■プロフィール

石田明生

Author:石田明生
ホームページの方もよろしくお願いします。
文学雑感、旅行記、翻訳などを載せています。

■4travel

スキピオの旅行記(写真付き)もごらんください。

■最近の記事
■カテゴリー
■最近のコメント
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■リンク
■アクセス解析

■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
荷風、ジョルジュ・サンド・・・モンソ-公園
 十七区と八区に住む富裕層の人たちの憩いの場、モンソ-公園は、その出自からしてすでに違います。なにしろ、あのオルレアン公(平等公)の庭園として出発したのですから。もっともこの、親戚(ルイ16世)を断頭台に送ったフィリップ・エガリテ(平等公)も権力闘争の果てに自らもギロチンの露となってしまいましたが。
 その革命時の1797年、モンソー公園はひょんなことで歴史的な地点として名を残すことになりました。世界最初のパラシュートがここに着陸したのです。
 えっ?飛行機もヘリコプターも、もちろんエッフェル塔もない時代にどこから降りて来たかですって?
 実は、1783年にモンゴルフィエ兄弟が熱気球を飛ばすことに成功していました。つまり気球から、ということです。

凱旋門.JPG
【モンソ-公園の「ヴァン・ディク(ダイク)大通り」出入り口から凱旋門を望む】
ここは凱旋門のある「エトワ-ル広場」から出る放射線状の道路のひとつ
「アヴニュー・オッシュ」大通りの突き当たりとなります。



 18世紀末、入市税の徴収を確実にしようと57の入市税徴収所が作られました。このロトンド(円堂)はそのひとつです。設計はルドゥーによります。ですから、18世紀にはパリの境界はこのあたりだったのですね。
 現在は公園口を飾るとともにトイレとして活躍しています。
 サン・マルタン運河の北端にあるヴィレットのロトンドも同じ設計士によるものです。

ロトンド.JPG
【公園の出入口のロトンド】


 この公園はシンガー・ソング・ライターのイヴ・デュテイユの初恋の場だったのでしょうか。彼はこんなふうに歌っています(曲名「モンソー公園で」)。

♪♪♪Le Parc Monceau
Premier baiser de mon histoire
Sur un des bancs d'une allee noire
Un peu d'espoir
La peur
La folle envie d'oublier l'heure
Ma main posee contre son coeur...

♪♪♪モンソ-公園
僕という物語の中で初めてのキスシーン
暗い小道のベンチにかけて
かすかな希望
怖れ
時間よ止まれという狂おしい思い
あの娘のハートに手をあてたまま・・・

デュテイユ.JPG
【若い頃のイヴ・デュテイユ】
シャルル・クロ賞をとった頃の写真です。
LPレコードのジャケットから写真を転載しました。

 甘い顔をしていたイヴ・デュテイユ(1949年生)も今はオジサンの年齢、どんなお姿をしているのでしょうか。
 かつてフランスを二分した「ドレフュス事件」で有名なドレフュス大尉の孫甥にあたる彼は、善良そのものを絵に描いたような人柄で、紡ぎ出す歌詞も甘く、穏やか、忌わしい事件の被害者となった先祖を持つにも関わらず、あくまで人間を信じて楽天的です。そのためでしょうか、この心優しい歌手は乞われてセ-ヌ・エ・マルヌ県にある小さな村プレシ-・シュル・マルヌの村長(「さん」をつけたくなる)をしています。
 ちなみに「モンソ-公園で」もいいですが、「子どもを抱いて」は子ども好きの彼、というより子ども好きのフランス人を彷佛とさせるすばらしい曲です。
 彼は何年か前に日本でコンサートをしました。


モ-パッサン像.JPG

【ギ-・ド・モ-パッサン像】

 文豪永井荷風は、明治41年3月、パリに着いた日、なにはともあれモンソ-公園に駆け付けてこのモ-パッサン像を拝しました。彼はモ-パッサン(1850~93)をずっと師と仰いでいたからです。以下は彼の『モーパッサンの石像を拝す』の抜粋です(旧字は出ないものもありました)。

《そもそも私が初てフランス語を學ばうと云ふ心掛を起しましたのは、あゝモ-パッサン先生よ。先生の文章を英語によらず、原文のまゝによみ味ひたいと思つたからであります。一字一句、先生が手づからお書きになつた文字を、わが舌みづからで撥音してみたいと思つたからであります。
 ・・・略・・・
 嗚呼モ-パッサン先生よ。私は今巴里の停車場へつくと、直ちに案内記によつて馬車を走らせ、先生の記念石像の下に身を投げかけているのです。
 緑深いモンソーの公園。こゝは能く先生がお書きになつた通り、今でも昼過には近所の乳母や兒守が芝生のまはりに遊んでいる子供の見張りをして居ります。美しい女達がしづかな薄暗い池のほとりを歩いて居ります。先生の像は、フランスの楽界にゲーテの物語からミニヨンの一曲を作つて名を挙げたアンブロワズ、トーマの石像の隣りして、誰の目にもつき易い芝生の上に立つています。・・・以下略・・・》(世界紀行文學全集I[修道社]より)

 「脂肪の塊」「女の一生」「ベラミ」などの傑作を読めばわかるように、鋭い観察眼に基づき達意の文をものしたモーパッサンは日本の近代小説に深い影響を与えました。

Thomas.JPG

【荷風が言及している作曲家アンブロワーズ・トマの像】
 トマ(1811~96)はオペラとオペラコミックで人気を博しました。特に荷風が言うように『ミニョン』と『ハムレット』が有名です。


ミュッセ.JPG

【アルフレッド・ミュッセの像】

 この公園に女流作家ジョルジュ・サンドに愛された人物が二人います。そのひとりがミュッセ(1810~57)です。
 それならば上の女性はサンドでしょうか。
 人妻だったサンドは愛するミュッセとヴェネチアに道行きをします。でも、そこが恋の終焉の地となってしまうとは・・・
 サンドは我が儘なミュッセに愛想をつかしたばかりか、こともあろうに病気になったミュッセを診た医者と恋に落ちてしまいました。傷心のミュッセ。
 彼は傑作の誉れ高い、戯曲『戯れに恋はすまじ』を書いています。
 映画『年下のひと』はミュッセとサンドの恋物語、ミュッセを(『王は踊る』の)ブノワ・マジメルが、サンドをあの『ショコラ』のジュリエット・ビノシェが演じました。
 こともあろうに、二人はそのまま愛し合い、結婚してしまったそうな・・・


ショパン.JPG
【フレデリック・ショパンの像】

 恋多き女が愛した二人目の芸術家は作曲家のショパン(1810~49)でした。
 サンドは身体の弱いピアニストを思いやり、冬は地中海のマジョルカ島に転地し、夏は彼女の城のあるノアンで過ごしました。しかしその甲斐もなく彼の健康は回復しませんでした。約10年の恋は破局を迎え(1847年)、2年後『ポロネーズ』の作曲家はヴァンド-ム広場の家で息を引き取ります。

サンド.jpg

【ジョルジュ・サンドの肖像】ロマン派生活博物館所蔵
 ミュッセを愛し、ショパンに恋したジョルジュ・サンド(1804~76)は優れた作家で人道主義者でした。
 もちろん、ジョルジュ・サンドという名前はペンネームです。本名は・・・やめておきましょう。本気で書きますと、数行に渡るくらい長いですから(貴族のa名は長い)。
 彼女は18歳で結婚しますがすぐに破綻、当時のカトリック時代に離婚はあり得ませんので、籍はそのままにまず最初の恋人ジュ-ル・サンドーと共著で小説を発表します。筆名は彼の名に由来します。それから男装の麗人として文壇で社交界で活躍します。代表作に『魔の沼』『愛の妖精』があります。
 サンドは革命(1848年の2月革命)以降は田舎に戻り、「ノアンの奥方」として作家活動を続けました。ノアンの城には、ピアノを弾くショパンとかたわらで耳を傾けるサンドを表したロウ人形が展示されています。
スポンサーサイト
パリ散歩 | 16:42:56 | Trackback(0) | Comments(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad