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石田明生

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オルレアン日帰り旅行(1)・・・乙女ジャンヌ
 フランス旅行に行く前、ネットでフランス国鉄の料金を調べて、安い切符を見つけると、それで旅程を作るのが常となった。そんなわけで、フランス二日目はまだ行ったことのないオルレアンに行くことにした。片道10ユーロ(約千円)、往復で20ユーロという破格的に安い切符を見つけたからだ。我が家の最寄り駅から戸塚まで1050円ということを考えると、信じられない値段だ。ちなみに、翌日トゥールーズに出かける予定だが、ネットで15ユーロ(約千五百円)だった。これこそとんでもなく安い。パリ・トゥールーズは特急でも6時間ぐらいの距離だからだ。
 パリ・オルレアンは、やはり特急にあたる列車で1時間ほどだ。

オルレアンの少女
オルレアンと言ったら、誰でも思い浮かべるのは
「オルレアンの少女」ことジャンヌ・ダルクだ。
駅からまっすぐメインストリートのレピュブリック通りを歩くと、
突き当たりの広場に彼女の勇姿が見えてくる。
ジャンヌの肖像は伝えられていないので、さまざまなジャンヌ像が造られてきたが、
このジャンヌ像、一番美人だという評判だ。



 オルレアンの駅からまっすぐ「レピュブリック通り」を10分ほど歩くと、マルトロワ広場に出る。その中央にジャンヌの騎馬像がある。「レピュブリック通り」も広場もみな美しい。その中でジャンヌは、凛とした姿をして立つ。

レピュブリック通り
レピュブリック通りからジャンヌ像を見る。
ガラスとメタリックでできたトラムと中世の騎馬像が不思議な調和を醸し出す。

 乙女ジャンヌがオルレアンに入城したのが1429年4月29日、オルレアン解放が5月7日から8日の夜にかけてだった。6月18日、彼女は王太子をうながし、ロッシュからランスへと向かう。結局、「オルレアンの少女」と言われるが、彼女がこの町に滞在したのは2ヶ月にも満たなかった。しかし、このオルレアン解放という歴史を変えた濃密な時間は、現在に至る永遠となったのだ。
 像の近くに寄ると、台座に彼女の生涯の転機となる場面が浮き彫りにされていた。

シノン城での謁見
シノン城で王太子シャルルに謁見する。

 1429年2月23日、ジャンヌは王太子の宮廷のあるシノン城に到着する。しかし、実際に王太子に謁見できたのは二日後であった。宮廷では少々頭のおかしい小娘をまともに扱うのをためらったからだ。しかし、この謁見は有名なエピソードで飾られ、ジャンヌのデビューを神話化する。
 宮廷ではジャンヌが王太子の顔を知らないことを利用して、彼女に罠を仕掛ける。ジャンヌを待ち構える邸臣たちの真ん中に偽の王太子が付き、本物の王太子は居並ぶ邸臣の中にまぎれこむ。小娘は、神の助けがなければ到底この難関を越えることはできないであろう。ところが、娘は大広間をまっすぐに横切り、迷うことなく邸臣の服装をした王太子の前に行き、ひざまずく。浮き彫りはこの瞬間を表している。邸臣たちの驚嘆、驚愕・・・残念ながら、シャルル王太子の頭部が欠けていて表情を見ることはできない。だが、想像することはできる。下手な頭部がくっつけられていないのは幸いというものだ。
 王太子に謁見ができても、ジャンヌはすぐにオルレアン解放に向かうことができない。王太子側の宮廷としては、彼女が王太子を見抜いたとしても、それが神意によるものかどうかまだ疑わしいからだ。もしかすると、悪魔の力によるのかもしれない。そこで彼女をいったんポワティエに移動させ、彼女が正しいキリスト教徒かどうか、高位聖職者たちが総出で尋問し、調べる。結論は、良きキリスト教徒と判断された。しかし、まだ油断ができない。悪魔はときどき良きキリスト教徒を装うことができるからだ。つぎに、王太子妃の母親ヨランド・ダラゴンは女官たちに命じ、ジャンヌが本当に「乙女」であるかどうか身体検査までしたのだ。結果は、彼女が間違いなく「処女」であり、悪魔に犯されたことがないことが証明される。
 こうしてジャンヌは軍とともにオルレアンに向かうが、2ヶ月以上が経過する。オルレアン解放後、シャルル王太子をせかせてランスに行き、かねてジャンヌが予言した通り大聖堂で戴冠式を行う。ジャンヌはシノンの城で王太子に「オルレアン解放」「シャルル七世の戴冠式」「パリ解放」「オルレアン公の解放」を予言していたのだ。
 しかし、ジャンヌの力は、ランスまでで尽きていたのだろうか。パリはいくら攻めても落城しなかった。それどころか彼女は手傷を負う始末だ。そして、ついに1930年5月23日、パリの北方に位置するコンピエーニュでブールゴーニュ軍によって捕らえられる。その瞬間の場面が次の浮き彫りだ。敵方により、馬から引きずり降ろされるジャンヌ、臨場感あふれる迫力はまるで現場に立ち会っているようだ。

コンピエーニュの戦い

 捕虜となったジャンヌは、身柄をブールゴーニュ派からイギリス人に引き渡され、ルーアンで裁判を待つ身となる。その様子を表しているのが次の浮き彫りだ。1431年2月21日から5月23日まで続く裁判は、ボーベー司教が主催する異端審問、すなわち宗教裁判であった。イギリス側はどうあっても彼女を魔女として断罪したかったのだ。

牢獄

 ジャンヌ・ダルクものの映画では、たぶん最高峰に位置するであろう映画『ジャンヌ・ダルク裁判』(ロベール・ブレッソン監督)を見ると、裁判所での彼女の受け答えもさることながら、獄に繋がれた乙女の苦しみもよくわかる。この浮き彫りはまるで映画のようだ。いや、浮き彫りのほうが古いだろうから、ブレッソン監督がこの浮き彫りを見たのだろうか。

火刑上

1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは魔女として断罪され、ルーアンのヴィユー・マルシェ広場で火刑となる。ジャンヌ19歳であった。
 それから約四半世紀後、ジャンヌの母親の訴え通り、ローマ法王庁はジャンヌの復権裁判にとりかかり、翌年1456年7月7日、ジャンヌの処刑裁判の破棄が正式に決定した。
 1920年、時のローマ法王、ベネディクトス5世により、ジャンヌ・ダルクは列聖され、聖女ジャンヌ・ダルクとなった。

ジャンヌ・ダルク騎馬像
このジャンヌの騎馬像に親しみが持てるのは、
他のと違って、剣を上に突き立てていないせいかもしれない。
ジャンヌは、人を傷つけるのを恐れて、いつも旗持ちをしていたという。
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2012年フランス旅行 | 17:32:11 | Trackback(0) | Comments(0)
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