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石田明生

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フランス旅行第3日目
8月17日(木) グルノーブルからシャンベリーへ(フランス第3日目)

 朝から快晴で、シャンベリーへの日帰り旅行にはうってつけ。すでに買っておいたEチケットは9時32分発とある。これに乗ると、シャンベリー到着は10時19分。実際1分の狂いもなく到着した。数多いフランス旅行体験からすると、概してフランス鉄道は、正確さの指標として日本並みという表現が許されるなら、日本並みに正確だ。こう書くと「だらしないフランス」というステレオタイプの表現が台無しになってしまうが、致し方ないだろう。本当はだらしないフランスの方が面白いのかもしれないのだが…
 駅前に表示のあったオフィス・ド・ツーリスムに立ち寄り、ジャン=ジャック・ルソーとヴァランス夫人が暮らした郊外の館「シャルメット荘」への行き方を教えてもらう。担当したオフィス・レディーの口振りは、徒歩でのシャルメット行きは少々無謀だというニュアンスを帯びている。この炎天下、1時間以上の登り坂は確かに無謀かもしれない。
 というわけで、一挙にシャルメットを攻めるのではなく、市内観光をしながら、最も目的地に近いレストランで昼食をとりそこから出発しようということになった。オフィス・ド・ツーリスムはシャンベリーの町の西の果てにあり、シャルメット荘は町を通り越して東側の山中にあるため、直接行くと、町を横切りそれから山登りをしなければならない。
 というわけで、町の一番東側のレストランで昼食をとった。アントレ+メインかメイン+デザートが13.4€、メインは3種類あったが、妻も私も山の中での海魚を断固拒否し、牛ヒレの料理を頼んだ。アントレは、フランスでは珍しいビュッフェ形式で、好きなものを食べ放題だった。日本ではこのスタイルのアントレは経験がないのでわからないが、これがすごい。魚(イワシ、サーモン)から野菜サラダ・豆・米類を経由してスイカ・メロンまで、さまざまな種類がある。迷い箸ならぬ迷いフォークになるのもむべなるかな。旅行中は常に紳士でいたいと思っているゆえに欲張りをやめて、イワシと豆とトマト、それに今年初めてだと思いつつスイカ、最後に白アスパラガスを皿に盛った。やはり欲張ってしまったか。

前菜       主菜
前菜と主菜(付け合わせはラタトゥイユとドーフィネ風グラタン)




 メインディッシュの料理もボリュームたっぷりでびっくり、合わせのパンもおいしかったがあまりたべると料理がたべられなくなる。メニューを見た時からあまりにうまそうだったので、冷たいロゼワインをどうしても頼みたくなり、実際頼み飲んだ。登り坂30分などなんとかなるさ、気分は冷えたロゼワインを前にだんだん大きくなってしまった。これではシャルメット荘が遠くなるなと思いつつ、料理とワインに舌鼓を打った。
 さてシャルメット荘へ出発。心地よい酔い気分で、山道をクタクタ登る。この径がまさに森におおわれた山径で狭く、どういうわけか道標が見つからない。とにかく下がらないように登り坂を取るようにしてひたすら歩いた。
 ところが、いつの間にか森が途切れて、目の前にアパート群が広がった。これはおかしいと思い、建物の前にたまたまたいたおかみさんに、ここはどこか、手元の地図を見せて尋ねた。すると驚いたことに、言葉が通じないかのようにあわてて、「ちょっと待って」という身振りをしながら建物の中に入った。いったいどうしたことかと妻と顔をみあわせて待つこと数分、旦那さんらしき人が建物から出てきた。そこで、同様の質問をすると、彼の答えは驚くべきものだった。全く予想だにしないところにいたのだ。目的地から、大きく外れていただけではない。近くに住んでいる筈のその旦那さんが我が目的地への行き方がわからない、どころかシャルメットの「シャ」の字も知らないのだ。それもそのはず、彼に言わせると、ここにきて間もないらしく(ちなみにおかみさんも含めてマグレブ系の人だ)、可哀そうに彼も私たちと一緒に悩んでしまった。するとそこに一台の車が駐車場に入ってきた。それを見ると突然彼の顔が明るくなって、「彼ならわかる」と叫んで、運転している人物にききに行った。その人物は、私たちの質問を完全に理解し、「シャルメット荘」を知っていると言う(彼はシャルメット荘を「城 château」と呼んでいたので少々不安だったが)。最初我々の地図で説明しようとしたが、彼はいきなり車で連れて行くと言い出した。「えっ!それでは申し訳ない Trop gentil !」と私が言うと、有無を言わせず私たちを車に乗せた。乗せていただいてわかったことだが、たどり着いたアパートから目的地までは相当の距離があり、歩きでは熱中症などの危険があった。彼はななかなか饒舌で運転しながら色々話をしてくれた。彼もマグレブ系のアルジェリア出身者で、彼の叔父さんは医者をしていてインテリなので(cultivé)、このあたりの城など名所をよく知っているらしい。その叔父さんにシャルメットへも連れて行ってもらったことがあると、言うことだ。現在、彼はセキュリテーの仕事をしているというので、「では公務員のようなものですね」というと、そうだとなずいていた。
 そんなこんな話していると目的地に到着したが、その距離たるや炎天下では到底歩けるものではないことが分かった(森の中の小径ならはるかに近いはずだが)。このアルジェリア出身の方にどれほど感謝しても足らないほどだったが、彼はさらりとそれではと車を発進させた。その前に、駐車場にいた見学者の一人に坂道を指差しながら「城はここを行けばいいんですね」ときく。相手はうなずく。「歩いて行けますね」またもや相手はうなずく。親切なその方は最後の詰めまで怠らなかった。妻は、記念にと日本風のストラップを差し上げた。もしもの時のために、ちょっとした記念物を旅行中いつも用意しているのだ。
 ようやく目的地シャルメットに着いて、見学できる。若きルソーが12歳年上の育ての母ともいえるヴァランス夫人と恋愛関係を育んだ愛の巣だ。入り口から入ると、受付のおばさまが誰かと電話で話をしている。フランスではよくある光景だ。邸内も庭も入場無料なので、しぐさでどうぞとすれば用は足りる。いくら地味な記念館とはいえ、これだけの規模の家屋を無料にしているとはたいしたものだ。維持管理だけでもたいへんだろうに・・・もっとも、下手に入館料をとって、見学者がゼロなどになったら、それこそルソーに申し訳ない気がするのかもしれない。
 夫人の寝室とルソーの寝室は二階にあって隣り合わせていたが、「近親相姦」のようなというルソーの表現が耳についていて、見学する私には二人の寝台が妙に生々しく見えた。また、一階にある音楽の間にはピアノがそのまま置かれていた。二人が夜ごと音楽を演奏し、互いに聴きあった仲睦まじさを想像させる。ルソーはまず何よりも音楽家だったのだ(注:オペレッタ『村の占い師』の挿入曲は日本では『むすんでひらいて』として有名)。
 庭に出ると様々な草木が植えられていた。二人は草花の種類や名前をあげ、植物採集しながら散歩したことだろう。近くに二人の思い出の花、pervenche(ツルニチニチソウ)という名のホテル=レストランがあった。ルソーは植物学者でもあり、自然の子だった。

シャルメット荘        ピアノ
シャルメット荘と音楽の間に置かれているピアノ

夫人の寝室        ルソーの寝室
夫人の寝室とルソーの寝室

IMG_0474のコピー        Pervenche ホテル
シャルメット荘の庭園と近くのホテル=レストラン「Pervenche」

 やがて二人の関係にもひびが入り、破綻することになる。そしてルソーはパリで音楽家、次いで思想家として有名になる。そんな彼をヴァランス夫人はどう見ていたのだろうか。のちに、落魄した夫人に援助の手を差し伸べようとしたが断られた、とどこかに書いてあったような気がする。もっとも、ルソー自身どんなに有名になっても裕福な時代は一度もなかったらしい。

 次に、ルソーの『告白』の中でも最も有名な、ヴァランス夫人との出会いの瞬間の一節をあげたいと思う。しかしながら訳本が手元にないので、拙いながら試訳して見た。放浪児のようだったルソー少年はカトリック司祭のボンヴェール師の紹介で、信仰心の厚いヴァランス男爵夫人の家に会いに行く(この家はアヌシー)。彼女は夫と別居し、カトリック信仰に基づく慈善事業をしていた。ヴァランス夫人は28歳、ルソーは16歳だった。

◆          ◆          ◆


・・・その門の中に入ろうとしたヴァランス夫人は私の声を聞いて振り返る。それを見た私に何が起こったろうか ? 頭の中で想像していたのは無愛想な信心家の老女だったのだ。ポンヴェール氏がいう善良なご夫人とは私の中ではそれ以外考えられなかった。今私が目にしているのは、優美さそのもののような顔、優しさに満ち溢れた美しい青い目、まばゆいばかりの肌の色、うっとりするような胸の輪郭だった。幼い改宗者(注:ルソーのこと、ジュネーブ出身だったのでプロテスタントだった)の素早い眼差しは何一つ見逃さなかった。というのは、このような伝道師たちが唱える宗教なら間違いなく天国に導いてくれるに違いないと確信しつつ、私は一瞬のうちにこの女性(ひと)の虜になってしまったからだ。夫人は私が震える手で差し出した手紙を微笑みながら受け取り、ポンヴェール氏の手紙を一目見て、それから私の手紙に目を落とし、すっかり読んだ。召使いが教会に行く時間ですよと知らせに来なければ再読したかもしれない。「坊や」ビクッとするような調子で私に言った。「あなたは、年端もいかないのに国中放浪していたなんて。大変でしたのね」次いで、私の返事を待たずに付け加えた。「さあっ、お家で私を待っていてください。中で食事を申し付けなさい。ミサが終わったら、お話ししましょうね」

◆          ◆          ◆

出会い
Steubenによる有名なヴァランス夫人とルソーの出会いの場面(1830年)
Muséeにかかっていた。

 この場面は、スタンダールの小説『赤と黒』のジュリアン・ソレルとレナール夫人との出会いを彷彿とさせる。『赤と黒』では、初めて雇った家庭教師はどうせ年取ったしつけに厳しい老教師と思っていたレナール夫人が、門前に現れた美少年のジュリアンを見て、驚き、安堵し、喜びに満たされる。ルソー少年が歓喜を覚えるのとは男女逆になっている。この時、レナール夫人が29歳、ジュリアンが19歳だった(年齢は記憶頼り)。ルソーに傾倒していたスタンダールがこのアヌシーの場面を思いおこさないわけがない。
 さて、こうしてまさに運命の出会いをしたルソーは、それまでの言わばチンピラのような生活から抜け出て、学習の道に入り、夫人はおそらく美男で利発な少年に夢中になったのだろう。それからのち、二人はシャンベリーに引っ越して夏と秋はシャルメット荘で過ごす。ルソー少年は夫人を「ママン」と呼び、夫人は少年を「坊や」と呼んで、ルソーに言わせれば最も幸せな数年間を過ごした。
 えっ! その後のルソーはどうしたかだって? 彼は考案した新しい記譜法を引っ提げてパリに出ていく。そのパリは、まさに啓蒙時代。彼はディドロ、ヴォルテール、ダランベールなど当代一流の知性と出会うことになり、音楽家から思想家へと学問の領域を広げ、著名人となる。が、彼自身が言うように、シャルメット時代ほどの幸せな時はこなかったらしい。ここは、伝記物を書く場ではないのでこの辺で。
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2017年フランス旅行 | 18:41:27 | Trackback(0) | Comments(0)
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