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石田明生

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幼なじみの訃報
 今日はひどいショックを受けた。先ほど、幼なじみの訃報を知ったからだ。母方の実家の次男坊で、僕とは従姉妹の子供という関係だ。母は兄弟がたくさんいた上に、末っ子だったので実家の叔父とは親子ほども歳が離れていたらしい。そのために、僕とその幼なじみは、同い年なのだが、一世代またがっているような感じになってしまった。
 その茂夫ちゃんとは、物心ついたとき(たぶんつく前)からいつも一緒だった。互いの家も歩いてほんの2・3分の距離で、茂夫ちゃんの家は北側にあったので、「裏ん家(ち)」と呼んでいた。きっと「裏ん家」では、僕の家を「前の家(ち)」と呼んでいたに違いない。
 茂夫ちゃんが自転車を買ってもらえば、僕も買ってもらった。茂夫ちゃんが自転車の補助車をはずせば、僕もはずした。チャンバラごっこをしたり、コマ回しをしたり、ビー玉をしたり、なにをするのにも僕は茂夫ちゃんの後をついていた。そう、茂夫ちゃんは何ヶ月か生まれが早かったせいか、何となく兄貴分だったのだ。きっと、歩いたり、言葉を覚えたり、おむつがとれたりという赤ん坊特有の発育上の分岐点も、僕よりも早かったのだろう。だから、遊びのすべてにおいて、茂夫ちゃんに遅れをとったが、そのことにちっとも疑問を持たなかった。


 小学校に上がってからも、いつも一緒に学校に通った。それどころか、小学の低学年時には、茂夫ちゃんに先に帰られたときなど、僕はべそをかいたものだ。その頃までは、まだ茂夫ちゃんが兄貴分だったのだ。小学も中学年、高学年となるに連れて、おなじクラスではなくなったこともあり、僕もようやく独り立ちできるようになった。それまで、どれほど僕は茂夫ちゃんに依存していたことか。
 とはいっても、中学生になってからも仲好しは続いた。一緒に家庭教師に勉強を教わり、中学2・3年は同じクラスだったこともあり、いつも一緒だった。さすがに、その頃になると僕の依存症は完全になくなってはいたが・・・
 別の高校に進学したために、高校生の頃から、少しずつ疎遠になってはいったが、それでも近所だったし、たまに出会ってはよく話をしたものだ。
 成人式の日、当時あらゆる権威に対して反旗を翻していた僕は式に欠席するつもりで、どこかに遊びに行こうと準備をしていたら、茂夫ちゃんが式に一緒に行こうと迎えに来てくれた。へそ曲がりの僕と違ってなんの屈託もなく、ニコニコしている友に悪態をつくこともできず、結局成人式に出席してしまった。アルベール・カミュの反抗的人間も、幼なじみにはめっぽう弱かったのだ。
 茂夫ちゃんは、金融関係に就職したので、転勤、転勤の生活に入り、それからはほとんど会わなくなって長い年月が経ち、年賀状だけの付き合いになってしまった。その賀状には、いつも一家団欒を思わせる、イラストが描かれていた。きっと幸せだったのだろうな。
 茂夫ちゃんとまた会い出したのは、10年ほど前からだ。さすがの転勤族も、埼玉の川口に永住の地を見いだしたらしい。中学のクラス会も、出席するようになったし、声をかければ飲み会にも来てくれた。子供たちは皆「片付いて」気楽な退職生活に入ったと言っていた。
 それが、今日突然の訃報だ。僕は茂夫ちゃんの実家にすぐ電話をかけた。彼のお兄さんが、茂夫ちゃんは4年ほど前から肺がんを患っていたと教えてくれた。そういえば、忙しさにかまけているうちに、茂夫ちゃんと会わなくなって、4年ほど経っていることに気付いた。賀状のやり取りがあったので、あまり気にしていなかったのだ(今、年賀状を見たら、「ご無沙汰しています」と一言あった)。
 茂夫ちゃんのお兄さんが、彼の遺品整理をしていたら、新聞の切り抜きが出て来たことを教えてくれた。それは、僕たちが写真つきで載った新聞の切り抜きだ。
 「同級生のN君のお母さんが病気で臥せっていたので、君たちがNさんちの田んぼの稲刈りを手伝ったんだね。それで善行少年というので新聞に載ったんだね」電話の向こうでお兄さんが話している。
 それを聞いてもう少しで涙がこぼれそうになった。あれは中学2年の時だったろうか。同級生のN君のお母さんは長患いをしていた。そのために田んぼの稲を刈る人手が足りないという噂を聞き、茂夫ちゃんに相談したら、即決で話が決まった。「じゃあ、手伝おう」素人の下手な稲刈りのことだ。どれほど役に立ったか 知れやしない。が、N君のお父さんはいたく感動したらしく、そのことを学校に報告し、中学の校長はどこかに報告したのだろう。だんだん話が大きくなって、 ある日、学校につくと、僕たちはカメラマンに写真を撮られ、インタビュウされ、新聞に載った。それどころか、市役所で市長から表彰までされてしまった。たいしたことしなかったので、ひどくばつが悪かったが、お調子者の僕たちは一時的な英雄になった。
 こんなこと、忘れかけていたことだ。茂夫ちゃんは覚えていたのだろうか。少なくとも、後にも先にも、僕が写真つきで新聞に載ったのはそれ一度きりだ(何とも平凡な生涯を送っていることか)。

 そう、思いがけず英雄になったりして、あれは楽しかったね、茂夫ちゃん。
 小学校の6年のとき、僕たちは、N先生に連れられて鼻曲り山という変な名前の山に登ったのを覚えているかい。あの時宿泊した温泉、電気は水車で発電していて、すごい秘境だったね。なんという名前だったかなと思い、今地図で確認したよ。霧積温泉だった。小学生の僕たちにはわからなかったけど、けっこう有名な温泉だったんだね。そして、鼻曲り山は1654mあるんだ。あれが初めての山登りだった。
 小学校時代の最高の遊びは、魚捕りだったね。夏休みになると、二人で、篩 (ふるい)を持って、僕たちの家の下手にある小川に行った。帰ってくると決まって親に叱られたものだ。なにしろ、半ズボンやシャツは泥だらけだったからね。あれは親泣かせだっただろうね。そうそう、一度だけ、たまたま大物をとったことを覚えているかい。その日、いつものように小川をせき止めて、掻い堀りをしたんだ。水が少なくなってくると、ビックリするような背びれが見えた。いやあ、あのときは興奮したな。二人で、篩を使って挟み撃ちして捕ったっけ。 30センチ近くもある大物だった。問題はそのあとだ。二人は仲好しだったから・・・そういえば一度も喧嘩をしたことがなかったね・・・そのたった一匹の大物を二人でどう分けてよいか、どう処分したらよいかわからなかった。ずいぶんと悩んだよ。じゃんけんは論外だった。負けたどちらかがあまりに寂しすぎる。半分にするなんて、とてもできない。そこでどうしたか、覚えているかい。一日ずつ、交代で飼うことにしたんだ。どちらがじゃんけんで勝って先に持って帰ったのか。ところでこの交代飼い、どうなったか覚えているかい。どっちの家だったか忘れてしまったが、結局猫に盗られてしまったんだ。猫を飼っていたから、僕ん家だったかな・・・
 そういえば、さっき言ったけど、僕たち一度も喧嘩したことなかったね。少なくとも、君の怒った顔を一度も見たことがないよ。僕と二人だけの時以外もだよ。きっと僕は君に腹立たしいことをなんどもしたことがあったろうに、一度も怒らなかったね。君が誰かと取っ組み合いの喧嘩をしているのも見たことがない。君はほんとうに温厚なひとだったね。お子さんや奥様にもそうだったんだろうね。
 魚捕りの話を書いたら、次々と二人でした遊びを思い出した。でももうこのくらいにしておこう。きりがないから。
 茂夫ちゃん、かけがいのない幼年期、思春期をありがとう。君は気付いたかどうか知らないが、僕はいつも君を目標にしていた。君のように駆け足が早くなりたい、野球がうまくなりたい、勉強ができるようになりたいなどなど・・・でも君はいつもおっとりとしていて、そんなことを気にせず、マイペースだったね。
 きっと君のお子さんたちは、立派な社会人になっておられることでしょう。
 ご冥福をお祈りします。
 合掌
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雑感 | 15:31:39 | Trackback(0) | Comments(0)
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