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スカイツリーと「上げ底」文化
 一昨日は金環日食、昨日はスカイツリーと、朝のニュース番組はひどくにぎわっていた。金環日食については写真と一言をここに載せたが、あの「世界一の電波塔」については今まで口をつぐんできた。できたら、なにも言わずに済ませようかとも思っていたが、さすがに最近の過熱報道と昨日今日のばか騒ぎを見ると、へそ曲がりのスキピオとしては黙っていられなくなった。悲しい性と思ってください。
 一昨日の毎日新聞夕刊の特集ワイドにやっとまともと思われる記事が載っていた。それは、この春ローマから4年ぶりに帰国したという記者(藤原章生氏)が書いている。初めてそのスカイツリーを目にした時、「なんだあの見苦しいものは?」というのが第一印象だったそうだ。まずは小見出しから引用しよう。

《その話を周辺すると、「えっ」「何言ってんの」という反応をされた。60歳代の同僚記者には「そんなこと言ったら『非国民』って言われるぞ」と半ば冗談、半ば本気で諭された》(5/21 2012)


 みのもんたの朝ズバでも、他の局でも、何人かのコメンテーターを配して、あたかも新たな信仰対象ができたかのように、スカイツリーのプラス面を百曼荼羅並べて、ありがたがっている。おどろくのは、そこに批判的な意見、とまではいかなくともしらけた意見が皆無なことだ。もちろん、スカイツリー周辺の路上で行われる道行く人たちへのインタビューでもそうだ。みごとに「ありがたがりや」ばかりの反応なのだ。たぶん、僕がインタビューをうけて意地悪くしらけたことを言ったら、取り上げてもらえないだろうな。たしかに「非国民」という反応もあるまじき勢いだ。
 かのエッフェル塔ですら、賛否両論、好悪印象、侃々諤々だったというのに、この現代において、しかも「先進国」と思われる国で、一色に染まってしまうとは(一色に染められてしまうとは)・・・メディアが発達しているほうが、かえって染められやすいのだろうか。
 しかし、一昨日の夕刊に一ページだけとはいえ、批判的な意見が出てきたのは、評価に値する。他の新聞にもあるのだろうか。
 藤原氏の視点は、たぶんヨーロッパのそれを引きずってきたものだろう。そういう視点からすると、苦し紛れの「世界一」など笑止千万なのは理解できるところだ。聞くところによると、高さを634メートルにしたのは、最近完成した中国のタワーを上回るためだったらしい。そういう後進国的な見栄っ張りなど、きっとヨーロッパにはないだろう。第一に「電波塔としては世界一」という表現もひどくせこい。やはりそこには、成熟していない国家の精神性が垣間見える。藤原氏からするとこっけいにうつっただろう。そこで、彼は記事を書く際に、《大多数の声に惑わされず社会を見てきたこの人なら意見が合うだろう》と作家の曾野綾子氏を引き込んだ。小生としては曾野綾子という作家を別に好きではないけれど、彼女が広い視点を有していることを認めざるを得ない。
 というわけで、二人でいろいろと反スカイツリー論を展開している。まずは、電波塔として、あの高さのものが必要であったかどうかということだが、記者の藤原氏の調査によると、東武側としては問題にしていないらしい。スカイツリーの基本理念は、①活力のある街作り ②時空を超えたランドスケープ ③防災面での安心と安全ということで、電波については触れていないそうだ。つまり、「あれがなくてはテレビが見えない」ということはなさそうだ。
 それにしても、①についてはわかるが、他の二つの理念は理解しがたいものだ。ランドスケープとは景色・風景のことだから、時空を超えた景色とは、江戸情緒のある街並みと未来都市との「ミスマッチな風景」と言うことだろうか。ツリー社の人みずから「シュールな風景」と認めているらしい。この場合の「シュール」とは「不釣り合い」という意味にほかならない。つまり、その不釣り合いがおもしろいというわけだ。三番目の「防災と安全」に至るや、これこそ何がなんだかわからない。塔があると町の安心・安全度が増すというのだろうか。これは小学生が考えてもわかることだ。単に危険度が増しただけだ。
 これらの話をうけて、曾野綾子氏は、「高所には興味ない」と言う。高所からの視点は皇帝・殿様の視点だからだそうだ。それよりも彼女は浅草の仲見世通りのようなところを好むと主張するが、もちろん僕も同感だ。何千円もかけて、乱雑なビルだらけの町を上から見るなんて、ばかばかしいにもほどがある。
 曽野氏はさらにスカイツリー話から飛躍して、日本人がよく陥る愚劣さについて言及する。彼女は言う。「一番ばかな発言は、『こういうものがある町を誇りに思う』という言い方。テレビで地元の教師が言っていました。出身地から誰が出ているとか、そんなこと何も関係ないですよ」おっしゃるとおり、発言する個人の問題とはまったく関係ないことを自慢する人が多いのはたしかだ。が、この話はスカイツリーとは直接関係ないが、このツリーができたために「愚劣さ」が目に見える形で現れたということは言えるかもしれない。
 ニュース番組に話を戻すと、「朝ズバ」のみのもんたはスカイツリーを賞賛するために次のように言っていた。「フランスのエッフェル塔と東京タワー、どっちがいいかと言われると、僕は日本人だから、もちろん東京タワーと答えます。しかし、相手の人に鉄骨の太さが違いますよ、と指摘されました。たしかに。だが、今度のスカイツリー、この鉄骨の美しさをみてください」(だいたいの記憶に頼って書いています。少々のずれにはご容赦を)
 彼の《僕は日本人だから、もちろん東京タワーと答えます》というような偏狭な愛国主義はとてもいやだ。美の価値判断に「日本人だから」という基準を設けてなされる、こういう偏愛は、まさに後進国的な意地の発露でしかないのではないか。先進国入りして(サミット会議に参加して)もう30年以上、日本もそろそろ国際的になったらどうだろうか。おそらくみのもんたも「日本の国際化」を叫んでいるかもしれない。もしそうなら、彼は間違っている。
 電車の車内放送を英語で流すことが国際化と思ったら、大間違いだ。国際化とは、価値基準を日本国内におかないということだ。常に価値判断を世界中の国との比較においてすることだ。たとえば、京都の金閣寺が美しいのは(あるいは美しいと思うのは)、日本人だからそう判断するのではない。世界中のあらゆる(というのはオーバーかもしれないが)基準と照らし合わせても、「美しい」と評価されるから美しいのだ。「日本人だから」東京タワーを美しいと判断することと本質的に異なる。
 ところで、この度のスカイツリー問題で僕が主張したいのは、今まで書いてきたことではない。僕が言いたいのは、日本の恥部のような「上げ底」問題だ。実はずっと前から考えていたことだ。たとえば、東京タワーについて言えば、「高さが333メートルでついにエッフェル塔を抜きました」と、子供の頃が懐かしい文句があった。当時はまさに後進国的発想の中からしか、他国との比較ができなかった時代だから仕方ないが、この高さ333メートルは、子供心に後進国的誇りを抱かせたものだった。しかし、時は過ぎて大人になり、エッフェル塔に昇って驚いた。なんとエッフェル塔ではほとんどてっぺんまで昇れるのだ。それに対して、東京タワーは高さ333メートルを標榜しながらも、僕たちが昇れるのは半分とは言わないが250メートルほどでしかないのだ。エッフェル塔より高いと謳い、展望台まで有料のエレベーターで誘いながら、実際にはエッフェル塔の展望台よりもはるかに低いところで満足していたのだ(満足させられていたのだ)。
 スカイツリーもそうだ。世界一の電波塔、634メートルと誇らしげに謳いながら、実際の展望台の高さは450メートルしかない。180メートルも違う。しかし、昇った子供は、634メートルの塔に昇ったと記憶するに違いない。僕が子供の時、東京タワーに昇ったときのように。そこに「上げ底」のマジックがあるのだ。
 そしてこの「上げ底」は塔に限らず、日本中に蔓延している。スーパーに行けば、パックの底はたいてい浮き上がり、内容物が多く見えるように工夫して、目の錯覚を誘っている。ウニの瓶詰めを見てみよう。なんと巧みに作られていることか。上げ底ではないが、牡蠣のパックの面に本物そっくりな牡蠣の絵が描かれていた。たくさんあるように見えるのは当然だ。また、ウィンナーソーセージの袋は、空気で膨らませてボリューム感をもたせようとしている。
 塔からパックまで、庶民の錯覚を狙っている。ちなみに、「電波塔で世界一」のスカイツリーにときどき「電波塔で」という修飾語が抜けて、「世界一のスカイツリー」という表現がまかり通り始めている。これが実にせこい。これも錯覚狙いか。
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雑感 | 11:16:14 | Trackback(0) | Comments(0)
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