■プロフィール

石田明生

Author:石田明生
ホームページの方もよろしくお願いします。
文学雑感、旅行記、翻訳などを載せています。

■4travel

スキピオの旅行記(写真付き)もごらんください。

■最近の記事
■カテゴリー
■最近のコメント
■月別アーカイブ

■最近のトラックバック
■リンク
■アクセス解析

■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
ユダヤとフリーメーソンについて
 今、ある小説について論文めいたものを書いているが、枚数制限を大幅にオーヴァ-してしまった。そこで、泣く泣くカットということにあいなったわけだが、部屋の中のがらくた同様、これがなかなか捨てられない。思い切りの悪さは、どうも生来のものらしい。
というわけで、ここで紹介させていただきます。

・・・反ユダヤ・フリーメーソンについて・・・


 昨年の夏、パリに滞在した折、ある日本人とマドレーヌ教会近くのビストロに入って、ワイングラスを片手に四方山話に花を咲かせたことがある。その人はパリで日本人相手の観光旅行の手配をしていた。酔いがまわったからだろうか、彼は愚痴ともぼやきともつかぬ調子で、フランスの観光業界がどれほどユダヤ人に独占されているか話し始め、さらに、ファッション、芸能、あらゆる業界に及ぶ「ユダヤ禍」(日本語で話していたにもかかわらず、彼は声をひそめた)について語ってくれた。そういえば、どこかで「ユダヤの世界制覇説」というのを聞いたことがあるなと、酔いに任せながら、耳を傾けた。


 日本に帰って来て、大型書店をひやかしていると、あるある。確かに「ユダヤ陰謀説」やら「世界制覇説」「義経=ジンギスカン説」のような「日本人・ユダヤ人同祖論」など、荒唐無稽と思える内容の本がずらりとならんでいる(この手の本を業界では《トンデモ本》と呼んでいるらしい)。身近にユダヤ人のいない日本人がどうしてこれほど、このような「ユダヤもの」に関心を持っているのだろうか。あるいは、こう言ってもいいかも知れない。関心を持たされているのだろうか。
 そこでこの問題に真っ向から取り組んでいる松浦氏の『ユダヤ陰謀説の正体』という新書を手にとってみた。するとわかってきたのはこんなことだ。一九二四年に『シオン長老の議定書(プロトコル)』の翻訳が出版されたのを皮切りに、三十年代に入り、ファシズムの高揚とともに、ユダヤの世界制覇などが少年向けの冒険小説のテーマとなって(雑誌「少年倶楽部」等に連載)、ユダヤ人というものを知らない子供達に「ユダヤ陰謀説」は蔓延し(p.75)、反ユダヤ主義(反フリーメーソンも同時に)はほとんど正体不明のまま戦前の日本で猖獗を極めたらしい(p.77)。
 戦前におけるこの「反ユダヤ主義 antisemitisme」の火付け役は陸軍中将四王天延孝(しおうてんのぶたか)という人物だった。彼は第一次世界大戦直後フランスとドイツにおいて調査・研究し、帰国後ユダヤ人とフリーメーソンの世界平和への脅威を唱えるようになった。この人物の頭の中では、すでに既定の事実としてユダヤ・イコール・フリーメーソンという等式が成り立っていたようだ(ここにもうひとつ、=ボルシェビキも加わることもある)。
 ところが、モーツァルトやワシントンがフリーメーソンだったことはよく知られているが、それでは彼らはユダヤ人だったのか。あるいはユダヤ人の片棒をかついでユダヤのメシア思想を実践しようとしていたのか。お望みなら、日本人のフリーメーソン、西周や鳩山一郎の名を挙げてみようか。
 もちろん、四王天を信じる者たちは、モーツァルトらも意識的にしろ無意識的にしろ、陰謀に荷担していたと言い張るかも知れない。そのために、ユダヤ=フリーメーソンの共同謀議説は検証のしようがなく、困ったことに《トンデモ本》としても、ファシズムとしてもあとをたたないのだ。その根拠と言えばせいぜい先に挙げた『シオン長老の議定書』くらいなものだ(注)。それなら『議定書』以前、つまり第一次大戦前はどうだったのか?


(注)この中に、まさにユダヤとフリーメーソンの陰謀が二十四項目にわたって書かれている。四王天の唯一の客観的物証だが、現在はこれは偽書となっている。

 次に、ユダヤとフリーメーソンの同一視について、最近の拙論から引用します。

『ユダヤとフリーメーソンの同一視』
 フリーメーソンについては、さいわい昨年、片桐三郎氏が『入門 フリーメイスン全史 偏見と真実』を上梓された。あまたフリーメーソン関係の書が日本の書店をにぎわせていても、日本のフリーメーソン・ロッジのグランド・マスター自らが書き起こしたメーソン史は初めてかも知れない。詳しくはそれを読んでいただきたい。
氏は丁寧に中世の石工組合から筆を起こし、十八世紀の《象徴フリーメイスン》の成立まで、資料を駆使して説明しておられる。ここでは一七一七年、イングランドにおけるグランドロッジ成立を記憶すれば十分だろう。実際の石工組合(franc-maconnerie operative)ではない象徴フリーメーソン(franc-maconnerie speculative)すなわち友愛団体フリーメーソンは十八世紀にイギリスで誕生した。
 友愛と団結、互助精神と宗教的寛容を旨とするこの秘密結社的な団体は、開明的な富裕層を中心にまたたくまに広がり、海を越えてオランダ、フランス、果ては新大陸にまで膨張する。
フランスでは一七三八年に、フランス・グランド・ロッジが誕生するが(『フリーメーソン』p.39)、国教会のイギリスと事情が異なり、カトリックはすばやく拒絶反応を示す。その年、ローマ法王クレメンス十二世は、フリーメーソンを異端として、団体と会員に対して破門状を発した(『フリーメイスン全史』p.126)。フランスでは、この時から早くもカトリック対フリーメーソンの戦いが始まったのだ。それもむべなるかな。当時のフリーメーソンは、モンテスキュー、ヴォルテール、エルヴェシウスなど顔ぶれからしてカトリックと旧体制に従順なやからとは思えない。のちに、オルレアン公フィリップ・エガリテ、ラファイエット将軍、ジョゼフ・ボナパルト(ナポレオンの兄、後のスペイン王)などが名を列ねるが、この面々を見るとフランス革命がフリーメーソンの陰謀によるという、いわゆる陰謀説が出るのも無理からぬことだ。
 フランス革命がカトリックとの闘争であり、革命の理念「自由・平等・友愛」がフリーメーソンの標語であることも事実だ(3)。人権宣言も、ラファイエットたちが作成したのだから当然だが極めてフリーメーソン的だ(後出、たとえば「神の目」)。しかしそれをもって革命がフリーメーソンの陰謀と決めつけるのは短絡に過ぎるだろう。逆に啓蒙思想の持ち主がフリーメーソンになったと考えるべきかも知れない(4)。誕生時同じフリーメーソンでも国によってその構成員の思想的な位置は異なるが、どこの国でも共通しているのはそれなりに、今の言葉でいえば、左寄り、中道左派あるいは革新派といった感じだろうか(5)。十九世紀になると、革命を数度経験したフランスではそれが最も顕著になるし、後に見るように先鋭的にもなる。だがその前にユダヤ人とフリーメーソンのかかわりを見ておきたい。

 周知のように、ユダヤ人は十八世紀までは非キリスト教徒として特別な扱いを受け、一般市民とは常に切り離された生活を強いられて来た。啓蒙主義の時代になると、彼らの行動範囲は広がり始める。たとえばフランクフルトのゲットーの古銭商から身を起こし、両替商として成功するロスチャイルドが登場するのもこの十八世紀末だ。
 フランスでは、大革命がユダヤ人に自由をもたらす(6)。そのために、革命はユダヤとメーソンの共謀によるという、いわゆるユダヤ・メーソン共謀説が生まれたが、まともな歴史家はまったくとりあわない。
 たしかに、フリーメーソンはその宗教的寛容から、ユダヤ人の入会も許可した。イギリスのロッジでは十八世紀に早くもユダヤ人入会の記録がある。そうは言っても、どこの国でもユダヤ人のフリーメーソンは少なかったし、あるいは都市のロッジによっては、ユダヤ人受け入れに難色を示したところも数多くある。フランスの場合は、《メーソンは少なくとも「キリスト教信仰の聖なる神秘に通じて」いなければならない。「ただ例外として、旧約聖書への敬意の表現としてのみユダヤ人はごく稀にそれに参加することができる」》(『ユダヤ人とフリーメーソン』p.40)とされた。つまり、ロッジへのユダヤ人受け入れはどちらかというと不承不承といったところか(7)。ところが、ユダヤ人のほうは金銭的な余裕ができると社会との交流を深めるためになんらかの団体に所属したいと考えるようになった。そこで見渡すと、自分たちに寛容なのはメーソン・ロッジぐらいしかないことに気付く。だから、彼らは十八世紀末頃から、各ロッジの扉を叩きつづけることになる。
 十九世紀という時代は、美術的であれ、文学的であれ、はたまた政治・経済的であれ、どんな視点から見ても興味深い。フランスの場合、この世紀を宗教史的に見るならば教権主義 clelicalisme と反教権主義 anticlelicalisme のせめぎ合いの百年だったと言えるだろう。
 たとえば、かなり乱暴かも知れないが、十九世紀は次のように概観できる。
 一八一五年までの革命からナポレオン時代(反教権時代)、十五年からの王政復古時代(教権時代)、三十年の七月革命によるルイ=フィリップ王政(反教権時代)、四十八年の二月革命による第二共和制(教権時代)、五十二年の第二帝政(教権・反教権の混合時代)、七十一年のパリコンミューン(反教権)とその崩壊以降の第三共和制(後で見るように教権主義と反教権主義の戦いの結果現在の反教権主義となる)と、このようにいくたびか教権主義・反教権主義が繰り返され、一九〇四年のヴァチカンとの国交断絶にまで至る。
 またこの時代は十八世紀に起こった産業革命の一つの到達点でもある。つまり、銀行を中心とする産業資本の巨大化とも時代の流れを一にしている。あるいはこう言っていいかも知れない。農業や手工業に就くことを禁じられていたユダヤ人たちが、才能を延ばせる分野において着実に頭角を現わし始めた時代と一致していると。何度かにわたる革命はもちろんユダヤ人が引き起こしたのではないが、そういう時代の変転とともに彼らは、《工業、鉄道等の分野で現代フランスの資本主義経済の出現を手助けして来た》(『ユダヤ人とフリーメーソン』p.334)。その象徴的な存在が、すでに名の出たロスチャイルド(フランス語ではロトシルド)だ。ロシアの文豪ドストエフスキーは小説『未成年』で、語り手に次のように言わせる。

《わたしの理想は、・・・ほかでもない、ロスチャイルドになることである。読者諸君、どうか落ち着いてまじめに聴いていただきたい。》(『未成年』p.81)

 このように、『赤と黒』のジュリアン・ソレルにとってのナポレオンと同様、ロスチャイルドは羨望の対象あるいは偶像となった。『未成年』(一八七五年の発表)の時代設定は、パリ・コミューンのあとだから七十年代も少し過ぎたあたりだろう。フランスで言えば第三共和制の始まった頃で、ロトシルドに限らず、ユダヤの大資本が一般の話題となっても不思議ではない。
 産業革命の進展・成熟とともにユダヤ人たちの活動の場が広がり(ユダヤ人という存在が目立ち始め)、政権交代のたびに反教権主義が強まるという事態は、ある種の人々にとっては看過できない、由々しいことに映った。彼ら、教権主義者や伝統主義者にとって、反教権主義に与っているのはフリーメーソンだった。十九世紀中葉は、ユダヤとフリーメーソンの同一視の時代となった。
 その同一視の歴史を今まで何度も援用している『ユダヤ人とフリーメーソン』を片手に簡単に見ておこう。
 まず、グジュノ・ドゥ・ムソーだ。彼は反ユダヤ主義の書『ユダヤ人、ユダヤ教およびキリスト教徒のユダヤ化』(一八六九年)を出す。この著書は題名通り反ユダヤ主義に重心をおいたもので、中世以来のユダヤに対する非難、《高利貸しに没頭するユダヤ人といったものから吸血鬼という中傷》をまたぞろ繰り返しているが、この中で新しい点は、フリーメーソン思想とユダヤのカバラの教義とを結び付けて、フリーメーソンはユダヤが指導している、そればかりか「世界ユダヤ同盟」とフリーメーソンは同一であると主張したことだ。
 ついで、ユダヤ人とフリーメーソンの結合を書名にした(もちろんテーマにした)本が出現する。『フリーメーソンとユダヤ人、ヨハネ黙示録による教会の第六期』がそれだ。著者はC・C・ド・サン・アンドレとなっているが、これは筆名で、本名はE・H・シャブティという司祭だった。彼はまさに書名で言っているように、十八世紀のフリーメーソンの出現で、世界は教会の第六期に突入し、悪魔による社会秩序への挑戦の時期になったと主張する。悪魔の手先は誰か?ユダヤ人か、フリーメーソンか?
 確かに時代は、第二帝政時代を過ぎて、大金融資本(=オート・バンク)による資本主義の確立と、カトリック教をターゲットとした宗教色の排除(反教権主義=世俗主義 laicisme )の時代に入って行く。

《シャブティの考えでは、世俗主義者による教会の圧迫やユダヤ人の公的および私的な世界制覇の掌握についての彼の結論を裏書する幾つかの出来事が生起した。ローマ教皇はその支配領域を奪われ、フランス共和国では世俗勢力が台頭してきた。もしフリーメーソンとユダヤ人でないとするならば、いったい誰が教会の手から教育を奪い取り、民法上の離婚制定に関心を持ったであろうか。》(『ユダヤ人とフリーメーソン』p.238)

 シャブティは第二帝政の崩壊とパリ・コミューンを切歯扼腕しながら見たことだろう。なにしろ、コミューンは大革命時のジャコバン派同様《教会財産を没収し教会を閉鎖、修道士を人質にした》(『フリーメーソン』P.64)のだから。しかも、《およそ、七十人のコミューン議員のうち十六人がメーソンだった》(8)という事実から、おそらく、敵愾心に燃える神父からすれば、コミューンそのものがフリーメーソンに見えたかも知れない(9)。
 パリ・コミューンがすぐについえさったのは、彼にとって幸いだった。が、次の第三共和制は旧制度の再来を目論んだ彼のような者にとっては、ひどく煮え切らなくて、つかみどころがなく、結局は世俗主義に譲歩してしまう、腰抜けの体制と映ったことだろう(10)。大革命時代ルージェ・ド・リールというひとりのフリーメーソンによって作られた『ラ・マルセイエーズ』という歌が一八七九年に国歌に制定されたのを耳にして、シャブティとその同志たちは何を感じたか。
 彼の書『フリーメーソンとユダヤ人、ヨハネ黙示録による教会の第六期』は、国歌制定の翌年、一八八〇年に出版された。その二年後、さらに広範な読者をつかもうとしたのか、その短縮版を出す。

【注】
(3)グラン・ラルース大百科辞典によると、この標語はフリーメーソンから来たのではなく、逆に「大東社(グラン・トリアン・・・フランスの大ロッジ)」が第二共和制から借りたということだ。
(4)マラー、ロベスピエールはフリーメーソンではないと思われるが、ダントンはそうだったらしい。いずれにせよ、ジャコバン派にも多数いたことが知られている。『フリーメーソン』p.52
(5)フリーメーソンへの入会ということで、あまり深刻にならないほうがいいかも知れない。もちろん大決心をして入会し、熱心に集会に出席し、寄付を出して、団体のために活動することを生きがいとする会員もいただろう。だが、付き合いでスポーツ倶楽部にでも入るように入会し、その後ほとんど縁がなくなった会員も数多くいたのも疑い得ない。たとえばアンリ・ベール(スタンダール)は一八〇六年、二十三歳のときにフリーメーソンに入会したが、それは当時の保護者だったダリュ伯(ベールの親戚で、ナポレオンの側近だった)との付き合いからだった。反カトリックで、自由思想家のベールにとってフリーメーソンは、有力な親戚のすすめがあれば断わるべき理由は何もない団体だったのだろう。ナポレオン失脚後、落魄の身となった彼が食客として色々なサロンで食いつなげたのは存外フーメーソン組織のおかげかも知れない。
(6)革命政府がユダヤ人に市民権を与えたのは、一七九一年九月二十七日だが、南フランスのユダヤ人は一七九十年一月二十八日にすでに市民権を取得していた。
(7)クレメンス十二世の破門宣告に対する弁明書では、異教徒を入会させない旨誓約している。
(8)『フリーメーソン』pp.64~65(『フランス政治史』によると84名の議員。p.209)
(9)しかもコミューンはロトシルドから資金を借りていた(『フランス政治史』P.221)。
(10)この当時の共和派について中木氏は次のように言う。《カトリックと王党派の連合にたいし、共和派議員・ブルジョワジー・小市民層はフリーメーソン Franc-ma腔nnerie [共和主義支持と反教権主義の組織]に加入して対抗していく。この時期にフリーメーソン会員は五万人に達した》『フランス政治史』P.244
スポンサーサイト
文学雑感 | 13:28:30 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
はじめまして。
ユダヤとフリーメーソンの記事、大変勉強になりました。

『ユダヤものに関心を持たされている』
たしかに私もその様に感じます。

実際、私も最近まで陰謀説を鵜呑みにしていました。
(ユダヤが世界の経済を牛耳っている...etc)


そして考えた結果理解できたのは
陰謀説は口にすれば口にするほど思うツボである。とわかってはいるものの謎という名の媚薬は人心(私も含め)をとらえてやまないのだという事でした。

しかしやはり興味が尽きないのは
川の水源はいったいどこなのだろうか?という事です。

石田さんはどの様にお考えですか?














2007-04-26 木 21:29:04 | URL | mj7k [編集]
 mj7kさん、こんばんは。『スキピオの夢』にようこそ。
さて、『ユダヤとフリーメーソン』について読んで下さり、ありがとうございます。確かに、「川の水源は?」という疑問をもたれるのもむべなるかな、と思われます。この僕の記事、「続く」で終わっていました。申し訳ありません。
 そこで、ユダヤとフリーメーソンの「同一視」について、『ユダヤとフリーメーソン』の記事に追加させていただきます。この場でもいいのですが、あまりに長過ぎますので・・・
 ただし、ここに結論だけ書かせていただきます。
 同一視は19世紀中葉あたりからです。
 詳しくは『ユダヤ人とフリーメーソン』(三交社)ヤコブ・カッ著、綾部恒雄・大谷裕文訳をご参照下さい。その点についてかなり丁寧に説明しています。
 では、失礼します。
2007-04-26 木 22:57:26 | URL | スキピオ [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad