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死の具象化・・・サン・ドニ聖堂
 バリの北隣にあるサン・ドニの町は文字通りサン・ドニ聖堂のある町。
 三世紀、モンマルトルで打ち首になったバリ初代司教サン・ドニが自らの首を拾い両手で抱えたまま北への道を辿り、ついに倒れた話は、あまりにも有名だ。パリのノ-トル・ダム大聖堂の柱像にその姿を見ることができる。
 その倒れた地点に、ひとりの敬虔な女性が聖者のために墓を作ったのが、サン・ドニ聖堂(バジリカ)の出発となった。そのためだろうか、ここは死者のための聖堂として、とりわけ王家の人たちの墓として爾来歴史を刻むことになる。

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【サン・ドニ聖堂】

 その歴史の中で聖堂は、二度の大激震を経験する。
 一度目は、ロマネスク様式最盛期の十二世紀中葉に革命的な建築様式、ゴチック芸術がここサン・ドニで誕生したことだ。それからこの新様式はまたたく間にシャルトル、パリ、アミアンなど、西ヨーロッパの大都市に広がっていくのだ。
 だから、もちろん大激震と言っても良い意味でだ。ステンドグラスは飛躍的に大量の外光を取り入れ、付属の彫刻はそのリアリズムを先鋭化させ、信者たちに聖書の世界を物語る。


 ルイ16世とマリ-・アントワネットのあいだに生まれた王子は、革命の胴乱の最中、革命的教育を施されるために靴屋のシモンにあずけられた。その後ほどなく身体の弱かった王子は病死した、と言われた。
 その真偽のほどはわからないまま革命が終わり、実は王子は生きていて、ルイ17世は私だ、と言う者が何人も現れた。
 革命中、ひとりの医者が病死した少年の心臓を保管し、後に政府に「これこそルイ17世の心臓だ」と書簡で申し出るも(その書簡を「警察博物館」で見たことがあります)、もちろん証明する手段もなく二百年近くが過ぎた。
 何年か前やっと、件の心臓はDNA鑑定がなされて、間違いなくマリ-・アントワネットの子供のものと判明した。多分それ以来、この心臓はここに安置されていると思われる。
 
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【ルイ17世の心臓】

 結局、即位こそできなかったが、心臓だけはおさまるところにおさまったと言うことだろうか。というのも、このサン・ドニ聖堂は代々の王の墓であるとともに、代々の王の心臓の安置所でもあったからだ。
 そこで、この聖堂を襲った「第二の大激震」について触れなくてはならないだろう。
 そう、お察しの通り、それはフランス大革命だった。王家とカトリックに敵対した民衆は、どこの大聖堂も教会も襲って破壊したが(パリのノートル・ダムも例外ではない)、ここ王家の墓こそ憎しみを一身に引き受けたかのように、最大の被害を被った。
 その時、墓所はもちろん、代々の王の心臓はことごとく破壊し尽くされたと言われる。

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【ルイ16世とマリー・アントワネット】

 ルイ16世は共和制の宣言とともに単なる「ルイ・カペ-」として裁かれ、1793年1月、革命広場(コンコルド広場)で処刑される。マリ-・アントワネットは「寡婦カペ-」として、国家反逆罪等でその年の10月にギロチンの露となる。
 ちなみに、この4人家族の中でただひとり生き残った娘(革命中人質交換としてオ-ストリーに引き渡された)は、後に再び祖国の土を踏むことができた。
 彼女、マリ=テレーズ・シャルロット(1778~1851)はのちのシャルル10世の長男(つまり従兄)と結婚し、アングレ-ム公爵夫人となったが、ついに王妃にはなれなかった。1830年に七月革命が勃発、夫は王太子の位を放棄せざるを得なかったからだ。ここにブルボン家はフランス王家としての歴史を完全に閉じることとなる。王家としては現在でもスペインにおいてブルボン王朝は続いている。
 ルイ16世が「ルイ・カペ-」を名乗ったことからわかるように、ブルボン家は聖王ルイ(9世)の弟の家柄(ブルボン=ヴァンド-ム家)で、カペ-朝を正当に引き継いでいるのは確かだ。

 さて、革命からさらに三百年ばかり時代をさかのぼって、ルネッサンス時代の三つの墓を見たいと思う。革命時代のヴァンダリスム(略奪・破壊)をくぐり抜け、この三つの墓は当時の死についての考え方を現在に伝えているように思われるからだ。

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【ルイ12世とアンヌ・ド・ブルタ-ニュの墓】

 ルイ12世は、王の子ではなく親戚筋のオルレアン家の子どもだったが、先の王ルイ11世の娘ジャンヌ・ド・フランスを娶って王位をうかがっていた。シャルル8世が崩御し(1498年)、王座に昇るとルイは、驚くべきことにジャンヌと離婚訴訟を起す。カトリック全盛の頃、王たりとも離婚は至難の業だった。が、それを強引に押し進めた王は、先の王シャルル8世の寡婦アンヌ・ド・ブルタ-ニュと結婚をする(1499年)。シャルルが死んでわずか一年後のことだった。
 この離婚訴訟裁判をフランス人以上に見事に描いてみせたのが小説『王妃の離婚』(佐藤賢一著)だ(僕の大絶賛の小説です)。
 そして二人のあいだから次の墓のヒロイン、クロード・ド・フランスが生まれる。

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【ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの横臥像】
(サン・ドニのガイドブックから転載)

 この横臥像を含むルイ12世夫妻の墓は、国王フランソワ1世が作らせた。死が夫妻を捕らえた苦悶の瞬間を大理石に恒久化している。もちろん二人は同時に亡くなったわけではない。墓はそれぞれの死を一体化し、たとえ王であろうと死の恐怖と醜悪さを体験しなければならないと、物語っている。これを見るものは涙するであろう。哀れんで祈ってくれるであろう。現世の死は華美や優雅と無縁でなくてはならない。
 フランソワはルイ12世夫妻が少しでも天国に近付けるように祈りを込めてこれを作らせたのだ。
 
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【フランソワ1世とクロ-ド・ド・フランスの墓】

 王女クロ-ドと結婚した、シャルル・ド・ヴァロワの息子、フランソワは二十歳にして義父の崩御とともに王となる。これがルネッサンスの父といわれたフランソワ1世だ。レオナルド・ダ・ヴィンチを父と仰ぎ、フランスに招じ入れ、フランスを政治的にも文化的にも一等国にしようという野望に燃えていた。

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【フランソワ1世の横臥像】
(サン・ドニのガイドブックから転載)

 国王アンリ2世は両親の横臥像を1548年にフィリベ-ル・ド・ロルムに依頼する。
 ルイ12世夫妻の苦悶の表情とは異なり、フランソワ1世夫妻の死の表情はあくまでも穏やかだ。ただ、老いて痩せさらばえ、王の威厳もなにもなくなった老夫婦の姿がそこにあるだけ。
 

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【王妃クロード・ド・フランスの横臥像】(サン・ドニのガイドブックから転載)

 いや、これは老いさらばえた姿ではない。驚くべきことだがクロード・ド・フランスは25歳で他界しているのだ。いかに昔とはいえ、この肉体は25歳のものではない。王は彼女の死から23年後に亡くなっている。だから、王とともに横になる像として、彼女も死から23年たった想像の姿で大理石に刻まれたのではないだろうか。そうだとすればこの横臥像は王妃の空想の48歳ということになる。
 王妃は死してなお王とともに歩む、ということなのだろうか。

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【クロード・ド・フランスの祈りの姿】

 25歳で亡くなった王妃の本来の姿はこうだったのではないだろうか。
 
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【フランソワ1世の「心臓壷」】

 上にも書いたが、本来ならこのような心臓入れの壷が堂内に数多くあったに違いない。残念ながら、これがあるのも奇跡としか言い様がない。たぶん中には心臓はないだろう。

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【アンリ2世とカトリ-ヌ・ド・メディシスの墓】

 フランソワ王の王子アンリはメディチ家から嫁を娶る。
 フランス王家に嫁いだカトリ-ヌにとっては試練の連続ではなかったろうか。頼りの王には愛人ディア-ヌ・ド・ボワチエがいて、まさに宮廷に君臨していたし、かつて王妃にはいなかった銀行家の娘という出自・・・
 それでも王は義務だけは果たさねばならないから、彼女は子どもには恵まれる。
 ところがその子供達が・・・王となっても、だれも子をなすことなく次々と他界して行った。まず長男のフランソワはフランソワ2世として王となるも一年後には死去。ちなみに未亡人となったスコットランドのメアリー・ステュアートは失意のうちに国に帰り、イングランド女王エリザベスとの権力闘争の果てに処刑される。
 さて、フランソワのあと次男のシャルルがシャルル9世として君臨するが、宗教戦争まっただ中の難局に当たるにはあまりにも性格虚弱、ついに「聖バルテルミーの大虐殺」を引き起こしてしまう。伝説によれば血の汗を流して絶命する(このあたりはぜひ映画『王妃マルゴ』を見て下さい)。
 次に王となったのは彼女が最も期待した三男のアンリだった。新教と旧教のバランスの上で国を治めようとするが失敗し、暗殺されてしまう。
 こうして、ヴァロワ家は王妃カトリ-ヌで幕を閉じた。王座に昇ったのは、彼女が最も憎んだジャンヌ・ダルブレの息子、ブルボンの御曹子アンリだった。

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【アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの横臥像】(サン・ドニのガイドブックから転載)

 ここに横たわるカトリ-ヌの姿は今までのものと一変する。彼女の左手はどう見てもウェヌスの恥じらいのポーズとしか言い様がない。しかもふたりともそうだが、哀れみなど求めようのない、現世的なふくよかさを保っている。早くいえば艶かしいのだ。
 実はこの横臥像は夫のアンリが亡くなった翌日に、王妃が製作を決めたそうだ。アンリは事故死(騎馬試合のとき、相手のモンゴメリ-伯の槍の先が目に刺さって重傷をおい、名医アンブロワーズ・パレの手当ても空しく、息を引取った。)とはいえ死ぬまで確か一ヶ月以上の時が流れたはずだ。その間カトリ-ヌは決心していたに違いない。
 このアンリ王は生前身も心もディア-ヌ・ド・ポワチエのものだったから、カトリーヌのあの有名な台詞「王の死体は王妃のものである」を思いあわせると、夫とともに早々大理石の横臥像になりたかったのだろう。

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【アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの墓】
寒くはないのだろうか、夫妻のむき出しの足が妙に生々しい。

 ちなみに、カトリーヌは老い、痩せさらばえた横臥像も作らせている。これは現在ル-ヴル美術館にあるが、その姿はいかに年をとったとはいえ、カトリーヌにしてはあまりに痩せ過ぎている(骨と皮だけ)。おそらく、王や王妃の死を具象化する横臥像は、富や贅を彷佛とさせる豊満体ではなく、貧や廉を思わせる痩体にしなければならなかったのではないだろうか。その点、いかにカトリ-ヌの生前のものとはいえ、サン・ドニの夫妻の横臥像は逸脱したものだ。ここにカトリーヌの人間臭さを見るのは勝手だろう。

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【フィリップ4世(美貌王)の埋葬図】[サン・ドニのガイドブックから転載]

 国王フィリップは、強大な権力を背景にローマ法王をフランス系にし、アヴィニョンに教皇庁を移す(いわゆる「アヴィニョン補囚」1309年)。また、当時莫大な財産があったといわれる「テンプル騎士団」を異端の廉で(つまり魔女ならぬ魔男の罪で)告発させ、異端審問の末、団長以下なん十人も火刑に処してこれを滅ぼす。
 そんな王も、死後の眠りに必要なのはこんな小さな穴ひとつで充分なのだ。

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【南側ファサードのタンパン】

 王家の墓所を見て歩き、外に出てふと振り返るとタンパンの彫刻が何ごとか語りかける。
 フランス人は僕たち日本人よりも余程死を身近に感じているに違いない。そう、ここサン・ドニ聖堂では「死」を目に見える形に具象化しているのだ。

・・・合掌・・・
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パリ散歩 | 16:04:34 | Trackback(0) | Comments(0)
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