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完全犯罪の結末、小説『テレーズ・ラカン』
 エミール・ゾラ27歳の時の傑作『テレーズ・ラカン』は、全編人の悪意とエゴイスムとが入り交じり、環境も舞台もじめじめと薄汚く、読むものに澱みのような重しをはらわたに流し込む。これほどの暗く重い作品は、『ジェルミニー・ラセルトゥー』(ゴンクール兄弟作)をおいて他にないだろう。それもそのはず、ゾラはまさにこの先輩の作品から霊感を受けて『テレーズ』を書いた。『ジェルミニー・ラセルトゥー』発表の2年後、1867年のことだ。肉体的堕落は人間性の堕落に繋がり、悲劇を生む。それこそ、「生理学的で心理学的問題」であり「肉体的で精神的な病気の臨床例」であり、まさに真実の物語だと、ゾラは言う(「」内は篠田浩一郎氏の解説から。先の引用は«世界文学全集25講談社»より訳は篠田氏)。

 小説の書き出しで、ドラマの舞台となるパリ左岸の小路は、物質的な舞台装置にもかかわらず、肉体的精神的疾患をかかえているかのように紹介される。登場人物たちの病理を展開するにふさわしい、まさに実験室のようだ。

 «セーヌの河岸のほうからくると、ゲネゴー街のはずれで、ポン=ヌーフの路地に出会うことになるが、そこはせまくてうす暗い一種の回廊になっていて、マザリーヌ街からセーヌ街までのあいだにはさまれている。この路地はせいぜい長さ三十歩、幅は二歩しかない。黄色っぽい敷石が敷かれているが、みんなすりへり、とめの漆喰がはがれ、いつも胸の悪くなるような湿気がにじみ出ている。この路地をおおっているガラス張りの天井は直角に切られていて、汚れで暗くなっている。(p.303) »


 この「ポン=ヌーフの路地」は、19世紀に数多く作られたパッサージュのひとつと思っていいだろう。それにしてもひどい描写だ。現在のこの小路はパッサージュの面影はなく、マザリーヌ通りとセーヌ通りを結ぶ単なる健全な通りだ。ところで、パッサージュで商いをする家族が内紛し、暴力と罵声に冒されていく小説と言えば、フェルディナン・セリーヌの『なしくずしの死』が思い出される。その中で小路は、描写されるというよりは、汚物だめとして紹介される。

 «・・・犬どもはどこにでも小便を引っかけててそれは自分たちの飾窓も同じことで何もメオン(小路内に住む一家と犬猿の仲の住民)のとこばかり特にひどかったわけじゃない。いくらクレゾールを撒いても無駄だった。ベレジナ小路はいわば下水道みたいなもんだった。小便が人びとを呼び込むんで。やりたくなった者は誰でも、大人でさえもぼくらの小路に入って来てやった。(『なしくずしの死』上  pp.100-101 高坂和彦訳«河出文庫»)»

 このベレジナ小路は、セリーヌが育った「ショワズール小路」がモデルとなっているのだろうが、デフォルメのしかたがあまりに極端ではないだろうか。現在この小路をおとずれると、他のパッサージュほど美しいとは言えないにしても、「パノラマ小路」と比べてそれほどの遜色を感じない。セリーヌにしても、ゾラにしても、おそらくは風景そのものを写実するのではなく、ドラマに登場する家族の内情や人物たちの病理的な性格を、舞台の描写に取り入れたのだろう。セザンヌやゴッホ、モネやルノワール、ロートレックやドガ、彼らはいずれも印象派の画家たちと称せられているが、ロマン派や象徴派の画家たちと異なり、結局はレアリスムの画家だった。あるがまま、見えるがままに描くこととは、その見る視線の持ち主の感情(葛藤、苦悩、あるいは歓喜、欲望など)というフィルターを通して観察された描写の謂にほかならない。それがレアリスムだ、ということを印象派の画家たちの友人だったゾラが知らぬ筈がない。かくして、セーヌ小路の吐き気を催すような描写は、ラカン家及び、テレーズの愛人にして共犯者のローランという人物像と重なり解け合って、苛烈を極める。小説は、ほとんど小路内のテレーズ家の中で展開される。セリーヌの小説のように隣人さえ誰ひとり登場しない。毎週木曜日の晩に集まる3人の友人をのぞいて、登場人物もテレーズ、夫のカミーユ、母親のラカン夫人、ローランに限定され、カミーユ殺害後は、パリという大都会の中の、セーヌ小路の小間物屋の店と住まいに、物語は完全に限定される。いや、物語と言えるだろうか、ドロドロした汚泥のような感情のうごめきと言うべきではないのか。
 まして、ラカン夫人が全身麻痺に陥り、目配せでしかものを表現できなくなり、息子の死が目の前にいる嫁と嫁の再婚相手(しかも息子の友人)による謀殺と知ってからの物語の展開は、あまりの怯懦と暴力、露骨なエゴイスムと怨讐の描写で読者を疲労させ、辟易させる。とは言え、恐いもの見たさというか、心のうちに潜む残虐趣味なのか、次のページをめくりたくなるから不思議だ。ゴンクール同様、こんなときゾラの筆は冴え渡る。
 無理矢理とまでは言わないが、何となく小金持の叔母にその叔母の子すなわち従兄弟のカミーユと結婚させられたテレーズは、おもしろくない結婚生活を悶々と送っている。パリに来ても退屈は変わらない。虚弱体質の夫はテレーズの体質と千里の距離がある。そんなとき、夫婦の幼なじみだったローランと偶然出会い、旧交を温めることになる。テレーズのかつえていたまなざしはローランの肉体からはなれなくなり、ローランはテレーズを受け入れるのに何の障害もない。こうして二人はひそかに狂おしく愛し合うようになった。愛し合えば愛し合うほど、快楽を味わえば味わうほど、夫のカミーユが邪魔になるのは理の当然。二人は彼のいない愉快と安逸と怠惰の理想的な暮らしを夢見る。そしてとうとう、泳げないカミーユをボート遊びに誘い、舟を転覆させて、事故に見せかけて殺す。そのとき、溺れんとするカミーユが必死でローランの首筋に噛み付いたため、人殺しの首に癒えることのない傷跡が残る。
 夫が亡くなった日から、喪に服す哀れな未亡人をテレーズは演じ、友の死に責任を感じつつ、最愛の息子を失った母親に同情する友人をローランは演じる。犯行後、二人の共犯者は友人以上の付き合いをすることなく、1年以上のあいだ慎重にも慎重を重ね、見事に完全犯罪をなしとげる。だがなんという完全犯罪だろうか。一人暮らしのローランは、首の傷が癒えることなく、カミーユの亡霊に悩まされ、狂気寸前の生活に陥り、テレーズも夫の亡霊に悩まされ、癒やされることのない官能のうずきに身悶えする。
 1年以上が過ぎ、ラカン夫人をはじめ、周りの人たちがテレーズに結婚を薦めるようになる。共犯者たちの思い描いたシナリオ通りになるのだ。未亡人の相手は、ラカン夫人とも仲の良いローランが良いに決まっている。
 結婚した二人は、安寧を見いだしただろうか。二人の初夜は、待ちに待った初夜は、一人ずつ苦しんで来てついに二人でその苦しみを乗り越えようと期待された初夜は、二人で殺したカミーユについて初めて語る夜となり、溺死したカミーユの亡霊をさらに呼び寄せる結果となった。それは恐ろしい夜だった。二人のあいだに、横たわった二つの体のあいだに、亡霊が横たわっているのだ。完全犯罪の付けは、地獄に足を踏み入れた共犯者の妄想と幻覚の日々であった。二人の結婚は、一人暮らしの時よりもさらに苦しい疑心暗鬼の日々となった。ギロチン台を恐れるあまり、二人は互いの密告を恐れだしたのだ。その恐怖の有様を、全身麻痺となったカミーユの母親が耳にし、目にしてえも言われぬ喜びに浸っている。最愛の息子を殺した二人の末路を見届けるのが唯一の楽しみだ。
 二人の共犯者は、疑心暗鬼にかられ、憎み合い、罵り合い、永劫の地獄に陥ったと思い、同時に究極の解決策を見いだす。それは、相手を殺すこと。テレーズとローランは方や包丁を方や毒薬を用意して、互いを亡き者にしようとする。それはラカン夫人の目の前で展開された。二人は同時にそれぞれの行為の意味を理解し、見つめ合う。

 «すると、ふいにテレーズとローランがわっとばかりに泣き出した。最後の発作にうちのめされ、子供のように弱々しく、互いに相手の腕の中に身をおどらせた。なにかやさしい、ほのぼのしたものが自分たちの胸のうちに目覚めてくるような気がした。[・・・中略・・・]すると、過去のことを思い出すと、自分自身にもう飽き飽きし、吐き気を覚えるほどなのがわかり、休息が、虚無がなんとしてでも必要なのが感じられた。ふたりは、包丁と毒薬とを眼前にし、最後のまなざしを、感謝のまなざしをとり交わした。テレーズがコップをとりあげ、その半分をあけ、相手にさしだすと、ローランは一息で飲みほした。(p.487)»

 こうして、共犯のふたりはともに死ぬことで、安寧を見いだした。この小説のものすごさは、これから数行あとの、最後の文章につきるだろう。

 «ふたりの死骸は一晩中、食堂の床板の上によじれ曲がってころがったまま、ランプの傘がひろげる明かりでうす黄色く照らしだされていた。そして、十二時間近くも、翌日の正午ごろまで、ラカン夫人は体をこわばらせ、押し黙ったまま、自分の足もとのふたりをじっと眺めいり、いくら見ても見飽きることもなく、重苦しいまなざしでふたりを圧しつぶしていた。(p.487)»
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文学雑感 | 18:21:55 | Trackback(0) | Comments(0)
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