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石田明生

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S先生の小説
 先日、退職された先生から柿の苗をいただいた話を書いたが、今度はさらにずっと以前に退職されたS先生から、同人誌を送っていただいた。
 早速昨日拝読した。その中でS先生は、《10年ほど前に退職》《80歳を過ぎて》と書かれておられるから、御歳をそのまま考えてもいいのだろう。ずいぶん前から、この同人誌(『小説家』という同人誌名で133号を数えている)は続いていて、しかも作品のレベルは、S先生のみならずみなさん驚くほど高い。

表紙
すっきりとしたデザインの表紙。この中に人生の先輩方の叡智が詰まっている。



 この度のS先生の文章も、僕のなどと違って、こけおどしも誇張もなく、静かなタッチで、まるで清流が流れているかのようにさらさらとよどみなく読みやすい。それでいて、取り上げているテーマは重く深く心に迫って来るから不思議だ。たぶん、情景や人物の描きかた、会話のやりとりがさりげないけれど作者の心そのものを映し出しているからだろう。小説の書き出しを引用してみよう。

《もえぎ色の服を着てサクラの並木に立つ宮本あや子の姿がようやく見えてきた。いま彼女は満開の花の下で浅田を待っている。浅田は杖をたよりに自宅を出たあとゆるい坂をくだり、ようやく並木のはしに行き着いたところである。
 間をおいて吹く強い風に、白い花吹雪が小柄な彼女の上に散って、くろい髪の上にも、多量のうすべに色が降りかかる。あや子が、時に面を伏せたり、時にサクラを振り仰いだりしているのは、花をスケッチしているところなのだろうか。》(p.38)

 どの小説でも、小説の書き出しは作者のもっとも神経を尖らせるところだ。が、文章はその「尖らせた神経」を想像させては駄目だ。以前読んだアルベール・カミュの小説『ペスト』に、小説の書き出しを何度も何度も書き直している男が登場していた。どうしてもうまくいかないのだ。そう、彼に「尖り」があるからだ。
 S先生の小説の題名は『はな・おに』という。のっけから満開の桜(小説中、主人公浅田の桜への複雑なこだわりを反映しているからだろうか。常に「サクラ」と書かれている)が描かれているのは題名の「はな」と呼応し、安心感を持って小説内に入ることができる。問題は「おに」のほうだ。
 それにしても、この「あや子」とはどんな存在だろうか。まるで花の精でもあるかのようにサクラの空気を吸っているようではないか。杖をついた老人は、視力もだいぶ衰えているらしい。《あや子の仕草一つ一つを見定めることはできなかった》とあるからだ。
 そのとき、晩年のモネを思い浮かべたのは、作家に失礼だろうか。オランジュリー美術館の壁に描かれた「睡蓮」は、画家が晩年になって視力の衰えを衰えそのままに受け入れ、画家にとっての見えたままのリアリスムをもって制作されたと伝え聞く。
 小説の冒頭、あや子はまるでモネの絵の婦人のように輪郭がないまま登場するが、のちに浅田が近距離から見て、《二重瞼のやわらかな視線》《口の端を曲げたほほえみ》《ひとみの動きがすばやく、動くたびにきらめき》とその正確な輪郭を伝えている。四十代のあや子の魅力が過不足なくここに込められている。
 がここで展開される二人の関係は、異性のそれではない。「サクラ」にまつわる共通項「死」が問題なのだ。梶井基次郎の桜は、人の死によって滋養を得て花の美を誇るが、浅田とあや子のサクラは人を死に追いやるものとしてある。それは、浅田にとっては「サクラのように散った」特攻隊のイメージであり、あや子にとっては彼女自身大病をわずらって入院した同室の仲間たちの死だ。あや子はサクラの花だけを描き続ける。若くして生死の境目を行き来した彼女は「あの世のサクラ」を想像して描くと言う。彼女にとってサクラは執念であり、怨霊のようなものであり、静かな女の激しい生き方でもある。

《・・・彼女はそのまま花を抜き取り、手もとに運び、一瞬眺めたあと、口を開き、口の中へ一輪のサクラの花を放り込んだ。・・・
 あや子の口元が動く。口の中の花を噛みしだき、呑みくだす。・・・(略)・・・ひたむきの表情だった。》(p.48)
 
 あや子はサクラの空気を吸っているのではなく、サクラそのものを食していたのだ。ここにこの小説の凄さがある。あとで浅田はあや子のサクラを描いた大作を見て、ロシアの画家(ロトチェンコと思われる)の一枚の絵画を思い浮かべる。そこに、共通する《何かを吐き出そうとする力》を感じるのだが、実際はあや子がするように「何かを嚥下する」激しさでもあるのではないだろうか。

 「鬼」については、国文学者であるあや子の夫が、平安時代の藤原彰子にまつわる和歌をあげて、紹介する。

        《浅みどり野辺のかすみはつつめども、こぼれてにおふ花桜かな》

 紫式部のパトロンヌでもあった彰子は《鬼の声を聞き取る》(p.49)ことのできる人として知られているという。この鬼は、とあや子の夫である国文学者は言う。《花に棲む鬼、昔ながらのはな・おに、ではないでしょうか。西洋の、花の精みたいな》ものらしい。
 また、国文学者の夫は、サクラにまつわる一茶の句をも紹介する。

        《死支度、致せ致せと桜かな》

 一茶らしいおもしろい句ではあるが、どこかに凄まじさがある。いろいろ考えさせられるが、浅田が抱いていたサクラに対する悪者めいたイメージはむしろ薄れていく。あや子の絵のせいだろうか。

 たった三人の登場人物で構成されたこの短編小説に凝縮された死は、晩年を迎える人に冷たくも温かい。死を掌でもてあそびつつも、もてあそびきれないもどかしさを感じてしまうのだ。僕も年を取ったということだろう。
 齢80歳を過ぎたS先生の匕首のように鋭い短編は読むものを一瞬たじろがせる。まるで、突然目の前に現れる蛇のようだ(実際小説に蛇が登場する)。しかし、そのおかげで短い生をもう一度見つめ直すことができる。
 ところで、これを読み終えて、ここで引用された一茶の俳句(死支度、致せ致せと桜かな)のような句をひねり出そうとまねごとばかりしている自分にふと気づいた。気になってしようがない。

         死支度、致せ致せと落ち葉降る

 そういえば、「来年のことを言うと鬼が笑う」というが、身の程知らずに己の寿命を過信している様を表しているのだろうか。というのも人の死は、「鬼籍に入る」というように鬼が司っているからだ。「はな・おに」に限らず、様々なところに鬼は潜み、筆を片手にこちらをうかがっているのかもしれない。

 S先生、ありがとうございます。いつまでも小説をお書きください。ここに愛読者がおります。
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雑感 | 23:06:40 | Trackback(0) | Comments(0)
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