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オルレアン日帰り旅行(2)
 オルレアン滞在が二ヶ月に満たなかったとはいえ、ここはやはり乙女ジャンヌの町だ。ジャンヌ像のある「マルトロワ広場」から古い街並を抜けて、目抜き通りの、その名もジャンヌ・ダルク通りに出ると、道路の突き当たりに大聖堂が見える。「サント=クロワ・ドルレアン大聖堂」だ。

サント=クロワ・ドルレアン大聖堂

 通りの美しさに誘われて、旅人はまっすぐ大聖堂を目指す。



 この大通りは、トラムが行き交うだけの静かな通りで、人通りもまばらだ。路面には緑の植え込み、建物には緑の柱飾りがあって、炎天下の通りにうるおいをあたえている。日陰を歩けば、心地よい。地面には、この町のシンボルだろうか、旗を持ったジャンヌの騎馬姿が描かれた真鍮の金具がはめ込まれている。

金属
町の名前の変遷、古代ローマ以前(Cenabum)、古代ローマ時代(Aurelianis)、現代の名が書かれている。
「オルレアン」はaurelienが変化したらしい。


 大聖堂はまさにオルレアンの顔だ。真ん中にどっしりと構えている。対になった塔は、ゴチックには見えないので、時代は下がって、ルネッサンス様式だろうか。ファサードに近付くと、入り口のところに大きな鐘があった。そこに彫られた浮き彫りは、やはりジャンヌ・ダルクだ。

鐘            ジャンヌ浮き彫り

 堂内に足を踏み入れても、ジャンヌ・ダルク。美しい光を投げかけるステンドグラスも、そこに描かれているのは乙女の生涯だ。

火刑台のジャンヌ
火刑台のジャンヌ・ダルク

 波乱に富んだ乙女の生涯は、知る者の心を動かさずにはおかない。その中でも、裁判の末に火刑台で19歳の命が焼かれてしまう乙女の最後は、イエスの受難にも匹敵するような感動を与える。魔女として処刑された乙女は、聖女としてみごとに復活し、オルレアンの人たちのみならず、さまざまな環境の人たち、さまざまな国の人たちの心に入り込んでいる。何年か前にルーアンで見た、火刑場の跡地も、そこに立った教会も、ここオルレアンと重ねあわせるとまた感慨もひとしおだ。この間には、2年にも満たない乙女の戦いの軌跡があるのだ。ランスの大聖堂も思い出す。彼女の絶頂の時だ。
 聖堂内には、彼女の同士たちの紋章を記した旗が飾られていた。ジャンヌの伝記や物語を読むと必ず登場する英雄たちだ。

バタール            ライール
バタール(私生児)・ドルレアンとラ・イールの紋章

 ジャンヌの同僚として、まずあげるべきは、当時オルレアン側の総大将とも言うべき、オルレアン公の庶子であったジャン・ド・デユノワ、通称バタール(私生児)であろう。異母兄である、オルレアン家の総帥シャルルはイギリス側の捕虜となっていたから、彼は、シャルル王太子の側近中の側近と言うべきかもしれない。
 ラ・イールことエチエンヌ・ド・ヴィニョールは、傭兵上がりの乱暴者だったようだが、ジャンヌへの思いは強かったようだ。ルーアンに彼女を奪還しようと進軍するも失敗、逆にイギリス軍の捕虜となる。

ジャンヌの兄たち
ジャンヌの兄たち

 ジャンとピエールは、ジャンヌ・ダルクの隣にあって、妹と共に戦った。仄聞によると、彼らは爵位を与えられたらしい。

ジルドレ
ジル・ド・レ

 並みいる英雄たちの旗印の中に、ジル・ド・レの紋章を見たときには驚いた。もちろん彼も勇猛果敢なジャンヌの同僚には違いなかっただろうが、聖女ジャンヌとは正反対の「悪魔ジル」の異名を持つ、身の毛もよだつような男だったからだ。どんな犯罪者であろうと、オルレアンにとっては英雄に違いないと言うことか。この部分は、日本で理解しにくいのではないだろうか。
 そして、これがおもしろい。ジャンヌと別れたあと、城にもどったレ元帥は、歪んだ少年愛のために、何人の少年を殺しただろうか。一説によると、150から1500とも言われている。最後は、告発され、絞首刑になり、遺体は焼かれたらしい。「青ひげ」のモデルとも言われる。
 
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2012年フランス旅行 | 05:32:29 | Trackback(0) | Comments(0)
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