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石田明生

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アルベール・カミュ 不条理の世界
 明日は,文学の講義でアルベール・カミュをする予定だ。そのために,ここ一週間の間、カミュ漬けになっている。特に,読み直しているのは『シジフォスの神話』(最近は『シーシュポスの神話』と訳されているらしい)だ。翻訳書は新潮文庫の昭和40年の18刷、矢内原伊作訳のものだ。僕が18、9歳の時買い求めて読んだ懐かしい本だ。乱暴に扱うとぼろぼろになってしまうのではないかと思えるほど、天や地は茶色に近い黄土色になっている。ちなみに,定価は100円。
 しかし,一番感慨深いのは書物の様態ではない。中身のことだ。


 次のような箇所を引用し,説明しようとしているが,この部分は,もちろん有名な所なので当然だが,19歳の僕も、一人前に棒線を引いている。

《突然舞台装置は崩れ去る。起床、電車、事務所或は工場での四時間、食事、電車、労働の四時間、食事、睡眠、そして同じリズムで繰返される月火水木金土、この道を人は生涯の大部分安易に辿ってゆく。ただ或る日「何故」が身をもたげ、そしてこの驚きの色に染められた倦怠の中で一切が始まる。「始まる」、これが大切なことだ。倦怠は機械的な生活の諸行為の果てにある、だが同時にこれは意識の運動に始まりを与えるものである。それは意識の運動をよびさまし、その運動に次の運動を起こす。次の運動、それは今まで縛られていた鎖の環への無意識的な環帰か、或は決定的な覚醒かである。覚醒の果てにはやがて結末が生ずる。即ち、自殺か或は再生かという結末が。倦怠にはもともと嘔吐を催させるような何かが内在している。ここでは、しかし、倦怠とはよいものだ、と私は結論しなければならない・・・不条理の発生》(p.24 漢字は現代漢字にしている。以下同様)

《彼は時間の中に場所を占める。彼はこれから辿ってゆかなければならない曲線を認め、自分がその曲線の或る一瞬の点に立っていることを認める。彼は時間に所属しているのだ。そして彼は恐怖に襲われて、時間こそ自分の最大の仇敵だと気付くのである。明日、彼は明日を冀(こいねが)う、たとい明日彼の存在そのものが否定されてしまうかもしれないとしても。肉体の行うこの反抗、これが不条理だ》(p.25)

《もっと深い段階でわれわれはまた断絶につきあたる。即ち、世界は「厚い」と気がつき、どれほどまでに一つの石はわれわれと断絶して居り、われわれにとって説明不可能なものであるか、そしてまたどんな厳しさで自然が、一つの風景がわれわれを否定するかを瞥見するに至るのだ。あらゆる美の奥底には何かある非人間的なものが横たわっているのである。・・・(略)・・・一瞬、もはやわれわれは世界を理解しなくなる。なぜなら幾世紀もの間われわれが世界に於いて理解してきたものは、恐らくは予めわれわれが世界に付与しておいた形態や構図だけだったのであり、この時以後はこの人為を営む力がわれわれからなくなってしまうからである。世界は再び世界自身へと戻るが故に、われわれの理解の埒外に出てしまう。・・・(略)・・・即ち、世界のこの厚みとこの断絶、これが不条理だということである。
 人間もまた非人間的なものを分泌する。或る明晰な時に、人間の動作の機械的な姿、意味を剥奪された人間の無言劇が、彼等をとりまく一切のものを麻痺させる。硝子の仕切り窓の向うに一人の人間が電話で話をしている。その人間が何を言っているかはわからない、その身振りは見える、そしてその身振りの意味はわからない。このときそれを見ている人に、何のためにあの人間は生きているのだという疑問が浮かんでくる。人間自身のもつ非人間性を前にした時のこの不快感、われわれ自身の存在の姿を前にしてのこの計り知れない落下、われわれの時代の一作家(注-ジャン=ポール・サルトル)が名付けたこの「嘔吐」、これもまた不条理である》(pp.25-26)

 このわけがわからない文章を必死に理解しようと、読んでいた頃が懐かしい。とは言っても,馬齢を重ねてきた現在の僕にやすやすと理解できるというわけではない。難解なことは同じだ。
 問題なのは,学生当時は年長者の経験豊かな作家の文章を読んでいるという印象だったのだが、今は,28歳の若者が書いた文章を相手にしているということだ。28歳と言うと息子より年下だ。とするならば、僕は、引用のはじめにある「いっさいが始まる倦怠」はいつ体験し,いつ乗りこえたのか。いや,実際乗りこえたのだろうか。いずれにしても、60歳を過ぎた老年の身に、これらの文はどんな意味を持つのだろうか。公園のベンチの下に生えた木の根っこに吐き気を催した、小説『嘔吐』のロカンタンの体験を、僕は本当にしたのだろうか。
 やはり、カミュもサルトルも青春の作家だったのだろうか。若者にしかわからない,何か符合のようなものを持っていたのだろうか(なぜなら,当時わかったような気がしていたではないか。不条理感を抱いたではないか)。もしも,これを二十歳前後のときに読んでいなかったとしたら,今初めて読むとしたら,どんな感情を持ったのだろうか。
 だが、読んでおもしろいのは相変わらずだ。
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雑感 | 19:25:33 | Trackback(0) | Comments(0)
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