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昭和天皇実録の発表
 昨日、新聞に「昭和天皇実録」公開のニュースが一面を飾った(毎日新聞朝刊)。毎日新聞では、そのトップに天皇の靖国参拝中止に関する経緯が取り上げられている。早くいえば、中止の理由はA級戦犯合祀によることが裏付けられたということだ。
 僕が関心を持ったのは、そして以前から関心があったのは、どうしてもっと早く終戦(無条件降伏)を決断できなかったのか、ということで、そのときの昭和天皇の言動に着目した。紙面の15ページにその辺りのことが掲載されていた。
 それを読んだとき、ショックとともに怒りがこみ上げてきた。

 まず戦争終結が遅れたのは、軍部のこともあるだろうが、天皇が「一撃講和」にこだわったからとある。つまり、戦争責任問題は天皇自らにも直結するので、一度米軍に打撃を与えて、多少は有利な条件で降伏したいということだ(«  »内は引用箇所)。
 «45年2月、早期終戦を進言した近衛文麿元首相に対し、天皇は「今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難」と述べた» もしもこのとき、近衛首相の進言を聞き入れて、それこそまさに「聖断」をしていれば、3月の東京大空襲はなかっただろう。(注)近衛文磨はこの年の12月、A級戦犯に指定され服毒自殺した。粛軍とは、幹部を入れ替える軍の粛正。
 «4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。2日に戦況報告に来た梅津美治郎参謀総長には「兵力不足ならば逆上陸を敢行しては如何」と問うた» 天皇は沖縄に再度上陸作戦をしたらと言っている。悲惨きわまりない沖縄戦を思うと、この箇所を読む沖縄の人たちはなんと思うか、やりきれない。



 «4月6日に戦艦大和が沖縄に向けて出撃し、翌日沈没した。「一撃」には本土決戦しか残らなくなった。4月30日、ドイツのヒトラー総統が自殺。同日に東郷茂徳外相がドイツ崩壊と日本も戦争続行不可能と報告すると、天皇は「早期終戦を希望する旨の御言葉」に初めて言及» ここで天皇は戦争の早期終結を決心しているが、ご存知のように軍部の反対にあって、もっとも悲惨な原爆投下とソ連参戦まで待たなければ終戦に至らなかった。だが、ここで驚き、かつ憤りがわき上がったのは、昭和天皇が本土決戦を嫌がり、早期終戦を希望した理由だ。日本国民は、こんな指導者のために、全てを犠牲にし、なお戦後も崇めていたのかと思うと愕然としてしまう。
 «(天皇は)なぜ「早期終戦」に転じたのか。「昭和天皇独白録」によると天皇は、本土決戦になれば伊勢神宮(三重県)、熱田神宮(愛知県)にもある三種の神器を失う懸念があり「これでは国体護持は難しいと思った」などと漏らしている» つまり、天皇が本土決戦を避けた理由は、国民のためでも何でもなく、天皇制の象徴である三種の神器の散逸を恐れてのことだったということになる。東京大空襲や沖縄戦や、ついには広島、長崎への原爆投下という、庶民の塗炭の苦しみを彼はどう見ていたのだろうか。あるいはどう見ないようにしていたのだろうか。そんなとき、彼が一番に大切に思っていたのは、天皇制の維持だったのだ。可能なら自身の天皇位への執着だったのかもしれない。
 «天皇の守るべき最低ラインがなんだったかをうかがわせるこれらの発言は、実録に記載がない» 今回の実録にこの微妙な発言は記載されていないということは、宮内庁は昭和天皇にとって不利になると見なして載せなかったのであろう。
 そういう意味で、宮内庁はこの実録にどれほどの事実を載せなかったのか。偽りを記載したとはいわないが、どれほど意図して事実を隠したのか。古来この種の天皇記はつねにそうだったのだろう。歴史科学ではないのだから、しかたがないことかもしれないが、歴史家は可能な限り、記載されなかった部分をも鋭く読み解かなければならない。
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雑感 | 16:15:10 | Trackback(0) | Comments(0)
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