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石田明生

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美しい村オルナン、クールベの生まれた村
 1819年、クールベはこのオルナンの村で生まれた。現在は美術館になっている、彼の家はクールベ家が村の有力者だったことをうかがわせる。ルー川のほとりに建つその家は、せせらぎとなって流れる川面にその影を落とし、まさに絵のようだ。

Courbet美術館
左手の赤い三角の屋根がある建物が、クールベの家であり、クールベ美術館だ。

 本当にオルナンの村は美しい。美術館には、彼が少年時代に描いた風景画がたくさん展示されていた。彼にとって、村やそのまわりの自然は、格好の画題だったのだろう。

Loue川沿いの景色
逆方向を写真に撮ると、このようになる。この景色は、きっとクールベの少年時代とあまり変わっていないだろう。




 事実、下の写真のように、村の建物や川、郊外の山々の岸壁に至るまで、多感で、絵画に天才的な才能を発揮した少年の心をとらえて離さなかった違いない。残念ながら、展示されていた少年時の絵をここに紹介できない。美術館は特別展を開催していたので、展示室の主要部分は撮影禁止になっていたのだ。

歩道橋             Grand Pont
歩道橋もGrand Pontも花で飾られて、とてもきれいだ。

Loue川沿いの風景        オルナンの村
川の中をじっと見ていると、20センチほどの鱒と思われる魚がたくさん泳いでいた。右は村のメインストリート。


 少年クールベは、日本で言う高校生くらいになると、付近の大都会ブザンソンに出て絵の勉強をする。もちろん長ずるにつれ,地方の都会で満足するわけがなく、21歳のとき念願のパリ入城を果たす。パリはカルチェ・ラタンに下宿して、「スイス・アカデミー」という画家のアトリエに通ったり、ルーヴル美術館で模写をして絵画を勉強する。シテ島のオルフェーヴル河岸とパレ大通りの角にあった(シテ島の南側)「スイス・アカデミー」は、貧しい画家たちが絵を描く環境を求めて集まる、絵の道場のようなところだった(と思われる)。シャルル・スイスという名前のジュネーヴ人が経営していた。彼はもともと、あのナポレオン時代の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドの生徒であり、モデルであった。だから,絵を描くことの難しさ、絵を描くことの貧しさを熟知していたのだろう、彼はそのアトリエを、未来の画家たちに安く貸していた。「スイス親父」と呼ばれて親しまれていたらしい。 そこに通った画家は、クールベの他に、コロー,セザンヌ、マネ、モネ、シスレー、ルノワール、カミーユ・ピサロなどなど、多士済々だった。絵画史の中では、地味な存在かもしれないが、果たした役割は大きかったのは確かだ。若い画家の卵たちが、貧しい青春の一時期に、シテ島の岸辺で互いの画論をぶつけ合い、ののしり合い、あるいは抱き合ったり、慰め合ったり、そんな様子が目に浮かぶようだ。それは、エミール・ゾラの小説『制作』に出て来る光景だ。南仏はエクス・アン・プロヴァンスの出身だったゾラは(生まれはパリだが育ちはここだ)、同級生のセザンヌとともに大望を抱いてこのパリにやってきた。だから彼は、小説の中でセザンヌはもちろん、パリで親友になったマネたちをモデルに画家たちの苦しみ喜び、希望と絶望を描くことができた。ちなみに,小説の始め、主人公の家は、クールベと同様、アトリエ「スイス・アカデミー」の近く、カルチェ・ラタンに設定されている。
 さてさて、オルナンからだいぶ話がずれてしまった。それにしても、クールベのレアリスムはいつ頃育まれたのだろう。小説『制作』に登場する画家や画家の卵たちは、すべて架空の名前になっているが、彼ら卵たちより約20歳ほど年上のクールベは彼らの尊敬する、あるいは罵倒の対象ではない画家として実名で出てくる。その時はすでに、クールベはレアリストの巨匠となっている。1850年制作の『オルナンの埋葬』は、すでに世に出ていたのだろう。
 クールベは、1845年頃から50年頃にかけて、レアリスムの思想家シャンフルーリと親しく付き合っていた。作家シャンフルーリは、詩人のボードレールやレアリスム作家フロベールとも親しかったから、クールベが筋金入りのレアリストになり、ボードレールの知己を得たのもその頃だろう(『ボードレールの肖像』1848年)。

画家のアトリエ
『画家のアトリエ』1855年(wikiより転載)一番右端にいるのが詩人のボードレール。
この絵は、画家の右側に、画家が親しみを感じている人たち、
左側に、画家の嫌いな人たちが描かれている。
左側に、あのナポレオン3世に似た男がいる。
クーデターで皇帝になった男を彼が嫌っていたのは確かだ。


 「羽の生えた人間なんて見たことがない。だからそんなものは描かない」と、彼は言っていたそうな。ギリシャ神話の登場人物(神々)や聖書の天使たちがまだまだ描かれていた頃、彼のレアリスムは徹底していた。時代は、まだレアリスムを理解するほど進んではいなかったのだ。だから、『オルナンの埋葬』(1850年)という大作は、世間の冷たい目にさらされた。

オルナンの埋葬        オルナンの墓地
『オルナンの埋葬』(wikiより転載)の絵とオルナンの墓地
訪れたとき、空は雲ひとつない晴天だった。


 1850年のサロンで物議をかもした『オルナンの埋葬』は村の人たちひとりひとりモデルになってもらって描き上げたらしい。フランスのwikiに「オルナンの埋葬」の項があり、それによると、前二列27人の人物が特定されている。たとえば、墓穴のすぐ右手にいる青いゲートルをまいている男の隣の老婦人は、クールベの母親で、その右手の3人の女性は姉妹で、右端の女の子は従姉妹らしい。
 これもwikiによる指摘だが、例の青いゲートルの男の服装は約50年も前の衣装を着ているとのこと、つまり第一共和制時代の革命家の服装をしているのだ。この男は、墓穴をはさんで司祭と対峙している。画家はそう描くことにより、宗教と反宗教(共和制)を面と向わせて、対立構造を示しているのだそうだ。後にパリ・コミューンの闘士となるクールベは、この絵を描いていた頃、すでに社会主義者のプルードンと親しい関係を持っていたし、彼自身きわめて人道主義者であり、共和主義者であった。たしかに、wikiの指摘する通り、彼が単純に単なる埋葬シーンを描いたとは思えない。素朴な村人たちは、この絵の完成を見たとき、もしも絵を読み解いたならば不快な思いをしたかもしれない。おそらく司祭など知識階級の人たちは、絵の意味を見抜いたことだろう。
 美術館に、彼のデスマスクと手があった。パリ・コミューンの闘士は、ヴァンドームのナポレオン像を倒したかどで六ヶ月の禁固刑と罰金を命ぜられ、果てはスイスに亡命までして、不遇な晩年を送ったらしい。

Courbet デスマスク

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2013年フランス旅行 | 17:35:39 | Trackback(0) | Comments(0)
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