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石田明生

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オーヴェルニュへの旅
 妻三姉妹の二人の妹と別れたあと、オーヴェルニュはクレルモン・フェランへと向かいました。この十字軍発祥の地に二泊しようというわけです。
 オーヴェルニュは、山がちの地ですから、日本人の僕としては何となく落ち着く地方です。というのも、パリなどは四方八方どこを見ても山がありません。
 アルプスの麓グルノーブル出身だったスタンダールも、パリに出てきた時の物足りなさを山のなさのせいにしています。かつてその行(くだり)を読んだとき、実感としてわかりませんでしたが、パリに滞在してからはよくわかります。

大聖堂前の通り        オーヴェルニュの山
大聖堂前の通りと、遠くの山     翌日、ル・ピュイに向かう車窓から見た山



 例えば我が関東地方ならば、富士山から秩父連山まで、西の空を見れば必ず青い山々が目に入ります。その存在の安心感は、子供の頃から持ち続けてきたもので、年を重ねれば重ねる程、強いものになります。
 パリのベルシー駅発7時ちょうどの急行に乗って、クレルモンに到着したのは10時半、予約しておいた駅前のホテルGrand Hôtel du Midiで旅装を解いてさっそく市内観光に出発しました。地図を片手に旧市街に向かいましたが、いきなり目に入ったのは、ジャンヌ・ダルクの浮き彫りのある立派な建物です。「これはいったいなんだろう」
 見るとリセと書いてあります。つまり、高校でした。

ジャンヌ・ダルク高校

 ジャンヌの史跡はこの町にはないはずです。ですが、何らかの事情で高校名としたのでしょう(あるいは、右派が強い時期があったのか、今でも強いのか)。ちなみに、その先を行くと、「ブレーズ・パスカル高校」がありました。これは、すんなり、簡単に納得できます。このクレルモンはパスカルの出身地だからです。1623年に生まれたパスカルは、3歳のときに母を亡くしています。スタンダールもそうでしたが、昔は母親の早世はよくあったと思われます。特に産褥熱による場合が多いそうです(スタンダールの母)。そういう意味で、彼らだけが特別母親のいない不幸な幼年時代を送ったわけではないでしょう。
 徴税官だった父親は、1631年に一家を連れてパリに引っ越しします。ですから、クレルモンとパスカルの関係はたった8年ばかりだったということになり、パスカルという人間形成にどれだけオーヴェルニュという風土やクレルモンの町の気質が影響を及ぼしたのか、少々心もとない気がします。例えば、スタンダールの場合は、現在のリセに当たる中央学校を卒業してから、つまり17歳で単身パリに乗り込みました。これとはだいぶ事情が異なります。先ほどの「山」についての感覚も違ってくるのは当然でしょう。
 アンリ少年(スタンダール)が、博学の祖父から薫陶を得たように、ブレーズ少年も祖父ならぬ父親から学問の一切を学びました。また、裕福だった父親のサロンに客としてやってくる当代一流の学者たちから、思春期の少年は耳学問のように様々な知識を吸収したそうです。そういう学者の中には、ルネ・デカルトもいたというから、父親が、パリへの引っ越しを急いだのも納得できます。数学者、物理学者、哲学者などなど天才的な彼の業績については、くどくど書きますまい。

パスカルのメダイユ
8歳までしか住んでいなかったブレーズ少年の記憶にどれほどクレルモンの町が印象に残ったかはわかりませんが、
町の方は稀代の天才の記憶を永遠に閉じ込めようとしています。路上には天才のメダイユがありました。


 神は、彼にデカルトやスタンダールの寿命を与えてはくれませんでした。研究と学問の生活が彼をむしばんだのでしょうか。それとも持って生まれた運命だったのでしょうか。彼は、39歳の若さで世を去ってしまいます(1623-1662)。

 足は大聖堂へと向かいます。このクレルモンの近くで採れる黒みがかった石でできた大聖堂を見ようと、ひたすら旧市街に向かいます。すると、また路上にメダイユが目に入りました。それは、教皇ウルバヌス二世のものでした。

ウルバヌス二世のメダイユ

 1095年、ウルバヌスはここで、フランスの騎士たちに向かって、「乳と蜜の流れる地カナーン」に赴き、エルサレムを異教徒たちから奪還せよと大演説をしました。世に言う十字軍です。この檄は人々に感銘を与え、諸侯や騎士たちを越えて民衆たちの心を強く刺激しました。そのために十分な準備もないまま、戦闘経験のない民衆たちはアミアンの隠者ピエールに率いられて、略奪と虐殺を繰り返しながら、統制のないまま小アジアまで行きましたが、結局はイスラムの軍に蹴散らされ、あわれにも全滅してしまいます。これが世に言う民衆十字軍です。そのあと、諸侯や騎士たちが第一回十字軍を組織して、エルサレムを占領しますが、この時の十字軍の残虐さは、まさに現在のイスラム国の復讐をうべないたくなるような凄まじさだったと言われています。

クレルモンの大聖堂      ウルバヌス2世
ノートル=ダム・アソンプシヨン大聖堂   ウルバヌス二世の像

 十字軍の凶暴さをウルバヌスのせいにして、彼を断罪するのは酷でしょうか。さらに言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の果てることのない対立の種子をこのクレルモンに求めるのは公平ではないでしょうか。それを知ってか知らぬか、銅像のウルバヌスは右手を高々と青空に向けて上げ、乳と蜜の流れる地カナーンを目指せと檄を飛ばしています。
 大聖堂の内陣に入ると、外の喧噪が空耳だったかのように、そして十字軍の猛々しさが嘘だったかのように、静謐が堂内を満たしていました。ステンドグラスの物語も聖母子像も、慈愛に満ちて、10世紀近くを経た現在は平和そのものです。

クレルモンのスタンドグラス       クレルモンの聖母子

クレルモンのピエタ
この素朴なピエタはとても古いと思われます。

 地方の教会などでは時々あるのですが、この大聖堂も昼食休憩がありました。まさか司教さまではないでしょうが、立派な方が、「ハーイ、昼食の時間です。ボン・ナペティ」と言って、見学者を外に誘導しています。というわけで、我々も昼食にしました。

Aligot と生ハム

 クレルモン=フェランの名物料理は、ジャガイモとチーズを練って作った「アリゴaligot」というものだそうで、さっそくそれを注文しました。写真の通りですが、素材が素材ですから、まずいわけがありません。冷たいロゼワインと一緒にいただきました。
 昼食をとったブラッスリーは、広大なジョード広場La place de Jaudeに面しています。その広場の真ん中に、ユリウス・カエサルの心胆を寒からしめた、ガリアの英雄ヴェルサンジェトリクスの騎馬像が立っています。

ヴェルサンジェトリクスの像
荒々しい姿のこの騎馬像を制作したのは、ニューヨークの自由の女神像の作者として有名なバルトルディです。
細かいことですが、この騎馬像には鐙がありません。ローマ時代にはまだ鐙は知られていなかったそうです。
そういう意味で、この像なかなかリアルです。


 紀元前52年、このクレルモンの南に位置するゲルゴウィアの地で、ユリウス・カエサルはヴェルサンジェトリクス率いるガリア連合軍に一敗地を喫しました。カエサルにとってかず少ない敗北の経験です。ガリア側は俄然勢いがつきましたが、そこは歴戦の将カエサルです。アレシアの地で、ガリア連合軍を完膚なきまでに負かし、ヴェルサンジェトリクスを捕虜にしてローマに送ります。そのとき、ヴェルサンジェトリクスはまだ二十歳そこそこだったと言われています。ローマで6年の捕虜生活の後、カエサルの凱旋式の折りに処刑されました。敗者に対して、いつも寛大な処置をしてきたカエサルでしたが、ヴェルサンジェトリクスにだけはできなかったのでしょう。

ヴェルサンジェトリクスのメダイユ
ヴェルサンジェトリクスのメダイユ、これでクレルモンの役者が出そろいました。

 クレルモンには、大聖堂以外重要なバジリカがあります。「サンチァゴ・デ・コンポスターラの巡礼路」として世界遺産に登録されているノートル=ダム・デュ・サンポール聖堂がそれですが、ここに珍しい黒い聖母像があるというので、見学に行きました。ジョード広場から再び大聖堂の方に戻り、狭い旧市街を抜けますと、その教会が見えました。一部がクレルモン特有の黒みがかった石で作られた、がっしりとした建築物です。

ノートル=ダム・デュ・サンポール聖堂
ノートル=ダム・デュ・サンポール聖堂

 正面の入り口から入れず、ぐるりとまわらないと堂内に入れません。中に入ると、噂の黒い聖母子像は静かに見学者たち(もちろん信者たち)を待っていました。

クレルモンの黒い聖母
暗い中での撮影でしたので、うまく撮れませんでしたが・・・


 思えば、トゥールーズの教会で黒い聖母にあって以来でしょうか。その像は、まさに慈しみの権化とでも言うべきお姿で、見る側(不信心ものだからこう言いましたが、信者の方々でしたら、「お祈りする側」ですね)の胸に迫るものがありました。
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2014年、フランス旅行 | 19:18:26 | Trackback(0) | Comments(2)
コメント
私も、死刑廃止論者です。
夜遅くに失礼します。私は、先生が教えてらっしゃる大学の学生です。

いつもネクタイにジャケット姿・・・、と言えば分かっていただけるでしょうか(笑)

今回の記事を含め、どの旅行記も、楽しく読ませてもらいました。

また、先生の死刑制度についての考察が大変興味深かったです。

私も、先生と同じように、死刑制度廃止論者です。抑止力になっていないことや、冤罪の危険性など、考えれば考えるほど、死刑制度は廃止するべきだと思います。第一、合法的であれ「殺人」ということには変わりありませんし。

今日のフランス語の授業で、はじめてこのブログの存在を知り、その日に新しく先生が記事を更新してくださったこと、大変嬉しく思います。

2014-10-28 火 21:54:18 | URL | R. K [編集]
R. K君 こんにちは。

さっそく、遊びにきてくれてありがとう。この次と次の授業が学園祭でありませんね。楽しいクラスなので、授業がないと寂しい気がするほどです。

死刑の問題については、アルベール・カミュの小説『ペスト』を読むのもおもしろいと思います。

A bientôt!!!
スキピオ
2014-10-29 水 10:35:15 | URL | Scipion [編集]
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