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石田明生

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2007夏のバリ日記(8)
9月4日(火)快晴

 昨日から新学期が始まったので、朝の道路がにぎにぎしい。僕の滞在先の正面が小学校なのだ。

小学校.JPG
夏休み中に白く塗り替えられた小学校。
公立校の壁には必ず「自由・平等・友愛」の文字が。僕の部屋の窓から写す。


小学生.JPG
小学校前の朝の風景。年少の場合、親が登下校に付き添う。




 朝、スーパーに買い物に行くと(パリのスーパーの開店は日本のよりも早い。8時から、9時までの間にたいていのスーバーは店を開く)、「緑のおじさん」が横断歩道で、旗(?)を振っていた。このおじさんは、一種の失業対策かもしれないが、パリ市が募集したれっきとした職員だ。

緑のおじさん.JPG


登校風景.JPG
登校風景


 近くに今年のパリの目玉、ヴェリブの置き場があった。ヴェリブとは安い料金で、パリの町を自転車で自在に行き来することのできるシステムで、目下のところ大変評判がいい。各地に自転車を乗り捨て、乗り継ぎできるように置き場がある。ところが・・・

置き場.JPG
自転車が一台もない、ヴェリブ置き場

宣伝.JPG
メトロ駅に貼られた、ヴェリブのポスター


 ここ、僕のいるメニルモンタン通りの坂上では、みんな自転車を借りて乗って行くのはいいが、ここまで乗って来る人がいない。そのせいか、置き場には自転車が一台もなかった。このことはこれからの課題になるだろう。自転車を載せる特殊な車に何台も乗せて町を走っている様子を見たが、多分、ここのようなところに運んでいるのだろう。いずれにせよ、このヴェリブはすばらしい。日本でまねができるかどうか(あとでレンヌの町に行ったが、ここの駅前にも同様のものがあった)。

 明日は中学の友人が4人やって来る。皆初めてのフランスだ。案内を買って出た僕は、彼らが安全に、楽しく、できたら有意義に旅行してくれるよう、できる限りのことをせねばならない。簡単な予定表を作っておいた。それによると第一日目は、凱旋門・シャン・ゼリゼから始めることになっている。

ラデュレ.JPG
シャン・ゼリゼ大通りの店「ラデュレ」


 そこで今日は、まず凱旋門に行き,プチパレまで歩いてどのくらいかかるか計ってみた。ぶらぶら歩いて30分ほどであった。これならまあまあか。バス停までプラス10分というところか。プチパレ見学はしない方がいいだろう(プチパレの美術館は無料なので、トイレ休憩で使える)。

サラ.JPG
プチパレ市立美術館の「サラ・ベルナールの肖像」

くーるべ.JPG
ギュスターヴ・クールベ作「まどろむ裸婦」

 プチパレの美術館を見学していると、先日の母・娘のような日本人旅行者と出会った。やはり初めてのパリで、フリータイムを楽しんでいるらしい。これからどうするのかと思っていたら、同じように「カール・ルージュ」に乗るのだと言う。グラン・パレの前に停留所があるらしい。よほど案内を買って出ようかと思ったが、母・娘水入らずの旅に割り込んでは失礼だと思い、やめた。こんな時、本当に困ってしまう。もしこのまま僕が行く方に誘ったら、あるいは喜ぶかもしれない。というのは、これから僕は、市内バスに乗って、パリの中心を抜け、バスチーユまで行こうとしているのだから。これは、中学の友人たちのために考えたコースだ。
 というわけで、アンヴァリッドのエスプラナードからバスに乗り、バスチーユにやって来た。
 昼食はケバブのサンドにした。4.5ユーロなり。あさってこの付近で皆とは何を食べようか。
 午後は懸案のクレマンソー博物館に行く。
 ここクレマンソーの邸宅のあるベンジャミン・フランクリン通りはまさに16区の邸宅街という感じだ。重々しい建物が軒を並べる。

フランクリン.JPG
「ベンジャミン・フランクリン通り」の入り口にあるフランクリン像、周知のように彼はパリに来て、啓蒙思想家と交わり、フランスと講和条約を結びアメリカ独立を準備する。以後現在までのアメリカ・フランスの友好の礎を作った。

博物館入り口

クレマンソーの家(博物館)の入り口


 ここでクレマンソー(1841年生)は生活し、亡くなった(1929年)。しかも寝室はその亡くなった当日のままになっている。「虎」の異名をとった政治家で、何よりもドレフュス事件と第一次世界大戦の英雄だ。

マネ.JPG
マネの描いた有名な肖像画

ゾラ.JPG
「オーロール紙」の《我弾劾す》

モネ.JPG
モネのジベルニーの家にて。二人は生涯の親友だった。

バスタブ.JPG
偉人のにしては質素なバスタブ

書斎.JPG
書斎


 エミール・ゾラがあの有名な《我弾劾す》を掲載した「オーロール(曙)紙」はクレマンソーが創刊したものだ。以下、僕自身の拙論から引用する。

この日、「オーロール(曙)紙」という新聞に、エミール・ゾラの挑戦状「我弾劾す」正式には「共和国大統領フェリックス・フォール閣下への書簡」が掲載された。反響はすさまじく、前年(一八九七年)創刊されたばかりのほとんど無名のこの新聞は一日にして二十万部売りつくされたと言われている。真の意味でのドレフュス事件は、この日に始まる。(『父の肖像』より)

 この日とは、1898年1月13日(木)のことだ。この後、ゾラはイギリスへの亡命を余儀なくされ、クレマンソーは、国に残って反ドレフュス派と闘う。結果は周知の通りドレフュス派の勝利となり、クレマンソーの地位は否が応でも高まるが、政治生活前半に見られた左翼的傾向はなくなり、彼の内閣は労働運動弾圧に転ずる。
 危機に直面した第一次世界大戦時の1917年に首相となり、厭戦気分に陥っている軍の立て直しを厳格な戦争指導によって計り、勝利へと導く。この時、彼は76歳だった。

スリッパ.JPG

死のときまで履いていたスリッパ

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死の日のままに保存されたベッド

 思った通り,見学者は僕一人で、見張りは一階と二階に一人ずつ。暇そうな様子だった。入館料はオーディオ・ガイド付きで6ユーロ。

 ひどく疲れていたが,せっかくだから、東京宮殿内の市立近代美術館に寄った。ここは無料なので気楽に入れる。マチスの巨大なダンスを見,現代芸術を見た。

ダンス.JPG
マチスの「ダンス」

フジタ.JPG
フジタ

モジリアーニ.JPG
モジリアーニ

東京宮殿
東京宮殿


 東京宮殿からアルマ・マルソー駅に向かうと、駅近くに自由の女神像が持つ「炎」が飾られている。その場所が、ダイアナ妃事故死地点に近いので、今や霊廟のようになっている。

ダイアナ.JPG

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パリ旅行記(2007年) | 11:46:45 | Trackback(0) | Comments(0)
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