殺された光市の方は犯人へのメッセージで、「早く刑務所から出てこい。俺が殺してやる」そんなようなことを言っていたように思う。そこにはたぎるような復讐心が込められていた。だから,目の前に犯人が現れれば、本当に殴り殺したかもしれない。同じ立場に僕が身を置いたとしても、きっと同じことをするかもしれない。
 けれども、刃物で刺し殺したり,ロープで縛り首にしたりするだろうか。お膳立てをされた死刑執行をするだろうか。いや違う,僕だったら、殴って殴って、殴り続けて殺してしまうだろう。光市の方もそうだと思いたい。
 ところが、犯人が死ぬ前に、きっと誰かが止めてくれるだろう。そうして自身が人殺しにならなかったことをずっと後になって感謝するだろう。「あんな糞みたいな奴のために人殺しにならなかった」ことを。
 光市の方も、あんな犯人のために絶対に人殺しになどなってはいけない。
 そして、人殺しではない人の集合である社会も国家も決して人殺しになどなってはいけないのだ。
スポンサーサイト
雑感 | 00:00:04 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2010-02-16 火 14:46:51 | | [編集]
Re: ありがとう。
ご理解いただきありがとう。
しかし,世の中は残念ながら逆方向に向かっています。なんとか今のおとな達がこの向きを変えたいものです。
2010-02-16 火 15:56:58 | URL | 石田明生 [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad