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モンマルトルの墓地を歩く(2)。
 再度モンマルトルの墓地を訪ねました。何度行っても、何度歩いても、感慨は新た、様々な思いにとらわれます。

1.アルフォンシーヌ・プレシス(1824-47)
椿姫.JPG
【アルフォンシーヌ・プレシスの墓】

 以前、デュマ・フィスの墓を紹介しましたが、彼が愛した椿姫のモデルとなったアルフォンシーヌ・プレシスのは紹介できませんでした。このたび写真におさめることができました。

椿姫写真.JPG
【椿姫のモデルとなったアルフォンシーヌ】



 アルフォンシーヌは Demi-mondaine つまり、高等娼婦でした。いつもいつも胸に椿の花を飾っていたと言われています(この伝説はどうやらデュマの創作らしい。しかし彼女の花好きは本当だった)。彼女は高等娼婦でしたが、デュマ青年に深い愛情を、もちろん無償で、そそぎました(これも、実は彼女が愛情をそそいだのはデュマではなく、ペリゴー伯爵に対してで、彼と結婚している)。しかし、長続きはしませんでした。パルカの糸はあまりに短かったのです(享年23歳)。
 デュマ・フィスは彼女を『椿姫』として、小説に、次いで戯曲にして永遠の女性にしました。その劇を見て感動したヴェルディは彼女をオペラのヒロインにして、ロマン派の恋人にしました。

2.ルイ・ジューヴェ(1885-1952)
ルイ・ジューヴェ.JPG

【ルイ・ジューヴェの墓】

 モリエールの傑作『女房学校』『タルチュフ』『ドン・ジュアン』などなどを演じさせたら、ルイ・ジューヴェ(1887-1952)の右に出る人はいないでしょう。彼は天才的な俳優でした。また、コンセルヴァトワールの教授として後進の指導にも力を注ぎました。
 この名優は映画にも出ています。『北ホテル』(マルセル・カルネ監督)『どん底』(ルノワール監督)『女だけの都』(ジャック・フェイデ監督)『舞踏会の手帳』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、僕が見たのはこれくらいだったかな?
 いずれも大傑作で、映画史上に残る名作です。特に「北ホテル」は、同名小説(ウージェーヌ・ダビ作)またはこの映画のために、サン・マルタン運河とともにパリの観光名所になってしまったほどです。現在はレストランとして残っています。パリにあってパリにあらず、運河とたいこ橋と木陰の下町風情の残る静かな散歩コースとなっています。

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【サン・マルタン運河】

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【北ホテル】


3.ラ・グーリュー(1866-1929)

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【ラ・グーリューの墓】(wikipedia より転載)

 ラ・グーリューの本名はルイーズ・ヴェベールと言い、洗濯屋の娘でした。ただし、洗濯よりも踊りのほうがずっと大好きな娘で、夜な夜な、場末の舞踏場で踊っていました。
 彼女はオーギュスト・ルノワールと出会い、モデルの仕事を紹介されます。残念ながら、彼女は巨匠の絵筆の対象ではなく、様々な画家や写真家の対象となったようです。彼女のヌード写真で有名になったのが、アシール・デルメ Achille Delmaet でした。
  しかしなんといっても彼女の天与の才能はカンカン踊りです。興行師オレール兄弟に目を付けられ、「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」を立ち上げました。たちまち彼女はここの大スターとなります。
 このあたりは、画家の息子の映画監督ジャン・ルノワールによって『フレンチ・カンカン』という題名で映画化されました。すばらしい映画です。
 監督ルノワールは、偉大さにおいて画家の父親に引けを取らない、映画史上最高の映画監督です(『大いなる幻想』『ゲームの規則』などなど)。

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【ムーラン・ルージュのポスター】wikipedia より転載

 彼女に目を付けたのは写真家ばかりではありません。そうです。トゥールーズ・ロートレックがムーラン・ルージュのポスターの中に彼女の踊りを永遠化したのです。
 手前には「骨なしバランタン」もいます。彼も映画「フレンチ・カンカン」に登場し、いい味を出しています。

 ラ・グーリューとは、「大食らい」の意味です。彼女ののみっぷりがものすごかったので、こんなあだ名がついたそうです。
 ムーラン・ルージュをやめて、私生児を生んだり(だれの子か分かりません。「王子様の子よ」と言っていたそうな)、結婚したり、アル中になったり、晩年の彼女は幸せではなかったようです。亡くなって葬儀の時もほとんど立会人もいなかったとか。かわいそうに、墓地はここモンマルトルではありませんでした。モンマルトルに忘れられた彼女は郊外のパンタンの墓地に埋葬されたのです。
 「えっ?ではどうして彼女はここにいるの?」
 20世紀も末になって、時の市長シラク(のちの大統領)はこのことに腹を痛め、カンカン踊りのダンサーを彼女が愛し愛されたモンマルトルに移すように指示したそうです。粋なはからいですね。


4.ミシェル・ベルジェ(1947-92)

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【ベルジェと娘ポーリーヌの墓】

 ペルジェの本名は Michel-Jean Hamburger (発音は「アンビュルジェ」かな)と言います。フランスを代表するシンガー・ソングライターでしたが、心臓発作によって、突然45歳の生涯を終えてしまいます。この急死は妻のフランス・ギャルにはひどくこたえました。
 さらにそれから数年後、二人の愛の結晶ポーリーヌまでもが死んでしまったのですから、彼女の悲嘆はいかばかりだったでしょう。

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【ベルジェ】フランス・ギャルが出したベルジェの写真集『幸せが存在するなら』の表紙より

 ミシェルは作曲家としてすぐれていました。特に彼のロック・ミュージカル『スタルマニア』(作詞プラモンドン)には、心に残る曲がちりばめられています(「Le monde est stone」は珠玉)。

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【フランス・ギャル】写真集『幸せが存在するなら』より

 日本でもおなじみの『夢見るシャンソン人形』(セルジュ・ゲンスブール作詞・作曲)のヒットから何年になるでしょう。
 彼女はいかに売るためとはいえ、イザベルという両親がつけてくれた名前を捨てて「フランス」と名乗るのが嫌だったそうです。また、歌手としてちゃんと評価してくれない芸能界にもうんざりしていたそうで、そんな中で本当の芸術家と出会い、恋に落ちたのです。
 ベルジェとの出会いはまさに運命でした。そして、突然彼を失ってしまったことも悲しいことに彼女の運命としか言いようがないのです。

 彼が亡くなった翌年の93年に行われた「ソワレ・デ・ザンフォワレ(愚者たちのコンサート)」は、ベルジェ追悼のコンサートにもなりました。コンサートの全曲が彼の『スタルマニア』からとられ、コンサートの名前も「スタルマニア」と名付けられました。
 ヴァネッサ・パラディもパトリック・ブリュエルも、パトリシア・カースも、パルマードも、ヤニック・ノアもトントン・ダヴィツドももちろんジャン=ジャック・ゴールドマンもそしてほかのみんなも、彼の作曲したスタルマニアを歌い、コリュッシュとともにベルジェをも偲びました。。
 その時のフランス・ギャルの歌声と姿がこころにしみます。でもこの後、更なる苦難、娘の死が彼女を待っているとは!
 ギャルさん、苦しいとは思いますが、また「ソワレ・デ・ザンフォワレ(愚者たちのコンサート)」に戻って来てください。


5.セギュール伯爵夫人(1799-1874)

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【セギュール伯爵夫人の墓】

 夫人は、ナポレオンのモスクワ遠征時の、ロシア側のモスクワ司令官ロストプーチン伯爵の娘でした(モスクワ大火は彼の責任ではありません。念のため)。
 のちにフランスのセギュール伯と結婚して、フランスに移り住みます。彼女は子供たちのために美しい物語をたくさん書きました。

セギュール
【セギュール伯爵夫人全作品集3の表紙(全3巻)】

 『学問のあるロバの話』『ソフィーの不幸』などなど、偉大な童話作家でしたが、日本ではまだまだ評価が低いようです。僕に能力と時間があるなら彼女の作品を紹介したいのですが。かつては日本にも翻訳がありました。


6.ダブランテス公爵夫人(1784-1838)

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【ダブランテス公爵夫人の墓】

 ロール・ペルモン(ダブランテス公爵夫人の名)は、子供の時からナポレオンにかわいがられていました。ですから、彼女が皇帝の側近ジュノー将軍と結婚するのはごくごく自然でした(16歳)。有能な将軍でしたから(ダブランテス公となる)。ところが、夫婦生活は数年しか持ちませんでした。ナポレオンの妹カロリーヌは彼女の夫に言い寄りますし、彼女のほうは、あのオーストリー大使のメッテルニッヒの情熱をかき立ててしまいます。
 1810年、ナポレオンの妹の気まぐれによって、ロールとメッテルニッヒの愛の書簡が夫に知られることになりました。ジュノーは嫉妬に駆られ、妻を殺そうとします。こうして、嫉妬に苦しんだ彼はスペイン遠征から戻ると狂気にとらわれました。ほどなくして、自殺して果てます(1813)。
 その後帝国の崩壊、ブルボン家の復帰という彼女にとって苦しい時代が続きました。彼女には四人の子供と、百万の負債が残されました。ですから、彼女がブルボン家に取り入り、ルイ18世に子供の将来を頼んだとしても非難できないでしょう。
 もちろんシャンゼリゼの館は手放さざるを得なくなります。どれほど再び華やかなサロンを開きたかったことか!
 そんなとき(1826年)、落ちぶれた彼女はまだ無名の青年バルザックと出会います。この未来の文豪は、ナポレオンのことなら何でも知っている夫人に夢中になってしまいます。40歳のロールはまだまだ魅力を放っていたようです。こうして彼女は、バルザックの創作意欲をかき立てる一方、彼から勧められたこともあって、すばらしい回想録を書きました。

ダブランテス
【ダブランテス公爵夫人『パリのサロン』の表紙】

『バリのサロン』という題名のこの書は、革命時代の5人のサロンを活写しています。順に、ポリニャック夫人、スタール夫人、ロベスピエール、カンバセレス、タレイランです。もっとも彼女がロベスピエールと知り合いだったとは思えませんが・・・

7.アンペール父子

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【アンペール父子の墓】

 父親アンドレ・マリー・アンペール(1775-1836)は電気の単位「アンペア」でおなじみの物理学者で、息子ジャン=ジャック・アンペール(1800-64)は作家です。
 息子のアンペールはレカミエ夫人とも交流があり、往復書簡は有名です。レカミエ夫人(次に紹介)もこの墓地に眠っています。


8.レカミエ夫人

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【レカミエ夫人の墓】

 ナポレオン帝政時代に最も有名なサロンを開いていたのが、レカミエ夫人でした。
 6.で紹介したダブランテス公爵夫人のサロンとは対立関係にあったかも知れません。このサロンはどちらかといえば反ナポレオン派が集まっていたようですから。アンペール、コンスタン(「ペール・ラシェーズの墓地」)、シャトーブリヤン(故郷サン・マロにあります)たちが友人でした。
 また、これもダブランテス公爵夫人とは違って、アンペールもシャトーブリアンもそうでしたが、敬虔なカトリックだったのでしょう。十字架が描かれています。
 実は、パリの墓地を見学する時、興味の対象として、この「十字架」があります。つまり、墓石に十字架があるかないかによって、故人のキリスト教に対する態度が窺えるからです。たとえばスタンダールの墓には十字架はありません(もしスタンダールの墓に十字架をつけたら、彼は卒倒するかも知れません。それほど嫌っていました)が、バルザックにはあります。
 ですから、このようなところにも、故人の反カトリック精神が見えるからおもしろいのです。
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墓地探訪(パリ) | 18:46:05 | Trackback(0) | Comments(0)
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