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ゾラを読み、藤村を思う。
 『パスカル博士』(ゾラ作)を読んだ。この小説は、膨大なルーゴン=マカール叢書の最後、まさに掉尾を飾る完結編とも言うべき一巻だ。
 エミール・ゾラは、当時の科学的成果である進化論の影響を受けて、ダーウィンの「環境」と「遺伝」の関係および「自然選択」説に注目をする。これはもちろん生物学の分野のことだが、ゾラはその科学的方法を文学にも当てはまると考える。小説も、一種の実験室というわけだ(『実験小説論』)。
 そこでゾラは、バルザックの『人間喜劇』にも匹敵する壮大な計画を立てる。アデライード・フークというひとりの女性から生まれてきた子供や孫が、親や祖父・祖母の遺伝的形質を受け継ぎ、それがさまざまな環境の中で「自然選択」され、どう発現したか、20巻の長編小説で表そうとしたのだ。時代は、ナポレオン三世が君臨した第二帝政時代(1851年-1870年)から普仏戦争の敗北によって失脚した第三共和制初期までで、産業革命の完成とパリ大改造の時期に重なる。
 両家の始祖にあたるアデライード(1768年生)は、最初庭師のルーゴンと結婚し、男児を得る(小説『ルーゴン家の誕生』)。そのビエール・ルーゴン(1787年生)は5人の子をもうけ、そのうち二人が孫を生む。ちなみに、小説『パスカル博士』の主人公パスカル(1813年生)はピエールの第二子だ。


 アデライードは子供ができた翌年夫ルーゴンを失うも、その翌年に酒飲みの密輸入業者マカールを愛人とする。そこから、男児アントワーヌ・マカール(1789年生)と、女児ユルシュル・マカール(1791年生)が生まれて、マカール家とムーレ家(ユルシュルはムーレと結婚)が誕生する。
 アントワーヌの子供にあの『居酒屋』の女主人公ジェルヴェーズ(1828年生)がいて、その子供が『女優ナナ』のナナ(1852年生)だ。また、小説『パリの胃袋』に登場する豚肉店の女主人リザ(1827年生)はジェルヴェーズの姉にあたる。百貨店経営で大成功するオクターブ・ムーレ(1840年生)は妹ユルシュルの孫だ (小説『ボヌール・デ・ダーム百貨店』)。
 パスカル博士の二歳年下の弟アリスティッド(1815年生)は通称サッカールと言い,大企業家としてパリで活躍する(小説『獲物の分け前』)。サッカールは三人の子をもうけたが、その第二子が小説『パスカル博士』の女主人公クロチルド(1847年生)だ。彼女は4歳の時までパリにいたが、母親の死に目に会い、再婚しようとする父親に疎んぜられ、故郷の田舎に戻されて叔父パスカルの家にあずけられる。パスカルは優秀な成績で医大を卒業した学級肌の高潔な人物だ。その叔父の家で、幼いクロチルドは博士の薫陶を得ながら、賢く、美しく成長する。小説が始まるとき、彼女は少し婚期が過ぎた25歳、帝政が崩壊して2年、1872年のことだ。
 博士はひとつの野心を抱いている。それは、自分の家族の血に流れている遺伝的形質と環境によるその変質を、祖母のアデライードからつぶさに調べ上げようというのだ。そのために、ルーゴン家とマカール家の人たちの生活環境、性格、癖や病気、死因などをメモして膨大な資料を作り上げた。それは、遺伝の研究に大いに寄与するだろう。

《おお、遺伝よ、考えても尽きることのない主題よ! 親と子の類似が完全でも厳密でもないのは思ってもみなかった驚嘆すべきことではないだろうか? 彼はまず自分の一族の家系樹を論理的に演繹して作成し、父と母からの影響の割合を半分ずつにし、世代ごとに分配していった。だが生々しい現実はほとんど毎回理論を否認していた。遺伝とは類似ではなく、境遇や環境に妨げられながらも類似へと向かう奮闘にすぎず、境遇や環境に妨げられているのだった。・・・(略)
 要するにパスカル博士が持っていた信仰はただひとつ、生命への信仰であった。生命こそが唯一の神聖なる表れであった。生命は神であり、大いなる動力であり、宇宙の魂であった。さらに生命の手段は遺伝の他になく、遺伝こそが世界を作っていた。》(ルーゴン=マカール叢書・第20巻pp.37~39 論創社)

 こうして彼は、遺伝の研究から生命の神秘を探り出し、病気治療に役立てようと考えた。病や苦しみ、死さえもない世界を彼は夢見ていたのだ。だから、当然彼は無神論者で、信心深い母親や女中と対立する。それだけではない。虚栄心の強い母親フェリシテは、息子が作り上げた資料の中にルーゴン一族の恥と不名誉が含まれていることに危機感を抱き、それを焼き捨てようとする。そういう状況の中で、姪のクロチルドは両者の間で揺れ動くのだが、ついにパスカルと大闘争の末に、叔父への愛を確信する。いつの間にか、彼女は叔父なくして生きることができないほどに、叔父を愛していたのだ。一方のパスカルも姪への愛はうすうす感じていたが、59歳という高齢ゆえに、それをじっと押し殺していたのだった。
 だから、クロチルドが、叔父の同業者であるラモン医師の結婚申し込みをことわり、ひとたび叔父に愛を打ち明けてしまうと、二人の恋情を妨げるものはなにもない。彼らは堰を切ったかのように愛し合う。静かな田舎暮らしの毎日毎日が愛の時間だった。
 小説は、二人を引き離し、資料を破棄しようとするパスカルの母でありクロチルドの祖母フェリシテの画策と、母と子の対立、叔父・姪の強熱的な恋を軸に展開する。
 この時不思議なのは、母親のみならず女中のマルチーヌ(実は何十年も前から密かに主人のパスカルを慕っている)も、パスカルとクロチルドの恋を近親相姦として一度も非難していないことだ。当時のフランスでは叔父と姪の関係は近親の範囲内ではなかったのだろうか。
 パスカルとクロチルドとの間に愛の結晶として子供ができる。が、病弱なパスカルの命は子に会うことを許さなかった。パスカルは膨大な資料を妊婦のクロチルドに任せて逝ってしまう。悲しみに打ち沈む彼女が一人故人を偲ぶ通夜の晩に、祖母と女中は博士の資料を探し当てて、暖炉の中で燃やして灰にする。こうして、パスカルの母親はルーゴン家の名誉を守り、パスカル博士の貴重な研究成果は灰燼と化して世に残ることはない。
 最終章は、ひとり残されたクロチルドが満ち足りた気持ちで子供に授乳しているシーンと、パスカルの母であり、クロチルドの祖母フェリシテが全財産をなげうって村に寄付した養老院の施行式で栄光に包まれる場面が交差して終わる。

《再び遠くで金管楽器のファンファーレが響き渡った。これはフィナーレであり、祖母のフェリシテが銀の鏝で、ルーゴン家の栄光のために建立される記念碑の礎石を置いた瞬間であるにちがいなかった。・・・(略)・・・そして暖かい静けさの中、仕事部屋の静寂の安らぎの中にあって、クロチルドは子供に微笑みかけていて、子供はずっと乳を飲み続け、小さな腕をまっすぐに宙に伸ばし、生命に呼びかける旗のように掲げていた。》(p.391)

 これも奇妙なことだが、子供に名前が与えられていない。「子供」と書かれているだけだ。彼女はなんという名前をつけるのだろうか。やはり「パスカル」か。

 このような叔父と姪の恋と妊娠・出産の話というと、どうしても思い出してしまうのが島崎藤村の小説『新生』だ。天才ダンテの作品と同名の小説の中で、藤村は自らの姪との恋愛沙汰を告白する。
 姪のこま子が叔父の藤村の家に滞在し、叔父と関係を持つようになったのが1912年のことで、それから子供を産む。藤村がこの恋愛を小説にしたのは、1918年のことだった。
 1893年に書かれたゾラの小説を、自然主義作家を標榜していた藤村が読んでいないことはあり得ない。当時まだ邦訳はなかったが、英語の堪能な藤村は英訳で読んだことだろう。あるいは、3年間もパリに留学していたのだから、原書で読んだかもしれない。
 もしゾラの小説の影響ということで『新生』を考えるならば、藤村が『パスカル博士』を読んだことによって、姪と関係を持ったとは考えられないから、おそらくは、小説化のきっかけを与えた程度かもしれない。その辺はどなたかが研究なさっていることだろう。
 それにしても、ゾラの作品に対する距離と、藤村のそれとは天と地ほどにも違いがあるのにあらためて感慨深く感じる。藤村の小説はまっしぐらに「私小説」に向かっていくが、ゾラの態度はあくまで科学者のように客観的だ。洋の違いと言えばそれまでだが、おそらく日本の作家たちは、

《もしも、十九世紀後半の世界観を特徴づける言葉をいくつかあげるとするならば、実証主義、科学主義、機械論、唯物論、自然主義、不可知論と言った言葉がその有力候補となることはまちがいなかろう。》(p.106『神を殺した男』丹治愛著・講談社選書メチエ)

と、指摘されているような世界観の中で育って来なかったからに違いない。それも致し方ないことだ。彼らは、明治時代の文明開化の中にあって、西洋から押し寄せる津波のような知の奔流を受け止めるだけで精一杯だったのだろう。日本ではついに自然主義そして客観的写実主義(レアリスム)は根付かず、作家自身の体験をこまごまと描く私小説が主流となってしまうのだ。まあ、それはそれで、たとえば太宰など、おもしろいのだが・・・
 日本におけるもっとも自然主義的小説は、やはり『破戒』(1905)に尽きると思うが、私小説化への第一歩は、『破戒』の二年後に出た田山花袋の『蒲団』だと思われるがどうだろう。蒲団の匂いを嗅ぐこの小説は、当時自然主義小説の傑作ともてはやされたようだが、むしろ私小説を「他人に隠したいテーマを作者が露悪的に描く小説」というふうに狭い意味でとらえた場合の私小説にきわめて近い。しかし、露悪的私小説への道筋を決定づけたのは、なんと言っても藤村の『新生』だ。それ以降の作家たちは、せっせとおのれの恥部を文章にし始める。というよりも、そういうことを恥ずかしがらない文人が成功するようになると言ったほうがいいか。徳田秋声しかり、太宰治しかり、檀一雄しかり、谷崎潤一郎しかり、島尾敏雄しかり、あげ出したらきりがない。
 それならばフランスでは? ということになる。どちらにせよ、作家は自分自身の体験を文字化することによって作品を生み出すのだから、この種の露悪的私小説はどこにでも存在すると思う。ただし、日本のように自然主義から派生しているわけではない。
 たとえば、恥もなにもなくさらけ出している作家の代表はなんと言っても大革命時代のサド侯爵だ。サディスムの語源になったことでも有名な彼は、その作品も生涯も、渋沢龍彦のおかげで、日本でもっとも人口に膾炙している作家だ。と書いて思い出した。フランスではないがオーストリーのマゾッホもそういう作家と言える(マゾヒスム)だろう。
 また、藤村と同じ時代のフランスの作家、レイモン・ラディゲも私小説的な作品を残したと言えるだろう。もっとも彼の場合、二十歳で夭折したので、体験的な小説しか残せなかったのかもしれない(『肉体の悪魔』)。そういう意味で、日本のラディゲ的な作家、北条民雄も同様だ (『命の初夜』)。私小説しか残していない。
 ここで私小説論を展開しようというわけではないので、この辺にしておく。がそれにしても、ゾラと藤村、どちらも偉大な作家であることに間違いはないが、この二人の巨匠以降を考えると、フランスと日本の文学史はずいぶんと隔たっていったのだな、と感慨も新たになる。
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文学雑感 | 20:26:26 | Trackback(0) | Comments(0)
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