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石田明生

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フロベール『感情教育』のすごさ
 もっか、フロベールの『感情教育』を読み直している。以前(いつ頃だったろうか、少なくとも四半世紀以上は経っている)、の読書は読書とは言えない代物だったと言わざるを得ない。ゾラの作品でもそうだが、以前(青春期)に読んだとき、なにもわかっていなかった。フランスもパリも、歴史のことも、なにもわからずに読んでいた。
 なにもわからずに読むメリットも多分あるだろう。たとえば、パリのことをほとんど知らないで、パリが舞台の小説を読むこと、それ自体今の僕とは違う「なにか」を感得する筈だ。絶対に今とは違う。なにも知らずに読む青春の読書とはそういうものだ。だから、若い頃の読書に意味がある。年を取ってからでは、あの無鉄砲な読解は絶対にできないのだ。
 そして今、何度もパリに行き、パリの地理に多少とも知悉して読むこの青春の墓碑は、恐ろしいまでに人と社会の厳しいレアリテを突きつけてくる。フロベールはよくもまあ、詳細に渡って、主人公を筆頭に駄目な男や女、政治や社会を淡々と描き続けたものだ。


 これはやはり社会の縮図だろうか。人物描写に美化を排除したならば、人の営みや人の青春、社会や政治はこれほどの偽善とエゴイスムに満ち満ちているのだろうか。とはいえ、ここに登場する人物の中で多分悪人はひとりもいないだろう。そう、悪い人などいやしないのだ。みな等し並み、社会の中で世間という仮面をかぶって、泣いたり、かばい合ったり、励まし合ったり、けなし合ったり、愛し合ったり、憎み合ったりしている。
 この本の読者はどんな善人であっても、心の内奥に押さえつけていた自分自身の悪意や意地の悪さ、嫉妬心やねたみを発見して、思わずひやりとしないだろうか。大方の人は、聖人でも英雄でもないし悪魔や極悪人でもない、他人がえらく見えたり、失敗を人のせいにしたり、要するにつまらない単なる凡人にすぎないのだ。
 この小説の主人公、フレデリック・モローもその母親も、田舎の名家の出かもしれないが、このようにチッボケな人間だ。
 そういう俗物の群像の中で、ひとりその汚辱からまぬがれていると思われるのは、フレデリックが恋するアルヌー夫人だけだ。だからといって彼女が天使のような人だとは思われない。彼女が俗物性からまぬがれているのは、ただひとえに、彼女の肖像は常にフレデリックに作られているからだ。彼女はほとんど常に、恋する男から見られ、描写される。彼女自身の独白や彼女の内部描写がほとんどない。早く言えば、彼女がひとりで何を考え、召使いにどんな仕打ちをしているかわからないのだ。
 一方のフレデリックは、純真な若者に見えるが、なかなかどうして、出世のためなら女も金も利用しようとするし、驚くべきは、亭主のアルヌーに殺意までも抱くのだ。二月革命の折り、国民軍に入隊したアルヌーが、銃を抱えて居眠りをしている。それをじっとフレデリックが見ている。

 アルヌーは両手をひろげて眠っていた。彼の銃が台尻を下にして少し斜めに置かれていたので銃口がちょうど彼の脇の下のところに当たっている。フレデリックはそれを見て、ぞっとした。
《いや、なあに・・・そんなことはない。大丈夫なんだ。だが・・・もし、この男がひょっとして死んだら・・・》と思うと、たちまち一連の絵図が果てしなく眼前にくりひろげられるのだった。彼はあのひとと二人で、夜、駅馬車に乗っている。(略)その幸福を実現するには、ただもうあの引き金が動きさえすればいいのだ!(略)
 フレデリックは脚本家のように、こんな考えをつづけた。ふと、この考えが実行にうつるのもそんなにありえぬことではない、自分がわざと進んでやりそうだ、それを望んでいるのだ、そう思うと、怖くてたまらなくなった。(pp.305-6 フロベール全集3『感情教育』筑摩書房 生島僚一訳)

 もちろん、彼は恋の障害物である亭主になにもしない。悪人ではないのだ。バルザックの『ゴリオ爺さん』に登場するヴォートランなら、何の躊躇もしないだろう。ラスティニャックならどうだろう。できるような気がする。が、フレデリックはどうしようもないほど英雄にほど遠い、プチ・ブル的な存在なのだ。
 アルヌー夫人を馬鹿にした貴族のシジーとの決闘のときもそうだ。彼の介添人が貴族を憎んでいるために妥協しないのを内心恨めしく思っている。だがこのときは、相手の貴族のボンボンのほうがより俗物ぶりを見せている。『赤と黒』のジュリアンは決闘の際いささかのためらいもなく臆病風に吹かれることもない。フロベールの登場人物は、ロマン派時代の英雄たちとは、完全に一線を画しているのだ。「崇高さ」の欠如、と言ってもいい。
 だが、この俗物たちのパレードがおもしろいのだから、フロベールの文学的な才能にはうならざるを得ない。思えば、彼の傑作『ボヴァリー夫人』もそうだった。ヒロインを含め登場人物たちはみな崇高さとは縁がない俗物だった。
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雑感 | 00:02:28 | Trackback(0) | Comments(0)
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