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石田明生

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8月16日(水)グルノーブル(3)
 グルノーブルに降り立って、否応なく目に入ってしまうのは、町からイゼール川の上空を進む、ガラスの球でできた5つのゴンドラだろう。この町のどこかにどれほど関心を持っている人でも、まずはこのおしゃれな、可愛いゴンドラに乗って見たくなるのが人情だ。35年前にここに来た時がそうだったし、今回もそうだ。川の対岸に行くためにも、まずは乗り場へと向かった。乗り場には、何十人か待ち客がいたが、恋人同士を除き(恋は時には利己的になるので二人だけで乗りたがる)、だいたい4・5人ずつ乗れるので、2巡目ほどで乗ることができた。この5つのゴンドラは全くの同距離に二組あって、スキーのリフトと同様止まることなく動き続けているのだが、乗る瞬間に極めてゆっくりとなる。対岸の終点でも当然同じだ。時間は意外と短くて、10分くらいだろうか。ちなみに普通料金は片道5.6ユーロ、往復8.2ユーロだった。帰りは下り坂を下りきったところに重要なmuséeがあるので、片道料金を支払った。

ロープウェイ         展望台から町を写す
ゴンドラと上から見下ろしたグルノーブルの町



 ガラス窓から見えるイゼール川と町を囲む山々の美しさは、かつて冬季オリンピック映画の『白い恋人達(原題 13 jours en France「フランスの13日」)』で見たような雪化粧こそなかったが、十分堪能できる。グルノーブル近くまでほとんど山らしい山のないフランスの大地をTGVで走って来たからなおさらだ。
 ゴンドラの行き着く先は、山の側面を利用して作られている砦(バスティーユ)の最上階だ。砦もしくは砦めいたものはずっと以前から存在していたのだろうが、現在の姿にしたのは、17世紀の城塞作りの天才、ヴォーバン(1633-1707)による。彼の城塞のうち12が世界遺産となっているが、残念ながらこの砦はその中に入っていない。この砦の最上階から、半ば山道、半ば砦の階段を降る。(2)でも書いたように、この山道を下りながら耳を澄ましたが、残念ながら蝉の鳴き声は聞こえなかった。この山全体から、蝉しぐれが降って来たならどれほど豪快か。

Bastilles要塞
バスティーユ要塞

 下りきったところに、Saint Laurent教会があり、その堂内のクリプト(地下墓地)に当たるところが、サン=ロラン教会・考古学博物館となっている。
 サン=ロラン教会の聖壇の下にメロヴィング朝初期の時代(6世紀)にさかのぼる Saint Oyand 教会(発音が「オイヤン」なのか「ワイヤン」なのかわからない)のクリプトがあることを世に知らしめたのは、あのエジプトのヒエログリフ解読に成功したジャン=フランソワ・シャンポリオンの12歳年上の兄ジャック=ジョゼフ・シャンポリオンだった。
 彼も弟同様に、フランス南西部の町フィジャックに生まれたのだが、1798年に仕事でグルノーブルに引越しをして、偉大な数学者のフーリエと親しく交際し、芸術・科学協会の会員となる。田舎町とはいえ、極めてアカデミックな交わりがここでは展開されていたのだが、残念ながら17歳のスタンダールは1800年にこの町を離れる。もっとも、彼がこれらの数学者や考古学者と親しくしていたら、あの『赤と黒』は生まれなかったかもしれない。
 シャンポリオン兄の仕事も極めて重要なものであった。その地下墓地には何世紀にも渡り、どれほどの遺体が埋葬されたのだろう。今は骸骨となって、その白い骨を晒しているが、この町のかつての繁栄を後世に伝えている。アンリ少年(スタンダール)がこのクリプトを知っていたらどれほど喜んだろうか。

Saint Laurent教会              Saint Laurent教会内部
サン・ロラン教会と内陣

Saint Laurent骸骨   Saint Laurent 遺骨   ハートマーク
どんな人たちが埋葬されていたのだろうか。
石棺にハートマークを見つけたのは僕にとって大発見だ。
というのは、右心房と左心房のある心臓を模した図案がいつ頃から使われたか。
ずっと以前から疑問だったからだ。
かのヴァレンタイン(Valentinヴァランタン)は獄中で、
少女に紙をハート形に切ってメッセージを送ったというのを読んだことがある。
彼は3世紀の人だったので、すでにその頃にあったのだろうか。
写真のハートは、少なくとも6世紀ごろには流用されていたという証左だ。

 見学後、教会から川沿いの古い通りを歩いていたら、ジャン=ジャック・ルソーが滞在していた家を見つけた。『エミール』が禁書の憂き目にあい、ルソーはいわば一種のお尋ね者となって、友人の家に身を潜めていたのだ。翌日は、ルソーの足跡を辿ってシャンベリーに行く予定だ。なんとも幸先がよろしいではないか。

ルソーが滞在した家
拡大しないと見えないが、右にプラークがある。

イゼール川
イゼール川

 イゼール川を渡って、旧市街に入ると細い道路が迷路のように巡らされている。このような道は全て、(2)でも触れた、町の中心地「グルネット広場」に通じている。ここは多分今も昔も、町一番の賑わいを見せているのだろう。そして、ここはアンリ少年の庭みたいなものだった。何しろ、この広場に面した家で暮らしていたのだから。

村長の頭部2    村長の頭部
車道と歩道を分けるポールが中央アフリカ部族の長の人物像になっていて、
まるでこけしが並んでいるような通り(rue de Chenoise 「シュノワーズ通り」)があった。
この顔が全て違う。酔狂にも全て写真に収めたが、ここでは二枚だけ。
このような遊び心、それが媚びることなくさりげなく街に溶け込んでいる。

 グルノーブルにはもう一人重要人物が関係している。職業軍人だった彼は、この町に7年ほど滞在していたが、1778年頃には他に転任してしまった。が、その滞在中グルノーブルの社交界に出入りして、その体験を見事な書簡体小説にした。その小説こそ有名な『危険な関係 Les liaisons dangereuses』だ。スタンダールが生まれた頃には残念ながら、作者のコデルロ・ド・ラクロは他の駐屯地にいて、同じ空気を吸うことはなかった。が、その小説の主人公毒婦のごときメルトゥイユ夫人のモデルとなった地元の夫人を彼は直接知っていたと、自伝『アンリ•ブリュラールの生涯』で言っている。彼は、そのモンセール夫人から砂糖漬けの胡桃をもらったらしい。彼の祖父アンリ・ガニョンの地所が隣同士だった。夫人と会った頃は9歳か10歳くらいだったので、その夫人の人となりまではよくわからなかったと書いている。もちろん、当時子供だった彼が(さすがの彼でさえ)ラクロの小説を読んでいるわけがなく(厳しい父親はそのような書は絶対に子供の目に触れさせることはなかった)、まだ18世紀的ふしだら(libertin, libertine)に関心がなかったはずだ。
 町を歩いていても、残念ながら小説『危険な関係』の世界を彷彿とさせる風景に遭遇することがない。小説は、たとえグルノーブルの社交界がモデルだとしても、舞台はパリとその周辺になっているからだ。また、書簡体小説のために、街路や土地・建物の細かい描写がなされない。当たり前といえば当たり前だ。書簡の受け手も出し手も知り合い関係で、それぞれ相手の周囲のことを熟知しているのだから描写の必要がない。それに、何よりもこの小説は心理の駆け引きに主眼が置かれる、いわゆる心理小説だ。この小説の影響は後の作家たちには無論のこと、映画、芝居、漫画等にも波及している。そして、最も影響受けた作家の一人がスタンダールだった。
 グルノーブル、たかだか16万人ほどの田舎町だが(スタンダールがいた1800年には2万人)、侮りがたい高度な文化レベルを持っていた町だと言えるのではないか。ちなみに、スタンダールの母がたの祖父アンリ・ガニョンは良い意味でも悪い意味でも、典型的な18世紀的啓蒙主義者だった。ヴォルテールのサロンで過ごした三日間が、「祖父の生涯最上の日として、機会あるごとに話題にされた」とスタンダールは書いている。彼は、医学博士であり、革命政府が設立した中央学校(1795年から1802年まで、後リセに代わる)の初代校長を務めた。スタンダールという自由人が生まれる素地はその祖父が作り上げていたとも言える。対して父親にはアンリ少年は厳しい評価を下している。ジョゼフ=シェリユバン・ベールは、高等法院の弁護士だったが、思想的に王党派であったために革命中は不遇をかこっていたらしい。自由思想の祖父に対立していたために、アンリ少年は嫌っていたが、教養人であったことは確かだ。父親も『百科全書』を持っていたからだ(スタンダールによれば当時『百科全書』は7・8百フランしたらしい。鹿島茂によると19世紀には1フラン=1000円と考えればよいということだ)。いずれにしても、スタンダールの周辺をちらりと見るだけでこのような文化人がいたわけだ。
 更にいえば、哲学者コンディヤックの誕生の地であったし、ベルリオーズやメシアンのような作曲家もグルノーブルに住んだ。珍しい話では、ジャックリーヌ・ケネディはグルノーブル大学で学んだことがあったそうな。大学は、1339年創立というから、中世から存在し、「教会法」「民法」「医学」「リベラル・アーツ(Les arts libéraux)」が教授された(wikipédiaによる)。現在大学はグルノーブル郊外にあり、電車で2つ目の駅がその名を冠している。

大学の名前の駅      大学の名前の駅から見た風景
大学名の駅とそのあたりから見た風景
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2017年フランス旅行 | 17:08:38 | Trackback(0) | Comments(0)
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