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石田明生

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蚤の市で見つけた108年前の古新聞
 昨年の夏、パリは北に位置するクリニャンク-ルの蚤の市を冷やかして歩いた。この蚤の市はすごい。とにかく巨大だ。巨大な一種のラビリントスと言ってもオーバーではないかも知れない。
 だから、区分けされているのだが、それでも、結局は行き当たりばったりとなる。もっとも蚤の市はそれでいいのだろう。モノとの思い掛けない出合い、それこそ蚤の市の醍醐味だ。

マラシス区.JPG

「マラシス区」

例えばこんなふうになっている。たぶん区ごとにそれなりの特徴があるのだろうが、素人の僕にはとうてい覚えきれるものではない。

ビロン区.JPG
「ビロン区」入口

 そこで、地上階だけの「ビロン区」に入った。ヴァカンスシ-ズンなので休みが多いが、びっしりと小さい店が軒を列ねる狭い路を見て歩いていたら・・・


 古い雑誌や新聞がところ狭しと展示された店がふと目に止まる。
ビニールで保護された、ニュース版画の鮮やかなタブロイド判の新聞が路にはり出した棚に無造作に積んである。「5部20ユーロ、1部5ユーロ」
 手に取ってみると、それは約百年前の『プチ・ジュルナル Le Petit Journal』だった(注)。まず、不思議な気がし、次に疑念が駆け巡る。「本物だろうか?」
(注) 《創刊したのはナント生まれのユダヤ系資本家モイーズ・ミヨー,創刊号は1863年2月1日に出ている。判型が縦41センチ、横30センチと他の新聞の半分の大きさで(「プチ』とは小さいという意味)、一部5サンチーム(=1スー)で売り出された大衆紙である。当時の新聞は一般に一部1サンチームしたから、『プチ・ジュルナル』はその三分の一の価格だったわけで、そのことだけでもすでに衝撃的な事件だった。この価格は1914年まで据えおかれる。参考までに付言すれば,当時の労働者の平均的な時給は20サンチーム,パン1キロ(労働者が一日に消費する量)の値段はおよそ40サンチームであった》(『三面記事の栄光と悲惨』ルイ・シュヴァリエ著、小倉孝誠・岑村傑訳、白水社 p.198)

 僕がそこからしばらく動けなくなったのは、お察しの通りだ。連れ合いはあきれかえって、別の店を覗いている。
 結局5部選ぶことができなくて、とりあえず1部だけ買った。興味深い版画が第一ページをかざっていた。

petit journal.jpg
『Le Petit Journal』1898年7月17日(日)と書かれている。


 これはたぶん、日曜日だけ出る版画付き増補版、というところか。タイトルの下に「8ページ、5サンチーム」の文字。
 さて、問題の写真、いや版画だが、立派な紳士が、カフェの前の路上で打々発止の切り合いをしているように、ステッキで渡り合っている。いったいこの二人は誰だろう・・・
 絵の下に「エステラジー・ピカ-ル事件」と書いてある。
 1898年の7月???、思わず膝を叩く、あのエミール・ゾラが《我弾劾す!》を書いた年、つまり「ドレフュス事件」まっただ中に起こった、小競り合い事件だ。しかも、登場人物がいい。
 エステラジーとは、あの「真犯人かも知れない」エステラジ-少佐、かたやピカ-ル、それこそあのピカール中佐だ。彼こそ軍の中心にいながらも、正義のために、敢えて軍首脳の「手落ち」を告発した人物だ。そのために、アフリカの方に左遷させられ、次に裁判の結果退役に処せられたのだ。たぶんこの時、彼は軍籍にないはずだ。

 新聞をめくると、7ページ目の片隅にコメントがあった。この記事が「傑作」だ。ちょっと訳してみよう。

《エステラジー×ピカ-ル事件》
 みんなが予期していたことが起こった。エステラジ-少佐が、以前ピカール元中佐に厳かにも約束していたお仕置きを、元中佐に実行したのだ。
 少佐は、ひとりの若い龍騎兵の友人とヴィクトール・ユゴー通りを散歩していた。とその時、ピカ-ル氏が見るからに少佐を避けようとしているのに気付いた。少佐の方は彼にそのひまを与えることなく、杖でもって彼から埃をみんなはらってやった、とは、そこに居合せた信頼できる人の証言だ。

 長くなるのでこの辺にしておくが、これによると、立派なエステラジー少佐が、ならず者のピカ-ルを懲らしめのために打擲した、ということになってしまう。まさに驚くべきことだ。この Petit journal の記者は、後にエステラジーこそならず者(スパイ容疑者)で、ピカールが正義の士だと知った時、どんな顔をしたのだろうか。それどころか、彼は陸軍大臣にまでなっている。
 ピカールは陸軍大学を主席で卒業し、あらゆる点で将来を嘱望されていた、軍人中の軍人だった。彼が情報局勤務となり、たまたま、筆跡から真犯人エステラジー、ドレフュス無罪に気付いたために、アフリカに左遷させられ、常に危険な職務を与えられてしまう。これでは死んで真実が闇に葬られると懸念した彼は、友人の弁護士に相談したのだ。そんなことから、真実が明るみに出て、裁判となり、あろうことか反対に彼は偽証罪で、告発され、軍職を逐われたのだ。
 このとき、「我弾劾す」のゾラは有罪判決を受けて、亡命中だった。つまり、ドレフュス派にとって最悪の状況だったのだ。
 ちなみに、これから約一月半後、ピカ-ルを追い落とし、エステラジーを助けようと、文書偽造をしたアンリ中佐の行為が露見して、彼は留置所送りとなった。とその晩、中佐は自殺をしてしまう。
 さあ、大変だ。こうして、ゾラ、ピカール、ドレフュスたちにことが有利に展開することになる。
 ちなみにエステラジーは亡命、隠遁。
 以上、簡単にドレフュス事件の話をした。というわけで、この新聞を見つけた時の感動をお察しあれ!
 この新聞は第一面が「エステラジー×ピカール事件」だったが、裏表紙に当たる八ページ目にはコルシカ島で起こった、警察と山賊の打ち合いの様子が描かれている。

山賊.jpg


 というわけで蚤の市はおもしろい。
 ド-フィ-ヌ地区内の写真、ご覧下さい。

ドーフィーヌ.JPG

館内の噴水
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パリ散歩 | 10:46:49 | Trackback(0) | Comments(0)
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