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パリの風景・・・エッフェル塔とサクレ=クール聖堂
 パリという町を外側から全体的に見渡すと何が際立って見えるでしょうか。
 たぶん、たいていの人は、エッフェル塔かサクレ=クール聖堂と答えるに違いありません。
 モンマルトルの丘に登り、サクレ=クール聖堂の前に腰を下ろしてアコーディオンの音色に耳を傾けながらパリを一望しますと、セーヌ河畔にすっくと立つ《鉄の貴婦人》エッフェル塔がいやが応でも目に入ります。
 逆に、エッフェル塔に登り、パリを見下ろしますと、遥かモンマルトルの丘にどっしりと腰を落ち着けたビザンチン風の白亜の建物、サクレ=クール聖堂と対面します。

エッフェル.JPG

サクレ・クール.JPG

エッフェル塔とサクレ=クール聖堂、パリっ子たちにとってこの
二つは親和力を秘めているのか、それとも対立項なのだろうか?



 このパリの人気スポット、「サクレ・クール聖堂」と「エッフェル塔」が王党派対共和派、カトリック(=教権派)対フリーメーソン(=反教権派)という、19世紀末の対立軸を鮮明に表現していると言ったら驚かれるでしょうか。

 時は1870年にさかのぼります。その年の7月、プロシャの鉄血宰相ビスマルクの挑発にまんまと乗せられた帝政フランスは、プロシャに戦線布告しました。ナポレオン3世自ら病身を押して、前線に向かいましたが、結果は周知のように準備万端整えててぐすねひいていたプロシャ軍により、皇帝自身が捕虜となってフランス軍は総崩れ、2ヶ月ほどで、勝負はついてしまいました。
 パリはたちまちプロシャの大軍に包囲されてしまいました。ところが、民衆を中心に、敗北を認めません。というより、「アルザス・ロレーヌ割譲」という屈辱的な講和を決して認めようとはしません。こうしてパリは帝政を廃止して国防政府を打ち立ててましたが、実際は民衆の気持ちとは裏腹に政府の中心、ブルジョワたちは全滅の憂き目にあうのはよしとしません。
 老獪なティエール(ブルジョワ政府の代表)はパリの民衆たちの徹底抗戦の合い言葉をしりめに、密かに政府機関をボルドーに、次にヴェルサイユに移してしまいます。パリの民衆たちは・・・なんとロマンチックな人たちだったのでしょう・・・自分達の勝利を信じて、独自にコミューン政府を作り、国民衛兵を募り、守備につかせました。
 こうして、1871年の3月18日になりました。この日、ヴェルサイユ政府側はルコント将軍を遣わし、夜明け前隠密裏にモンマルトルに置かれていた百門以上の大砲を奪いにやってきました。
 ところがその行為を早起きのおかみさんたちが不信に思い、「なにをしてるの!」と大騒ぎになり、結局政府軍側の将兵たちは捕虜となってしまいます。政府側に裏切られた感のあるパリの民衆は、この姑息な政府側のやり口に、怒りはおさまらず、ついに逆上した一部のものたちが、民衆に発砲命令を出したルコント将軍(警察隊は命令を遂行できなかった)ともう1人の将軍を虐殺するに至ります。
 パリ・コミューンの悲劇の幕はこうして切って落とされました。
 政府側はこの事件をこれ幸いと、コミューンの残虐性の証拠として全国に宣伝しました。この後はもうご存知のように、完全装備の政府軍によって、コミューン派の義勇兵たちは、激しい市街戦の末に、最後はペールラシェーズ墓地で壊滅します。この時たくさんのコミューン派の人たちが壁に並べられて即刻処刑されてしまいました。このあたりを描写するのはつらすぎます。今でも、その墓地の壁には花束が絶えません。

コミューン.JPG
ペール・ラ・シェーズの「嘆きの壁」

 少し長くなりましたが、このモンマルトルの事件はパリ・コミューン内戦勃発の契機となり、コミューン派・共和派・社会主義者たちにとっては、このモンマルトルの丘は世界最初の労働者政府誕生の記念すべき場所となりました。
 ところが、反動派、王党派にとっては、この同じモンマルトルの丘は許し難いコミューンの発生地であり、内乱誘発地でもあるのです。
 1873年、時の国民議会(カトリック勢・王党派が多数を占めた)は、その汚点とも言うべきモンマルトルの地にコミューンの贖罪のために教会堂を建てたいという、カトリック教徒たちの発願を認め、公共建造物として建設を許可しました。
 こうして、「サクレ・クール聖堂」は《パリ・コミューンの罪を犯したために、神様に許しを乞うパリ人たちの祈り》(Dictionnaire des francs-macon illustres p.74)という口実のもと、広く信者から浄財を集めて1876年に着工されました(設計者はアバディー)。
 さて、何年か過ぎて、時代は80年代になりました。当時、実質的な指導権を握ったのはジュール・フェリーという政治家でした。彼は反教権派のリーダー的な存在でもありました。ですから、地方の農民の心を捕らえて離さないカトリックの影響力をそぐために、彼は公立学校の義務化と授業料の無料化、一切の宗教的教育の排除を提案し(フェリー法)、成功しました。つまり、公立の学校から修道女や修道士、そして十字架が追放されることになったのです(1882年)。その前に(1879年)、革命中にフリーメーソンだったルージェ・ド・リールの作曲した「ラ・マルセイエーズ」が国歌として制定されたのも反教権の伏線でした。
 時代は、完全に反カトリック・反教権派・共和派の時代になりました。そんな中、1889年の万博が革命百周年を記念する特別の万博になるということに着目したフェリーが、問題としたのは工事中のサクレ・クール聖堂でした。完成すれば、万博中のもっとも目立つモニュメント・・・しかもカトリックの・・・になりかねません。それでは王党派・教権派の思うつぼです。
 そこでフェリーが指示したのが「より高い、より目立つ」(前掲書 p.74)共和国のモニュメントの建設だったと言われています。
 その後彼自身は権力を失いますが、1886年にコンペの際「太陽の塔」に勝利した「エッフェル塔」が3年という短い工期にもかかわらず、見事完成に至ったことは知られている通りです。そして、この塔は、「世界を照らす自由」(自由の女神像)と同様に、パリに光を放つ灯台として共和国の象徴となるものでした。
 ちなみに、サクレ・クールは資金難など、いろいろ苦労を重ねてやっと1912年に落成しました。
 約百年前のこの勝負は、完成期間のみならず、集客力においても、エッフェル塔の勝利だったと言うことができるでしょう。
 上でカトリック対フリーメーソンと書きましたが、それはジュール・フェリーもエッフェルもフリーメーソンでしたし、パリのフリーメーソン本部「大東社 Grand Orient」は反教権派の急先鋒的な存在だったからです。
 その大東社が関わった事件でおもしろかったのは、「カード事件 l'Affaire des fiches」です(1904年)。
 陸軍大臣アンドレ将軍は、軍を共和主義的、反教権主義的、つまり彼流の民主的な組織にしようと考えて、将校たちの名簿に政治的心情、宗教感・・・とりわけミサに行くかどうか、熱心なカトリックかどうか・・・を調査して書き込むことをフリーメーソンの「大東社」に依頼しました。
 それによって反ドレフュス派の将校の昇進を抑えようとしたのです。
 もちろんこのことは世の知ることとなり、コンブ内閣は崩壊、アンドレ将軍は「平手打ち」をシヴトンにされるという、有名な平手打ち事件が起こります。のち、シヴトンは間もなく牢死してしまいます。いずれにせよ、パリのフリーメーソン本部「大東社」は政府の一部との癒着を取りざたされるというスキャンダルに巻き込まれる結果となります。でも、この件はまた別の話です。
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文学雑感 | 06:52:16 | Trackback(0) | Comments(0)
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