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石田明生

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2007年夏の旅行記(3)・・・強制収容所ドランシー
8月30日(木)
 前回書き終えてから,2時間近くぐっすりと眠った。そのため気分は爽快だ。
 パン屋に行ってバゲットを半分(38サンチーム、一本75サンチーム)とパンオーショコラ(85サンチーム)を買った。これと昨日買ったジュースとミルク、それに持参したお茶が今朝の朝食だ。

 今日は、あの恐ろしい地名、強制収容所の代名詞となった「ドランシー」という町に行くことにした。
 まず北駅に向かった。そこからRERのB線でシャルル・ド・ゴール空港方面,13分ほどの所にある。なんてことはない,飛行場に行く途中の駅だ。

北駅.JPG
北駅に限らないが、今パリはラグビーのワールドカップ一色だ。
駅舎の空間を選手たちが飛び交っているのが楽しい。



 駅に着いても、キャンプがどこにあったのか皆目見当がつかない。駅のキオスクにいた女性に聞くと,バスの乗り場を教えてくれた。バス停でバスを待っていた年配の女性に聞くと,オテル・ド・ヴィル(市役所)で聞くべきだと言い、ついでなので一緒にバスに乗ろうと言ってくれた。市役所に入ると,受付嬢が、道を教えてくれた。徒歩五分くらいの距離、近いらしい。

ホテルド・ヴィル.JPG
ドランシー市役所


 実際,言われた通りまっすぐ行くと左手に記念碑と一両の貨車が目に入った。早速近付き,写真を撮る。

モニュメント.JPG
強制収容所跡の記念碑

貨車.JPG
記念として展示されている貨車。この中に家畜のように詰め込まれて、
遥か彼方のポーランドのアウシュヴィッツに運ばれたのだ。

 古い貨車は生々しくそこにあった。そこに彼ら,彼女らは詰め込まれ,長い長い死への旅路に着いたのだった。もっとも可哀想なユダヤ人たちは、死への旅とは思っていなかっただろう。多分強制労働くらいだと思い込まされていたはずだ。もちろん彼ら彼女らだけではない。一般のフランス人もドイツ人もそう思っていただろう。誰が民族の絶滅など考えつくことができただろう。そこに映画『遠い日の家族』のかぎがある。それでなくてはあの映画は成り立たない。
 その貨車を囲むようにコの字型に立つビルが不気味だ。近寄ってみると、やはり・・・
 壁に次のようなプレートがあった。

《1941年から44年の間強制収容所となったこの場所に、10万の男、女、子供がヒットラー占領軍により強制収容された。ついで、彼らはナチスの強制収容所(アウシュヴィッツ)に送られた。その大多数のものがそこで見いだしたのは死だった》

 このビルに今人が住んでいるので、あり得ないかな,とも思ったが、あり得た。この「コの字」型のビルこそ「ドランシーのキャンプ」だったのだ。

アパート.JPG
元の強制収容所に今は人が住んでいる。
ユダヤ人たち(ジプシーもいた)はかつてこのアパートに一時住まわされた。


 さらに行くと、さびれたドアーにこれまたさびれた一枚の張り紙があった。

ポスター.JPG
《ドランシーキャンプの歴史保存館 TEL: 48.95.35.05》と書かれている。


 この片隅が破れたポスターを見て、指定の電話番号も機能していないかもしれないな,と思い,写真だけ撮った。写真を撮りおわり、歩き出すと,後ろから中年のおじさんに声をかけられた。「関心がありそうですが、中を見ますか?」否などある筈がなく,早速入れてもらった。ビルの小さな,本当に小さな一部屋だったが資料室になっていた。

資料室.JPG
資料室内部


 彼は中の写真を説明してくれた。それだけではなく、インターネットのアクセスURLを教えてくれた。以下の通りだ。

         www.chcd.fr

 帰りしなに,おみやげです,と言ってパンフレットを渡した。

 無理しても,ここに来て良かったとつくづく思った。ビルに沿って歩いていると,詩人マックス・ジャコブが死んだ所が表示してあった。彼は,フランス・ブルターニュ生まれ(1876)のユダヤ人だった。モンマルトル界隈で芸術家的な放浪生活をしていたが,キリストを幻視して以来,カトリックに改宗する。そのためにこのシュールレアリスムの先駆者は僧院に隠棲して,作品を発表することになる。1944年、ナチスの手は僧院にまで伸び、詩人はドランシーの収容所に移送され、病死する。

Max Jacobの肖像
「マックス・ジャコブの肖像」アメデオ・モディリアーニ作(wikiより)

 帰り道,中華料理店に入り,5.6ユーロの定食と赤ワインの小瓶(25cl)をもらった。合計8ユーロくらいだった。ここのコップが驚くべきことにパリの安売りデパート「タチ」で以前6個1ユーロで買った,我が家のコップと同じだった。知らなければしゃれたコップだなと思ったかどうか。「タチ」で売られている安売りの商品はこういうところで使われているんだ,と妙に感心してしまった。
 バスに同乗した婦人が勧めてくれた公園で一休みしようと入った。こんな負の歴史を刻まれた町にも静かな公園があり,何もなかったかのような生活がある。

町並み.JPG
ドランシーの町並み

公園.JPG
ラ・ドーセット公園


 ドランシー、1942年にドーラ・ブリュデール(注)も他のユダヤ人とともにここから貨車に乗せられたのだ。60年という歳月を隔てて、この町はずっと存在している。記念碑のプレートには「フランス政府の名に置いて・・・なされた。忘れるな」と書かれていた。そうなのだ。犯人はドイツやナチスだけではないのだ。フランス人も加害者だったのだ。今まで何気なく暮らしていた隣人が加害者になったかもしれないのだ(『遠い日の家族』)。そして,ヒットラーと同盟を結んだ日本も加害者だったのだ。まさに、《忘れるな!》。
注:パトリック・モディアノの小説『ドーラ・ブリュデール』の主人公の名。小説と言っても、実在したドーラが強制収容所に送られた,その足跡と、彼女の生をたどる、ドキュメント的な作品。
 パリに戻り,ドーラが住んでいた町を歩いた。
 まず、小説の冒頭に登場する「オルナノ大通り 41」に向かった。もちろん建物は存在している。この近くをぶらぶらと歩く。ドーラが少女姿で闊歩していたことだろう。
 この通りを少し行くと、クリニャンクールの蚤の市だ。行こうと思ったが,疲れていたのでやめた。とにかくバスに乗った。バスで一休みしてから,見学のプランを立てよう。乗ったバスがたまたま85番だった。そこでちょうど,バルベスを通ったので,北駅の近くで降りた。
 まずは,バス停近くにあった病院「ラリボワジエール」を見学する。その前の通り名は「アンブロワーズ・パレ通り」だ(注)。いかにもだ。この病院はキリスト教の病院らしく,中に礼拝堂があった。
注:パレ(1509-90)はルネッサンス時代の最も高名な外科医。近代外科医学の基礎を作ったと言っても過言ではない。

病院.JPG
ラリボワジエール病院


 そこから、ドーラが一時住んでいたと思われるグット・ドール界隈(18区)まで目と鼻の先だ。このあたりは、ユダヤ的というよりは完全にアラブ的だ。もしかすると、戦争中にユダヤ狩りが行われたためにこうなったのだろうか。
 彼女の通った学校がポワソニエール通りにあったと書いてあったので,その通りに入る。と、ここは驚嘆の世界だ。アフリカ,それも中央アフリカがむせ返るように続く。黒人たちのものすごいパワーだ。そして豊富な野菜や品物。一体どこから来るのだろう。もちろんアフリカからに決まっている。それにしてもこれだけ一カ所に集まるとは。

ポワソニエール通り.JPG
ポワソニエール通り

 彼女の学校があったと思われる目的地の43番地に、「コレージュ・ジョルジュ・クレマンソー」があった。その壁に「ユダヤ人犠牲者」を偲ぶプレートが貼ってある。ナチスとミリス(注)の爪痕はどこでも生々しい。
注:ミリスとは親独のヴィシー政権が作ったフランス人民兵。ゲシュタポとともにユダヤ人狩りをした。

リセ.JPG
ジョルジュ・クレマンソー中学校

注:ドーラがゲシュタポの手にかかったと思われた時期には、彼女はこの学校にいなかった。12区のピクピュス界隈の寄宿学校に在籍していた。僕は後日その界隈を歩いた。次に日付が跳ぶがそのときの模様を掲載する。
参考:関連記事として、「フランスで強制連行された一万一千四百人の子供たち
投稿日:2007-08-08 Wed」をご覧下されば幸いです。


 最後の日(9月12日)
 まず、『ドーラ・ブリュデール』のドーラが通ったと思われるピクピュス界隈(12区)を歩く。ロトシルドの病院近くとわかっていたので、その辺りを歩く。

病院.JPG
「ロトシルド病院」ロトシルド(英語ではロスチャイルド)は18世紀末から、
頭角を現したユダヤ人の大富豪。銀行家だったが,慈善事業として病院も作った。

 すると高校生くらいの少年・少女が群れをなして歩いているではないか。思わず,シャッターを押しまくる。すると、僕がカメラを持っているのに気付いた女の子が「あっ,カメラを持っている!」と、叫んだ。これはまずかったかな,と思うと,「ねえ,写真,撮ってよ」と言うではないか。もちろん、否やはない。
 というわけで、もしかすると、高校生のドーラもこんな屈託のない女の子だったかも知れない。そう思って写真におさめる。近くの「リセ・サン=ミシェル」の高校生だった。

高校生.JPG
リセエンヌたち、手にタバコを持っているところが日本の高校生と違う所だ。
僕が日本人だと言うと,一人の女の子(真ん中の娘)が「私ポーランドよ!」と、叫び、
左端のオマセな娘は「Je t'aime, bebe. は日本語でどう言うの?」と、訊いて来た。
ドーラが強制収容所に送られたのはまさに彼女たちくらいのときだった。


リセ.JPG

「リセ・サン=ミシェル」ドーラが寄宿した学校はなくなっていたが,
もしかすると、ここにあったのかもしれない。


[8月30日に戻る]
 気が付いたら,この界隈は滞在先の家の前のバス停まで一直線の60番が通っている。それに乗って帰る途中,「トルシー広場」という名前の所で市場が開いていたので,下車した。ここはどちらかと言うと中国人の世界だ。まったくパリには色々な顔があるものだ。

理容室.JPG
中華風美容室
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パリ旅行記(2007年) | 10:09:35 | Trackback(0) | Comments(0)
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