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パスカル・キニャール著『アルブキウス』
 パスカル・キニャール Pascal Quignard という作家は、映画『めぐり逢う朝』の原作者としてしか知らなかった。
 この度、通っている図書館で不思議な本を目にし、ぱらぱらとめくってみた。するとこれまた不思議な文章が次々と現れるではないか。作者はパスカル・キニャール、本の題名は『アルブキウス』(高橋啓訳 青土社)。『めぐり逢う朝』では、音楽家の生涯を描いていたが、ここでは、古代ローマの雄弁術家を描いている。解説によると、作者の母親は文法学者の家系であり、父親は代々オルガニストの家系であったという。まさに、バロック音楽と古代ローマは、彼の最もなじみ深い範疇であったのだ。

バスカル・キニャール



 アルブキウスという名は、同時代人のキケロ、カエサル、オウィディウス、ホラティウス、セネカ、アウグストゥス等などと比べれば、微々たる存在に過ぎないだろう。それをキニャールは、おそらくは豊富とは思えない文献から、主人公のアルブキウスのみならず、古代ローマの黄金時代を静謐な文章で浮き彫りにしている。とはいえ、その描写方法は、アルブキウスの筆ならかくあらんと思わせるような、知りもしない言い方をすれば、古代ローマ風の書き方なのだ。解説によると、作者キニャールは大セネカ(紀元前55年頃〜後40年)の『論判演説集』を下敷にしたという。だから、古代ローマ風という表現もあながち見当違いではないかもしれない。ちなみに、セネカはアルブキウス・シルスの友人だった。アルブキウスはセネカと同じ頃生まれ、後10年に没した。
 この書の掉尾を飾るアルブキウスの死の描写は、現代人の美的感覚からするとずれて見えるかもしれないが、不思議な美しさをたたえている。
 血の混じった胆汁を吐いたとあるが、アルブキウスはなんの病を得て亡くなったのだろう。

«紀元十年、オウィディウスは二年の国外追放にあっていた。インド人は第三の、第四の商館をローマとオスティアに開いた。仏教が中国に侵入しはじめる。ホラティウスが死ぬ。マエケナスが死ぬ。ひとりアウグストゥスだけは、その猜疑心と、その才覚と、その恐怖心のために生き残る。カイウス・アルブキウス・シルスは、アウグストゥスのギリシャ語を話す習慣ほどには、その残酷さを憎まなかった(注)。アルンティウスによれば、娘を遠ざけ、折り畳み椅子に座らせるように命じると、乳母を呼びにやらせたという。彼はその乳母に、調合した飲み物に乳を足してくれと言った。女は着物をはだけた。彼は飲み干した。彼の寝ている部屋はごった返していた。一番前の列には、折り畳み椅子に座った娘のポリアがいた。奴隷たちもすべてそこに居合わせていた。二番目の列には、もっとも幼い奴隷たちが立っていた。彼は乳母にもっと近くに寄ってくれと言い、その手を握らせてくれと頼んだ。すすり泣きの声が聞こえた。彼は振り返って、こう言った。
 ———なぜ泣くのだ。子供たちよ ? (Quid fletis, pueris ?)
 彼は、いつも金を払ってその乳を飲んでいた乳母の手を両手で握り締めて、死んだ。彼女は毎朝、椀の上で自分の乳房を搾っていた。彼はいつもそれをぬくもりのあるうちに飲んだ。»(pp.259-260) 
(引用者注 : アルブキウスはアウグストゥスがギリシャ語を話すことを蛇蝎のごとく嫌っていたと、著者は書いている。残酷さのほうがまだましだったということか)

 今で言えば、自殺による安楽死ということだろうか。古代ローマの人の死はいつも厳粛さ荘厳さを思わせる。ネロ皇帝によって自死を命ぜられた上記の息子小セネカは、弟子たちに囲まれて静脈を切った。追いつめられたとはいえ、クレオパトラの自殺もそうだ。真偽の程はべつにして、侍女たちに囲まれて、毒蛇に胸を咬ませるとは・・・
 アルブキウスは乳母をかかえており、その乳を飲むのを日課にしていたようだが、ローマの貴人たちにとって、それはありふれた習慣だったのだろうか。牛や羊の乳よりも好んだのか。それともそれはアルブキウスの偏愛だったのだろうか。女の乳を飲むと言えば、三島由紀夫の『金閣寺』に出てきた記憶がある。学生の頃読んだので鮮烈な印象があった。記憶違いでなければ、女は乳房を搾って抹茶に乳を注いだと思う。もう一度読みたくなった。
 この『アルブキウス』という書には、アルブキウスもしくは同時代人の「弁論小説」と称される短編がいくつもある。どれか引用したいと思うが、ここに書き写すにはどれもあまりに長過ぎる。そこで一番短い、推理小説風の小説を以下に紹介しよう。

『五歳の子供』
五歳の子供が死んだ母親を抱きしめている。父親は再婚する。継母は執事と通じる。寝室で父が殺されているのが発見される。継母は息子を指し示す。息子は執事を指差す。息子はまだ話のできる年齢ではなかったので、油のランプの絵を描いた。
 アルブキウスは、こんなふうに弁論を始める。
 ——— 物言わぬ子さえしゃべる。(Etiam infans loquitur)
 アルブキウス・シルスは、後世の弁論家たちがしばしば繰り返すことになる質問をここでする。『五歳の子供』はこの質問を発した最初の小説である。すなわち「眠りのもっとも浅いのは誰だと思うかね ? 子供だろうか、老人だろうか、成人だろうか ?」アルブキウス自身はこう答えた。
 —————— 子供だ。(Pueri)
 そして、こんな言い回しを用いた、「寝室にいたのは三人だ。おまえが殺した父親と、おまえが憎んでいる子供と、おまえがやった母親の三人だ」。セネカは、このアルブキウスの言い回しを非難している。逆にブランドゥスの言い回しを誉めている。とりわけ、子供が執事を指し示すくだりで、「指が雄弁に語っているではないか」と断じているところだ。(pp.63-64)

 様々な状況を設定して物語を書き、それについて議論する。それがどうやら弁論小説らしい。ここでは割愛せざるを得ないが、その断片的な小説は、ひどく興味を引くものだ。が、キニャールによると、アルブキウスの小説はひとつも出版されず、残っていないらしい。それならどうして分かるかと言うと、セネカたちの書物に引用されているからということだ。

舌の先まででかかった名前

 昨日、この本を図書館に返却したが、その代わりにまたまたキニャールの小説を借りてきた。それは短いので、と同時にひどくおもしろいので先ほど一気呵成に読んだ。書名は『舌の先まで出かかった名前』といい、小説というよりは物語、あるいは童話の体をなす。あらすじは次の通り・・・

 昔、まだ千年にもならない時代、ノルマンディーのとある村に若く美しい仕立て屋がいた。名をジューヌといい、腕の良さでも知られていた。その向かいに、刺繍で生計を立てている娘、コルブリューヌは彼を愛していて、ついに恋の告白をする。ジューヌは条件をひとつだけ出して結婚を承諾する。条件とは、ジューヌのいつも身に付けている飾り紐と同じものを作るということだった。もちろん、彼女は挑戦する。
 ところが、腕の良い刺繍縫いでも、その繊細な作りの飾り紐はどうしてもできなかった。娘はついに泣きながら絶望の声を上げるのだった。
 すると、ある晩、立派な衣装を身につけた領主が、飲み物と食べ物を求めて、立ち寄った。そして、泣いている娘に理由を尋ねた。
 訳を聞いた旅の領主は、くだんの飾り紐を見て、全く同じものがあるので、進呈しようと申し出る。ただし、ひとつだけ約束してくれればだが。「どんな約束ですか ?」「わたしの名前を忘れないこと」「お名前はなんと ?」
「わたしの名前は、ヘイドビック・ド・ヘル」
 娘は、そのあまりに簡単な名前を聞いて笑い出してしまう。そして、約束する。旅人はちょうど一年後、同じ日の同じ時間にやってくるが、もし忘れていたら、娘は旅人のものとなる。
 その飾り紐のおかげで、娘は仕立て屋のジューヌと結婚できた。幸せな毎日を送る。が、9ヶ月が過ぎる頃、コルブリューヌは、愕然としてしまう。どうしても約束した旅人の名前を思い出せないのだ。口元まで出掛かるのにどうしても出てこない。
 思い出そうと必死に毎日を送る彼女は、快活さも失い、その生活習慣もがらりと変わって、だらしなくなった。夫は怒り、その訳を訊く。
 コルブリューヌは、泣きながら嘘をついたことを告白し、迫ってきた恐ろしい約束のことを話す。
 妻を愛する夫は、その男の名前を突き止めてやると、旅に出る。森で出会った小兎に案内されて、異界に赴き、その領主の名前を聞き出す。彼は忘れまいとして懸命にその名前を繰り返しながら家路を急ぐ。
 村にたどり着いた時、村の風景の美しさに見ほれ、次いで空腹を感じた。とそのとき、名前が舌の先まで出てきそうになるが、逃れ去ってしまう。妻に会ったときには完全に忘れてしまう。
 11ヶ月目に入り、再び名前を求めて夫は旅に出る。今度は海の異界に入り込んで、名前を知るが、妻を抱き寄せて告げようとしても、舌の先まで出掛かるがどうしても出てこない。
 いよいよ12ヶ月目に入る。夫は今度は山に登って、名前を求める。そして、三たび名前を知り、それを呪文のように口ずさみながら、家路を辿る。体はずたずた血だらけになって、脇目も振らずひたすら妻を目指す。あと一日しかないのだ。
 妻は、時間切れになったら、自害しようと剣を用意して待っている。その背中に向かって、夫は叫んだ。「
ヘイドビック・ド・ヘル、それがあの領主の名だ !」

 この物語のポイントは、誰も読み書きができないということだ。つまり、文字のない世界の恐ろしさを十分に物語る。
 そういえば、時々パスワードを間違えて、焦り、焦れば焦る程思い出せず、ついにはどこかのメモにたよることがある。もしもそのメモがなかったら・・・
 この童話は、夫が最初に森、次に海、三度目に山に行って、忘れた名前を見いだすという、典型的な民話のかたちをとる。また、ハッピーエンドは民話というよりも、童話の体裁だ。ちなみに、コルブリューヌに飾り紐を与えた旅の領主は、名前からして明らかに冥界の領主だ(「ヘル」とは、ノルマンディーのかつての住人たちが地獄をそして使った言葉だと作者は説明している)。とすると、恩人の名前を忘れるということは、地獄に通じるということを言いたかったのだろうか。
 パスカル・キニャールは1948年生まれとある。なんと僕と同い年だ。
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書評 | 17:58:49 | Trackback(0) | Comments(0)
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