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『パリ20区、僕たちのクラス』を見る。
 昨日、岩波ホールで映画『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督)を観た。
 結論から言うと、カンヌでパルムドール賞をとるのもむべなるかな、すばらしい映画だった。

クラス
パンフレットの表紙

 映画作品の評価は、まずなにを持ってするのだろうか。作品の現実社会への迫真性、つまりレアリスムを価値観の指標とするならば、この『僕たちのクラス』はトップレベルであることは間違いがない。パンフレットで評論家の土屋好生氏が冒頭で次のように言っている。

 《この映画の第一印象は「あまりにもリアルな描写」ではないだろうか。「ひょっとしてこれはドキュメンタリーではないのか」とか、「現実以上にリアル」という最上級の賛辞を贈る人がいるかもしれない。実際その場に居合わせたような臨場感も、自らその渦中に投げ込まれたような現実感も、尋常ではない。》(p.6)


 鑑賞するものが子供を持つ親ならば、いつの間にか映画の中で親や保護者の役を演じ、多少とも教師を経験したものならば、我にもあらず職員会議に参加し、発言し、悩みをぶつけてしまうかもしれない。まして、中学生がこの映画を見ているならば、24人クラスのこの中に25番目の生徒となって、先生を揶揄したり、仲間に反発したり、あるがままの自分を演じてしまうかもしれない。ことほどさように、この映画は「本当らしい」のだ。館内で鑑賞する観客たちをそれぞれの立場で否応なくまきこんでしまう。
 ジャック=ルイ・ダヴィッドが丹誠込めて完成させた、あの名画『ナポレオンの戴冠』を、当のナポレオンが初めて見たとき言ったそうだ。「この絵の中にはいれるようだ」
 まさに映画『僕たちのクラス』を見ていると、観客の僕たちがこのクラスに、この中学の壁の中に(原作は『壁の中に Entre les murs』という)「はいれる」ようなのだ。『ナポレオンの戴冠』を描いた画家ダヴィッドと同様、ここにカンテ監督の仕掛けがある。
 2時間余にわたる映画のほぼ全編が中学の「壁の中」で撮影されている。まるで、あのルーヴルの傑作のように、ひとつの額縁の中でドラマが展開しているかのようだ。絵画と同様に、中学の壁の外はわずかに会話でそれと感じられる程度で、ほとんど中に入り込まない。まるでよけいな観念や概念を捨象しているようだ。そうすることによって、ドラマは凝縮され、画布の中の人物たちと同様に、わかりやすい人間のドラマが展開されることになるからだ。
 だから、担任で国語の教師フランソワは、常に中学内の教師でしかない。学校の外に出ればあるであろう彼の個人的な悩みや、いるかもしれない恋人・友人、見るかもしれないテレビや映画、読むかもしれない新聞や雑誌、いやひとり部屋でとる睡眠までも完全に排除されている。彼は、常に中学のどこかにいる教師なのだ。
 それだけではない。フランソワの同僚はもちろん、24人の中学生も常に中学にいる中学生だし、面接にやってくる親も先生と対面する保護者でしかない。この映画は徹底的に「壁の中」にこだわっているのだ。
 それでも、フランソワの同僚のひとりが職員会議の途中で、恐る恐る発言する。「妊娠したの」
 暗い学内問題ばかり抱えていた教師たちは、明るいニュースに顔を輝かせて、シャンパンで乾杯する。ところが、妊娠といういわば壁の外からの異物を発表したソフィーだったが、すぐにまた「壁の中」に戻ってしまう。彼女は乾杯のとき、次のように言うからだ。

《「わたしの願いは二つ、ひとつはウェイの母親がフランスに残れること、そして、ウェイのような賢い子が生まれること」》

 中国人のウェイの母親は不法滞在が発覚し、強制送還されそうなのだ。職員会議の途中シャンパンで乾杯するなんて、今の日本では考えられないだろうが、それよりも驚かされるのは、自らの祝福を中国人生徒にことよせるソフィーをはじめ、静かに頷く教師たちの現場一筋の姿だ。

クラス2
パンフレットの表紙

 そうはいっても、一番リアルなのは24人の生徒たちかもしれない。彼らも「壁の外」を引きずってこない。いじめたり、からかったり、けんかしたり、徹頭徹尾中学校にいる中学生なのだ。彼らを見るのは常に中学の壁の中だけだ。そしてそのまま約9ヶ月が過ぎる。
 結局、中学の中だけでしか撮られない映画を「レアリスム」と言えるのだろうか、という疑問に突き当たってしまう。中学の中だけリアルなんて。しかしそれが監督の仕掛けた罠なのだ。観客はレアリスムに浸る。がよく考えてみると、それは一幅の絵でしかない。

 フランスと日本の中学校の比較という視点だけでも、この映画は十分おもしろい、ということを付け加えたい。たとえば、職員会議に生徒の代表も出席するのには驚く。生徒の参加は教育的配慮からだろうが、教師たちは自分たちの意見が生徒たちに筒抜けになるのを恐れないのだろうか。事実映画の中で、代表のひとり(なんと! エスメラルダという名前だった)が、担任フランソワの問題児スレイマンについての意見を、みんなの前で言ってしまう。もちろん当のスレイマンはおもしろいわけがない。そこからまた問題が起きるのだが・・・
 生徒たちの服装の自由さも日本の中学では考えられないだろう。日本は服装も、年齢も完全な一律主義だからだ。もちろんどちらが良いか一概には言えないが、それでも生徒たちがする先生への自由な発言が、多様性と自由を尊重する国ならではのような気がする。現在の日本の中学はどうだろうか。
 また、校長先生の位置が日本とまったく違うのも興味深い。要するに「えらく」ないのだ。解説によると、日本のような現場上がりではなく、派遣されて来る公務員だそうだ。職員会議等においてもほとんど発言権がないようだ。強いて言えばまとめ役というところだろうか。

 ちなみに、フランスの義務教育は、6歳から16歳までの10年間だから、落第を何度かすると中学を卒業できないうちに16歳になり、そのまま学業を終えることがある。つまり、中卒にすらなれないのだ。その点、日本の場合義務教育が中学卒までだから、誰でも中卒にはなれる。それはいいのだが、登校拒否や非行で学校にほとんど通わない生徒まで卒業させるのはいかがなものか。そこに日本の義務教育の問題点があるような気がする。
 映画『僕たちのクラス』は、中学・高校の先生や生徒に一番見て欲しい。必ずや、共感や反発、感動や笑いがある筈だ。
 最後に言っておくが、この作品は「金八先生」のようには終わらないし、決して担任のフランソワは金八先生のような熱血漢でも、スーパーマンでもない。彼は、金八先生のように家庭訪問をしたり、町中を飛び回ったりせず、ただひたすら「壁の中」だけで生徒たちを指導している。そんな先生の姿も彼我の違いを感じさせる。
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雑感 | 18:50:49 | Trackback(0) | Comments(0)
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